2016年2月4日木曜日

鬼の話、豆撒きの話

神門の守護神
  前の記事の続きになる。

 我が国の公式歴史書?である続日本紀には文武天皇3年(699)に役小角のことが書かれていて、そこには「鬼神を使役していた」とある。
 歴史書ではないが史料として侮りがたい日本霊異記第28にも詳しい。

 その鬼を捕まえたところが現奈良県生駒市鬼取町の鬼取寺(現鶴林寺)で、前鬼(ぜんき)はその後現奈良県吉野郡下北山村前鬼に、後鬼(ごき)は現吉野郡天川村洞川に住んだという。
 役小角は前鬼、後鬼以外にも諸々の鬼を使ったというから、鬼取町近くの暗峠沿いの街道で、秘伝の和薬を旅人に施していたと生駒市史に載っている妻の曽祖父は諸鬼の後裔だろうと以前に書いた。

 この限りでは、その昔の生駒山中の鬼は里の水稲文化と異なる山人だっただろうと推測できる(曽祖父は普通の水田農家だったが)。要するに、多数派、主流派が、異なる文化に属する人々を差別した思想ではないだろうか。
 弥生文化と縄文文化というほど単純なものではないが、古代の国家が成立していく過程で多くの戦があり、その結果、まつろわぬ民、敗れた民も鬼とされたことは間違いない。
 さらには、権力闘争の犠牲になり非業の死を得た者も怨霊となり鬼とされたのはいうまでもない。

  そういうものが、風水害や疫病等をもたらしたと観念された素朴な鬼とないまぜになって今日があるように思う。
 前者の鬼に関わって言えば、総じて、「勝ち組」の方が鬼よりも悪人であることが多い。

 ただ世の中が単純でないことは、孫の父親つまり娘の婿の氏名は源頼光の四天王の一人である。テレビでは、その名を聞くだけで鬼は近寄らないから豆撒きすら不要という。
 ああ、鬼の末裔の子(娘)が鬼退治の後裔と結婚したわけで愉快である。
 というように整理したうえで、後者の素朴な鬼にだけ向かって昨夜「鬼は外」と豆撒きをした。
 1歳にも満たない孫は持ちやすいのか矛を握りしめて、別の手で豆を一粒一粒打ってくれた。
 世の中には、クリスマスやバレンタインはするが節分はしないという無国籍日本人が増えている。そんなことを毒づきながら楽しい節分行事を滞りなく執行した。

 次いで「戌亥の隅」についていえば、ここを清浄に保つことによって福を招くという考えが、この国では終戦直後までは一般的であった。それを鬼門ならぬ「神門」という。
 我が家ではこの神門を、18世紀フランスのアレグランによる水浴の女神が守っていてくれている(ただし、建ててからそこが神門にあたると解っただけのアトヅケである)。
 ただし、「その像は何ですか」と人に聞かれたら、私は神門の守り神とは言わずに「妻です」と答えている。

  さて、イクジイは図書館にも行けず勉強は進まないが、概要程度を学ぶにはネットの力は素晴らしい(そんなことを「学ぶ」などというとおこがましいが)。
 たまたま書棚の大森志郎著「歴史と民俗学」という古い本を引っ張り出して読んでみると、豆撒きの最も古い文献は花営三代記(足利義満から3代の記録)とあった。
 そこからネットで追いかけると、応永32(1425)年1月8日に「節分大豆打役(の)照心(が)カチクリ(を)打(った)」とあり、同じことは看聞御記にも「抑鬼豆打事近年」とあり、臥雲日件録の文安4(1447)年12月22日に「明日立春故及昏景家毎室散放豆」「因唱鬼外服内」と出てきた。花営三代記は原本の写真で読むことができた。
 これで、少なくとも室町時代には各家で「鬼は外、福は内」と唱えて豆撒きをしていたことが解った。
 ちょっとだけスッキリした。

2 件のコメント:

  1.  そう言われてみれば、長谷やん所の「神門の守護神」は奥さんにそっくりです。鬼の末裔の嫁さんの像なら、「戌亥の隅」も確実に清浄してくれていると思います。
     豆まきが室町時代から行われていたことや、秘伝の和薬を処方する者が「鬼」と呼ばれるようになった事など、知らないことを色々勉強させていただきました。

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  2.  バラやん、コメントありがとうございます。
     「保守対革新」といわれる言葉はあまり好きではありません。政治の革新を願うことと民俗行事の保守を愛することとは全く矛盾しません。
     自民党・日本会議に代表される思想は保守でもなく、日本史の中では異常な一時期であった明治から終戦までの絶対的天皇制への復古思想と、アメリカに尻尾を振る卑しい根性が合わさったものです。
     なので、革新とか民主主義を唱える人々は、もっと民俗行事を大事にすればいいのにと思っています。

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