昨日「水無月の夏越しの祓」を報告?したが、その中に「人形(ひとがた)を耳に当てて半年間に耳に届いた穢れた言葉を祓いましょう」というのがあった。
聞き捨てならぬ政治がらみの「穢れた言葉」の数々は心底「祓給へ清給へ」と思っているが、問題を「人形」と神々に全てお任せするのは無責任になるだろう。
そういえば朝日新聞に週一度掲載される「朝日歌壇、朝日俳壇」に、戦争になぜ反対をしなかったそう賢(さか)しげに我らいったはず(大和市・春原正彦)というのもあった。
そう、祓えないもの、流してはいけないものがある。
安倍首相らの不誠実な国会答弁には、絶対にないといふけど私には十三の夏の日がよみがへる(香取市・鎌形てる)が的確な返歌になっている。
俳句では、兄吹きし草笛いつも海行かば(神戸市・日下徳一)が静かに甦りつつあるあの時代を告発しているように思え、派兵てふ怖い話や囮鮎(おとりあゆ)(野洲市・深田清志)は眼前の課題を厳しくえぐっている。
私は決してその紙面の熱心な読者ではないが、朝日歌壇、朝日俳壇に届く民の声には人間味があるように思う。
だからこそ、与党自民党と政府は、「マスコミを懲らしめたい」と考え、国立大学の文系学部を廃止せよと考えているのだろう。
こういうのを時代の先取りと言っていいのか、さいたま市の公民館では、梅雨空に九条守れの女性デモ という俳句が公民館月報に政治的との理由で掲載を拒否されている。
私は戦争そのものを体験してはいないが妹尾河童著「少年H」等々でモノ言えぬ時代の怖さを知っているつもりだ。
また若い頃関西一円で起った部落解放同盟による暴力的糾弾行動などに、一切のマスコミが屈し沈黙ないしは加担した酷さは実体験している。
今日、こんな酷い権力の暴走を目のあたりにして、それでも声をあげることに躊躇している人々の心の中には、あの糾弾闘争なる時代の酷さ、そして不正義とマスコミが一体化したときの怖さが深層にあるからではないか。
そうだとしたら、再びそのようにならないように今こそ声をあげるべき時ではないだろうか。
多くの人々が告発しているので私が今更繰り返す必要もないが、言論の自由は命と同じぐらい大事だろう。
戦時体制はそれを拒否する自由を与えないものだ。
「度胸をつけるため」に庶民を殺せといい、「敵に見つからないよう」赤児の殺害を命じるのが戦争のリアルだ。
もう一度、大和市・春原正彦氏の短歌を読み返してみよう。
戦争になぜ反対をしなかったそう賢(さか)しげに我らいったはず
「塔短歌会」前主宰、歌人の永田和宏氏が京都民報に寄稿されていました。「ものを言えなくする方法は2つです。1つは「言ってはいけない」と抑圧する。もう一つは、キャッチフレーズのような言葉でみんなを1つの方向に駆り立てる。・・「八紘一宇」もその典型例です。・・何度も小出しにされると抵抗感が麻痺してしまう。鈍感になっていく時代は非常に怖いです。・・言葉が本来の立ち姿であり続けられるよう、無力化する動きに執拗に反論していくつもりです。」と。
返信削除そして、【なによりも先に言葉が奪われて言葉が民衆を追い立てるのだ】と歌っておられた。