2011年8月28日日曜日

エア熱唱(続々音楽療法)

 昨日、実母の入所している老人介護施設に「北国の春」の歌詞と譜面を持参した。
北国の春のイメージ(ネットから)
 びっくりしたことは、スタッフが「この歌、知らんわ!」と言ったことだった。
 昭和52年のミリオンセラーを知らんと、・・そんなあほな!

 私の方は、入所者にはこの歌は新しすぎないかと心配して持って行った歌なのに、スタッフは「まだ生れてないわ」と、・・・・・・(これは、私にとっては確かにちょっとしたコペルニクス的なショックだった。)

 日頃は老朗介護のために、少なくともこの施設内では私はいつも自分を「若手」という意識でいたものが、子供たちと同じぐらいかまだ若いスタッフと話してみると、客観的には私は「準入所者」の位置にいるという真実に直面して少し慌てたが、気を取り直して相対的に元気な方々に歌詞付き譜面をお渡しした。

 予想どおり、皆さんはこの歌をご存知でたいそう喜んでいただいた。
 が、「きたぐに~」と大きな声は出し辛いのだろう。見ていると、あちこちで一様に「エア熱唱」が始まった。それぞれの方が譜面を見ながら心の中で熱唱を始められたのだ。
 顔を見ていると、歌っている歌詞のところも判るし、サビの部分ではうっとりされているのも伝わってくる。
 歌い終わった満足感も表情に出ている。確かに歌われていたのだ。

 音楽療法士の方がこの「エア熱唱」を見たら何んと仰るだろう。
 「音のない音楽」は哲学の領域かもしれない。
 まあ何んと分析されようと、・・・確かにこのとき私は「北国の春」の大合唱を聞いていた。

 歌い終わった母が「故郷に帰りたいなあ」としみじみと呟いたのを聞かないふりをしながら、「エア熱唱」の輪の中に文句なしに参加していた。
 「エア熱唱」は、メロディーもリズムも絶対に外れることのない、究極の完璧な大合唱だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?

5 件のコメント:

  1. ユーモアが有り、余韻の残るさすが長谷やんのブログと拝見しました。隠居所の方は雑草、笹とツクツク法師が我が世を謳歌しています。暑さに負け、雑草に負けて蝉の大合唱野の中「夏眠」中です。でも蝉はどう思って鳴くのでしょうあの「必死」とも「わめく」がごとくの鳴き声は何を訴えたいのか・・「涼しくなったら」雑草と笹への復讐を心中に誓って体力不足を嘆く歳になっています。

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  2. 「準入所者」は他人事ではなく、我が身にも。先日、市から「平成23年度敬老の集い」のご案内が届きました。いきなりですよ!せめて事前に「貴方は65歳になられますが、老人扱いしてもよろしいか?」ぐらいの、当方の心の準備をさせるぐらいの配慮があって然るべし、と贅沢に怒っています。

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  3.  誤解を恐れずに言えば、老朗介護の日々は新しい発見の日々でもあり小さな発見をする度に愉快な気分になっています。もちろん毎日がそんなに愉快なわけには行きませんが、親の長寿を嘆くような朗老介護にしないようにと何時も心がけています。
     「エア熱唱もありだな」「音楽療法士なら『声を出しましょう』と言うだろうなあ」と思うと愉快になりました。

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  4. 音楽史家「皆川達夫さん」の話に聞いた事があります。中世ヨーロッパ音楽の理論から、①ムジカ・ムンダーナ=聞こえない音楽=宇宙の星や太陽の動き。②ムジカ・フマーナ=これも聞こえない音楽=人間の精神、肉体(心臓や臓器)のバランスの動き③ムジカ・インストラルメンタリス=聞こえる音楽。の三つに分類して、音楽の素材はこの三つが元として中世(ルネッスサンス前後)の人は音楽を考えていた(教会でを唱っていた)
    と言われていました。人の唄を、音楽を、「聞こえない音楽」の存在も感じる事によって心地よい豊かな音楽として聞けるのでしょう。同感と思いました・・舌足らず!?

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  5.  スノウさんの博学にはいつもながら感心しております。「エアあやや」の連想でしかないブログよりもコメントの方が格段に引き込まれます。

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