1月28日に藤原宮大極殿院東門跡の現地説明会もあったが、メジャーなものとマイナーなものが重なると、いきおいマイナーな方を応援したくなる性癖で、木津川市の「岡田国遺跡現地説明会」に電動アシスト自転車を駆って駆け付けた(これも重言?)。
前日、呑み会の席で「明日は恭仁京(くにきょう)の現地説明会に行こうかな」と言ったところ、「恭仁京って何?」と聞かれたが、それほどマイナーな京(みやこ)なのだろう。
平城京(ならのみやこ)や大仏で有名な聖武天皇は天平12年(740)10月29日に平城京から伊勢や美濃や近江を巡る旅に出立し、12月15日山背国南端、恭仁郷泉川(木津川)に到着して遷都した。恭仁宮・京である。一定程度造営は進んだ。
その後、近江の紫香楽宮の離宮を造営し、天平16年(744)には難波宮に遷都した。その間にも甲賀宮の造営を開始したり、平城京に帰ったりで、俗に聖武天皇の彷徨と言われている。
要するに、短期間ではあったが明確に山背国恭仁郷は首都であったのである。
で、今回の発掘現場は、足利健亮氏の復元案では恭仁京右京の九条あたりとなり、奈良時代の建物群、平城京の小路と同じ規格の道路、墨書土器が検出され、特に道路には荷車等の轍が出ている。
なので、多くの参加者の興味も「恭仁京の条坊か?」にあったが、恭仁京の発掘はあまり進んでいないため、考古学者の回答は「可能性もある」程度に止まっている。
今回の発掘を担当した京都府埋蔵文化財調査研究センターの現地説明会はなかなか粋な計らいで、発掘された道路、つまり奈良時代の人々が歩き荷車を引いていた道路面に降りて歩かせてくれたことが新鮮だった。
私としても、条坊跡だったら楽しいなあと思いつつも、次の発掘成果を待つしかないと納得した。
元に戻って、「聖武天皇はなぜ平城京を捨てて?恭仁京に遷都したのか」については百家争鳴の感もあるが、私は遣唐使による「唐の王は首都長安以外に副都を造っております」「副都洛陽の真ん中には大河(洛水)があります」という報告に触発されて国造りを考えたという説にひかれている。
洛陽城と同じように、恭仁京の真ん中には泉川(木津川)が京を横断している。
四四半期発掘現場にドラマ聞く
恭仁宮大極殿は平城宮のそれを解体して移築された。その基壇や礎石は後に山城国分寺金堂となって今に残っている。その礎石から種々検討されて現在の平城宮跡の大極殿が復元されたので、恭仁宮様様だということを忘れないでほしい。
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