2024年6月26日水曜日

生駒一揆

   近世・近代の生駒の歴史を学ぶ機会があり、幕末に「矢野騒動」と呼ばれる生駒の世直し一揆があったことを初めて知った。

 江戸時代、生駒の領主は複数入り組んで分割支配していたが、一番主たる領主は旗本松平氏(藤井松平氏の一族)5,000石で、代官は大庄屋の矢野氏が担っていた。
 どこの領主も江戸中期からは財政事情が悪化していたが、これといった特産品のない生駒はそれが顕著で、幕末には御用金の賦課、他地域への村人の徴発も加わり、開国後のインフレも相まって村人の暮らしはさらに困難になっていた。

 耐えかねた百姓たちは、新政府の有力藩の長州藩大阪役所に越訴することになり、首謀者が特定されないよう写真のような傘状連判状に署名捺印した。
 これを受け、長州藩兵50人が派遣され、領民数百人と合流して陣屋に向かい、代官矢野氏は身柄を拘束された。ただし、これまでの未払い代金は支払われたが、新政府も財政難で年貢は下げられなかった。
 このように不十分な結末ではあったが、自分たちで領主の悪政を告発し、あまり犠牲を出さずに領主を交代させたという、珍しい一揆の成功例であった。

 妻の実家は生駒であり、村の庄屋であったというからこの一揆には微妙な立場であっただろうが、村ごとに傘状連判状がまとめられたところを見ると、まとめ役として百姓の力になったのではないかと推測される。事実、代官派として追放されたりせず、マッカーサーの指令までは地主であった。(写真の連判状の村ではない)続きは追って・・・。

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