2011年8月9日火曜日

日本人少姐的記憶

 実母は明治43年(1910年)生れ。それは中国大陸では清のラストエンペラーの時代。翌年が辛亥革命。1世紀と1年前のことになる。
毎日のように蟹釣をしていた横浜橋

  そして、2月28日と6月23日のブログで触れたが、母はその幼少期を蘇州や上海で過ごしている。
 
 近頃の母は、その頃(大正初期)の上海の夢をよく見るという。
    
 住んでいたのは北四川路で、本を読むと日本人の上層部が住んだ高級住宅地と書かれている。

 日本尋常小学校は4階建てで校門にはインド人の守衛が立っていた(こんな立派な小学校は内地にはなかったのでは?)とか、競馬場や新公園(現魯迅公園)には大人は羽織と白足袋で行ったとか(これは遅れてやってきた日本人が一等国になろうと必死になっていた証し)、日曜日には虹口(ほんきゅう)マーケットで上海蟹を買って来てく
れて美味しかった(現在なら贅沢極まりないが当時はごく普通だった)とか、楽しい思い出が去来するらしい。中には、学校の帰りにフランス租界で迷子になり、言葉が判らず悲しかった思い出も少しあるようだ。

外灘(英語でバンド)


 そして何よりも、晩御飯用の豚肉をチョッとだけ持ち出して、近所の横浜橋(わんぱんじょう)周辺で毎日のように小さな蟹釣りをしてバケツ一杯にした夢を度々見るらしい。
 
 そういう話を聞きながら本を読むと、万博後様変わりした上海という都市が何の不思議でもなくなり、映画の宣伝にもあったようだが、この都市は、1世紀前から既に魔都であり、東洋一の大都市であったことが理解できる。

 今夜も、母の想い出はこの魔都の路地や運河を飛び回っていることだろう。願わくは、楽しい夢であって欲しい。 
 

2 件のコメント:

  1.  何ともスケールの大きい話、と云っても「何とかの大風呂敷」ではなく実寸の思い出ですね。

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  2.  『中国人は直ぐに「排日、排日」と言って物も売って貰えなかったりしたものだが、我が家は皆に親切にしていたので、こっそりと売ってくれていた。』というような思い出もあり、『国どおしでいえば日本は中国の家の中に土足で上がっていたんだよ。』とたしなめると、『それもそうやな』と言うのだが、また別の日には『「排日、排日」と言われたもんや。』と言ったりする。
     比較的、戦後よく勉強した母でもこうであるから、ヒロシマやナガサキやシベリヤ等の被害体験から戦争の体制を告発するとともに、それに倍する加害の実態を庶民レベルで共通認識にすることは、言うほど容易いことではないと今更ながら考え込む。

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