先ず、私の出生地「盾津(たてつ)」にあった「盾津飛行場」は、昭和9年から終戦まで存在したということがあまり知られていない、ちょっとマニアックな幻の飛行場である。
場所は、現在の東大阪市の新庄、本庄、盾津中学校、機械団地、トラックターミナル辺り。
砂利を敷き詰めただけの草っ原だったらしいが、昭和12年東京~ロンドン間94時間余の国際新記録を樹立した「神風号」も、その際にこの飛行場に離着陸したと言われている。
次に、松下飛行機㈱は、軍が松下幸之助氏に作らせて、昭和18年から終戦まで存在した。(昭和17年からと書いてある資料もある)
場所は、現在の住道のサンヨー大東事業所と鴻池新田のサティ付近らしい。
工場と盾津飛行場間には誘導路があったらしいが正確には解からない。(私が知らないという意味で「解からない」)
そして、右の2枚の写真は我が家にあるもので「松下飛行機㈱地鎮祭式場」。
下の左の写真は、ネットからもらったものだが、昭和20年1月に1号機が完成した松下飛行機㈱製の木製の爆撃機「明星」。
この飛行機の完成記念品であるフィギュアは、私の子の世代の筆頭男子である甥が持っている。
下の右の写真は、「明星」のコンパスと高度計(気圧計)の実物。
これは今でも現物が我が家の押入れの奥に鎮座している。
と、・・お察しのとおり私の父は松下飛行機㈱の幹部社員であった。
しかし、終戦後は松下グループに残らず、私が小学生のうちに亡くなったので、今ここで書けるような話を私は何も聞いていない。
ただ、この「明星」を父は「赤とんぼ」と呼んでいたから、関係者間ではそういう愛称で通っていたのかもしれない。
明治生まれの母も、父の仕事のことは全く聞かされておらず、ただ、「飛行場の周辺にはベニヤ板の工場がいっぱいあった。」と傍証するだけである。
国立国会図書館関西館にも行ってみたが、「その時代の飛行場や飛行機工場は軍事機密という事で資料が残っていない。」と言われてしまった。ちょっと寂しい気持ちもする。そういえば、父が、終戦時に考えられないほど膨大な資料を焼却したと言っていたことを思い出す。
だが、・・・戦争末期の木製飛行機である。・・・常識的に考えれば幹部社員の間では「“特攻機”を作っている」との意識があったかも知れず、「資料がない」という現実にホッとする気もないではないが、近頃はやりのドラマのようにタイムスリップしてみたい気も半分ある。逝った父には口がないが、歴史の真実は一体どうだったのだろうか。
ネットの「明星」 |
左が高度計 右は方位計 |
ウム―謎めいてまいりますなーお父上は一体何者?それはさておき、盾津飛行場の存在は全く知りませんでした。私の母校、志紀中学校のすぐ横が八尾飛行場でした。(戦争中は大正飛行場と呼ばれていた。)中学生の頃は進駐軍も撤退していましたから、民間の飛行場でのんびりしたもので、広い滑走路を自転車で走り回っていました。走りつかれると、セスナの主翼の下に立ち、プロペラの風を受け、前傾姿勢でどこまで耐えられるか競争したものでした。今、考えると恐ろしい遊びですが私の飛行機好きはその頃に育成された物かもしれません。
返信削除セスナの風圧競争・・・いいですね。児童文学のワンシーンのように想像されます。子供は「してはいけない冒険」をしながら大人になっていくのでしょう。
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