そこでは神武から16代(神功皇后を含めると17代)仁徳までのうち12名の年齢が100歳を超えていることも書いた。
だから、日本書紀を神話として語ることは良いが、記載内容を文字どおり史実として語ることは非常識である。
1年(歳)を太陽暦の1年と勘定するならこのことに異論のある方はいないだろう。1歳を太陽暦1年としているからこそ紀元前660年となる。半年で1歳と数えるという説もあるが、その説でいくと100歳未満になるが紀元前660年まで遡らない。
余談ながら、「紀元節派」の方々がそれほどまでに無理をして辿り着いた皇紀元年がようやく西暦紀元前660年である。
因みに彼らが口汚く侮蔑する中国大陸で文字が作られたのは殷王朝で、今から「2,676年」をはるかに超えた3,000年以上前である。
最新のニュースでは、イラク南部にあったバビロニアでは、紀元前660年ではないが、紀元前350年~50年と見られる粘土板によると、木星の位置を算術の方法ではなく幾何学的な計算で導き出していた。
何も自虐することはないが、素直な眼で見れば日本列島の歴史はそういう位置にある。
さはさりながら、その多くのフィクションの故をもって、記紀の記述の100%が机上で創作された物語だと津田左右吉的に掃いて捨てるのも如何かと私は思っている。
考古学の成果で検証しながら記紀の隅々にある歴史の断片をつなぎ合わせる研究があってよいと思っている。
だから私は、古事記の序文に書いてある諸家に伝わっていた帝紀や本辭は当時はあっただろうと考える方が素直だと考える。
5世紀後半製作と言われている埼玉稲荷山鉄剣の銘文で「自分はヲワケで雄略天皇に仕え、8代前の祖先はオオヒコだ」というオオヒコは、書紀に書かれた崇仁天皇の将軍であったオオヒコであっただろう。
ヲワケですらが8代前の祖先の伝承を持っていたのであるから、大王家には当然その種の記憶が引継がれていただろう。
壬申の乱(672)の最中に大海人軍は神武天皇陵に馬や武器を奉納したとあるのは、少なくともその当時に、「神武天皇が皇祖であり、その御陵と称するもの」が信じられていた証拠だろう。
なので、百済記の記す「沙至比跪」も記紀の葛城襲津彦のどれかと一緒だろう(襲津彦は数代襲名していたに違いない?)。
第19代允恭天皇5年に天皇が葛城襲津彦の孫の玉田宿禰を殺そうとしたとき、玉田宿禰は武内宿禰の墓に逃げ込んだとの記述もあり、これも、武内宿禰の墓(古墳?)と言われているものが当時あったこと、そこがアジールであったことが認められるが、このことは、応神天皇の実父と推測される(母は神功皇后、応神は仲哀の死後10カ月以上経ってから誕生)武内宿禰や神功皇后の実在も想像させる(ここは異論も多いが私はそのように想像する)。
いわゆる天皇陵が考古学的に調査できず立入禁止になっているため大きな障害があるが、古代史と書紀の記述は今後少しずつ解き明かされるに違いない。
だから建国記念の日の問題の所在は古代史にあるのでない。
問題は、多くのフィクションで装飾された神話を「史実である」として教え込み、批判を暴力で封じ込め、その上に「現人神」「神国」思想で裏打ちされた軍国主義を反省するのかしないのかという一点にあると考える。
繰り返すがテーマは近代史なのである。古代史は議論し論争すればよい。私は何人もの天皇が100歳を大幅に超えて生きたとは信じないが・・・。
今年の国会の始まりの始まりが自民党進藤議員の「今年は皇紀2676年」の発言からスタートし、安倍首相が非常事態法=戒厳令を含む憲法改正を公言した今日、今年の建国記念の日に何の意思表示もせずに拱手傍観していてはならないと私は思う。
7月には参議院選挙、場合によっては同時選挙がある。
政府は選挙前に3万円をばら撒き、政治の行き詰まりを全て官僚及び公務員労働者のせいにする大キャンペーンで世論を誘導するだろう。
惑わされてはならない。争点は、「海外派兵容認の解釈改憲の閣議決定の撤回」、「戦争法案の廃止」である。
そこを押さえたうえでアベノミクスの批判や積極的経済政策を語らなければならないと、建国記念の日を目前にして思う。
日本書紀に「辛酉年春正月庚辰朔 天皇橿原宮卽帝位 是歳天皇元年為」とある辛酉の年とは、中国の「天命が改まる年」「王朝が交代する革命の年」という「辛酉革命」の思想に基づいて逆算されたというのが定説です。
返信削除嫌中国や押しつけ憲法を非難する方々が、こういう100%中国発の思想に基づく紀元「説」をありがたがるのも不思議です。