2017年1月3日火曜日

加害者にもなりたくない


 箪笥の奥から、父親が陸軍大臣からもらった感謝状が出てきた。
 昭和12年というから、7月に盧溝橋事件が起き、日本軍が北支に展開し、8月には第二次上海事件で中支にも展開したいわゆる支那事変(日中戦争)勃発の年である。
 このときも戦争とは言わず「事変」であったのだ。
 (「武器」は「防衛装備」、「戦闘」は「衝突」。ああ、なんという再現ドラマをいま我々は見ているのだろう)
 他の日付の大阪府知事の感謝状もあるから、このときの恤兵金(じゅっぺいきん)は大臣感謝状に値するほど多額だったのだろう。
 (「じゅっぺい」という言葉は辞書を引いて今回初めて知った)

 後の日付の銅や鉄の供出の「特別回収買上傳票」も出てきたし、戦時国債も大量に購入したと小さいときによく聞いた。
 
 このことから、わが父親も戦争被害者であったというのは容易いが、しかし、この恤兵金は戦争遂行に使用されたのだし、もっと言えば、中国人や他の国の人々の殺人に寄与したことにならないか。

 旧冬26日に「(ヤマトンチュウが)沖縄(ウチナー)に対する不当で差別的な安倍政権に無批判であってはいけない」という主旨の記事を書いたが、およそ庶民は被害者であるとともに加害者になってしまっていることが少なくない。本人の意思とは別にのことである。
 「知らんかった!で済んだら警察はいらん」という漫才があったが、21世紀に生きる我々がそんな風であってはしょうがないだろう。

 さて、「今頃何を言うねん」と言われるかもしれないが、人間という尺度で先の戦争の歴史を自分なりに解りかけてきたのはつい最近のことである。
 それは、勉強の末、データや知識の集積というようなものではなく、自分が積み重ねてきた人生経験に照らして70数年前の歴史の諸事実が人間の弱さとして納得できるようになったからだと思う。
 数え歳では元日に歳をとったのだが、歳をとるのも悪くはない。歴史が映像のように理解できるようになるのだからと言ったらやせ我慢か。
  
    正月や未来は希望と孫に言ひ

1 件のコメント:

  1.  昭和12年12月には南京大虐殺があった。南京城攻撃を指揮した第30旅団長佐々木到一陸軍少将著「ある軍人の自伝」には、「俘虜ぞくぞく投降し来り数千に達す。激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛惨をかえりみれば、兵隊ならずとも〈皆やってしまえ〉といいたくなる。白米はもはや1粒もなく、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我軍にはないはずだった」と記されている。
     もっと残酷な証言は、法廷や朝日新聞今井正剛従軍記者の記録に山ほどあり、同盟国であるナチス・ドイツ政府の代表すらが本国への報告に、日本軍を「畜生のような集団」だと報告した。
     日本会議の櫻井よしこなどは「日本人がそんなことをするはずがない」というが、日本軍が大規模の証拠隠滅をしたことの推定はこれまでの記事に書いた。

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