2019年3月24日日曜日

長いは短い

 自分のことは棚に上げて思ったことを書く。お許しを!

   若い頃、機関紙学校で「長いは短い」ということを教えてもらった。
 「長い記事は読む人が少ないから記事の長さ×人数でいうと短いが、短い記事は多くの人が読んでくれるから(教宣の)総量では長くなる」というような人情の機微にも通じる話だった。

 よく似たことで私は「怒りの言葉は短い」というようにも感じている。これは「メッセージの伝え方」という側面から感じる人情の機微である。少なからず「その怒りは解った解った」で終わってしまわないだろうか。
 また、「何でも反対の〇〇」というような、事実とは異なる卑劣な宣伝にも「何となくそうだ」という風に利用されないか。
 と思うと、相手の心に残る(響く)言葉は怒りの言葉ではないように思うのだが。

 先輩から「キャッチボールは相手の捕りやすいところへ投げるんやで」と教えてもらったことがある。蘊蓄のある助言だと噛み締めている。
 些細なことだが、「府民の良識を示そうではありませんか!」という言い回しも何か上から目線や同意の強要にかんじるという素直な指摘もある。

 自分のことを棚に置いて語るのは心苦しいし、先日の「つどい」の案内状に「おぼしきこと言はぬは腹膨るるわざなれば集はむとぞ思ふ」と書き、看板には「#(ハッシュタグ)あきらめないが方程式 あの人に芽吹きの音を届けよう」としたのも、「解り難い」「廻りくどい」と批判も受けている。難しいが、”文句言われているうちが華”と居直ろう。

 ニュースの発行の場合も、私は記事以上に「送付状」が大切だと繰り返し語ってきたのだが、まだ多くの人には理解されてはいない。私の言葉が届いていない。
 受け止めてくれた友人は、ニュース送付の翌日に送付状だけ皆に送ってくれた。すごいことだ。その真摯な態度に敬服している。
 結局いずれにしても文章の巧拙ではなくて人柄の問題だというと実も蓋もないが、正味のところはそうではないだろうか。反省と日々研鑽!

 私はフェースブックでは市田忠義さんや大門みきしさんの投稿が好きである。
 社会問題に参考になるデータとして重宝というよりも、その人柄や生きざまに触れて感銘を受けるからである。
 3月20日の大門さんのフェースブックはこうだった。

 『きょうの参議院財政金融委員会。維新の会の藤巻健史議員(著名な株式トレーダーでたいへんな資産家)が麻生財務大臣にこう質問しました。
 藤巻健史議員「きのう大門先生から、格差是正のためにも富裕層に課税すべきだという話がありましたが、富裕層はそんなに数がいないから、課税しても大した税収になりません。それより消費税で国民多数から取ったほうが税収になる。大門先生のことは好きですが(場内爆笑)、金融課税はやめるべきだと思うが、大臣どうですか」
 麻生財務大臣「…財務省としては、やはり所得の再分配は重要だと考えております」
 そのあと、わたしが質問でしたので、冒頭、こういいました。
 大門みきし議員「さきほど、格差是正についてお話がありましたので、ひとこと申し上げます。私も藤巻さんのことは好きですが(場内爆笑)、藤巻さんと私の間そのものに、所得格差があるわけで(爆笑)、とらえ方に違いがあるのは仕方がありません。まあ、階級闘争ということでございます(大爆笑)」
 いちばん大笑いしていたのは麻生大臣でした。
 笑いながらも、じつは久しぶりに階級闘争を実感した場面でした』

 さて、俳論には門外漢の私だが、聞きかじった範囲では、芭蕉が晩年に到達した心境・作風は「軽み」だと聞いている。
 大門質問にはそれに通じるような「軽み」が感じられて好もしい。
 その対局のように生臭い自分だが、大いに学びたいと思っている。

   子らの声街に生気や春休み

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