この句について近代文学の浅田隆先生は、「踏みわけ行ったら虫は鳴き止むから、この句は写生とはほど遠い観念的な句である。」と講義されたような記憶がある。
この指摘が、浅田先生の論であるのか、晩年の子規本人若しくは他の人の論であることを解説されたものであったのか、記憶は定かでない。
そしてその時、私は些か同意しかねる気持ちになったことを覚えている。
私が不同意と感じた主旨は、文学論ではもちろんなく、少しの虫の音なら別だが、虫の音の盛りの頃は『踏みわけ行ったぐらいでは鳴き止まないぞ。「踏みわけ行ったら鳴き止むという定説」なるものの方が観念的ではないか。』という感覚だった。
しかし待てよ。虫たちが鳴き止まなくなったのは子供たちが虫捕りを忘れてしまったからかもしれないし、木の上から騒々しくリーリーリーリーと鳴き続けるアオマツムシの大進出の後のことかも知れない。
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秋の虫のいない都会も不自然なら、鳴き止まない郊外も少しおかしくなっているような気がする。各地の様子はどうだろうか。
夜中に目を覚ますと、松虫のチンチロリンという声が聞こえてきた。アオマツムシとは似ても似つかぬ古から続く雅な声だった。
「一番好きな秋の虫は?」と尋ねられたなら、「チンチロリン」と答えようかと思っている。ただし、夜中に草叢にさまよい出て倒れ伏してしまわないように気をつけなければならない。
昔よく歩いた大阪市阿倍野区の松虫は、能の松虫の舞台であり小野小町の塚もあるが、当時は何の感慨もなく歩き回っていた。無知は時間泥棒である。
一昨日の夕方、向かいのロシア領事館の木立から蜩の声が、その前の日に突如、蜩の声が聞こえたので、何処や!と居間に行くと、テレビの旅行番組だったので、また~、と居間に行くとテレビは点いていない、ベランダに出ると、間違いなく聞こえてくる。今まで聞いた事がないので迷い飛んできたのか、ロシア領事館生まれなのか?しばらく聞き惚れていました。
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