2011年7月30日土曜日

空蝉集会の実況中継

 今朝は、老人介護施設の庭にもシャワーのように蝉時雨が降り注いでいたので、木の幹にへばり付いていた油蝉をヒョイと手で獲って建物に入って行った。
 油蝉は、建物の中に持って入ると、ギーーっ ギーーっ と大きな声で鳴き叫び、ペットの猫が顔を引きつらせて逃げていった。
 ところが、母の部屋の方々は、この強烈な鳴き声がほとんどの方には聞こえ辛そうで、「今、庭で獲りました。外は蝉時雨です。夏本番。」と言いながら、順番に見せてから耳のすぐそばに持っていったら「蝉の声だ!」「鳴いてる鳴いてる」と喜ばれ、夏を実感してもらえたようだった。(冷暖房完備の部屋で耳も遠いと季節の変化もなかなか実感できないようだ。)

 そして、おまけに持って入った空蝉は本物以上に好評で、「空蝉の集会だ。」・・「そうだそうだ。」「いや違う。」「それはいい。」「そうしよう そうしよう。」「楽しいな。」という空蝉の会話の実況中継が始まった。(・・・と、まるで、そのような会話が弾んでいるようだね・・というはなし・・・)
 その感性の豊かさにはいつもながら驚かされる。
 耳も遠く、記憶も忘れがちで、言語も困難な老人達だが、だからと言って、外見のように幼児になったわけではないという至極当たり前のことを再認識。
 片や、こういう感性を忘れた非老人(会社人間)と、どちらを健常者と言えばいいのだろうと笑ってしまう。
 とは言うものの、偉そうなことはいえず、会話が通らずにイラっとすると、ともすると子供に話すような口ぶりになりやすく、老朗介護も実際には難しいことがいっぱいである。

2011年7月28日木曜日

茅の輪めぐり

 どういうわけか今年の夏は「茅の輪くぐり」と縁があった。
 「茅の輪めぐり」といった感じである。
 7月1日のブログで報告したのは春日大社の「夏越大祓式(なごしのおおはらえしき)」、18日のブログで報告したのは法華寺の「蓮華会式(れんげえしき)」、そして今日、東大寺であったのが「解除会(けじょえ)」である。

 平日の朝8時に行なわれるためか、これが、法華寺の「蓮華会式」を上回る(下回る?)“ほどほどの参加者数”で、南都の寺社のおおらかさというか、商売下手というか、見学者の数などという、そういう下世話な心配をはるか超越して大仏前で粛々と執行されていた。

 参加者は適当に腰を下ろしたり、朝方の涼しい風を楽しんで、3~4回も茅の輪をくぐって、数年分の無病息災のバーゲンセールに満足した朝だった。

 「そうだ折角だから」と裏に廻って、いつもは修学旅行生で大混雑の、大仏の鼻の穴と同じといわれる柱くぐりに挑戦したが、肩が詰って(腹ではない)撤退し、茅の輪1回分の“ご利益”を手放してしまった。
 
 正午のNHKニュースで茅の輪に向う私が映っていたが、柱の穴でもがいているところが映されなくてよかった。

2011年7月25日月曜日

極楽トンボ

 「極楽トンボ」。広辞苑によれば「うわついたのんき者をののしっていう語」とあり、大阪ことば事典を見ると「艶双蝶紋日(いろくらべちょうのもんび)」の台詞にもあるらしい。

 しかし、そもトンボは、多くの銅鐸の表面に登場し、記紀は、雄略天皇がアブに刺されそうになったのをトンボが食べたからとか、神武天皇が丘の上から眺めた地形がトンボの交尾の姿に似ていたからとかと言って、この国のことを「秋津=トンボの古語」を冠して秋津洲・蜻蛉洲(あきつしま)と呼んだりしているし、トンボ(赤トンボ)が山の上から秋の田圃に降りてきて害虫を食べてくれるさまを見て、弥生の人々が「田の神」「神の使い」と理解したであろうことは十分納得させられることである。
 だとすると、このようにある種神聖視されているトンボが、ある種の蔑称である「極楽トンボ」という語に使われているのは何故だろう。

 泉麻人著「東京少年昆虫図鑑」(新潮OH文庫)の「オハグロトンボの伝説」の中に、「カミサマトンボ、ホトケトンボなどの呼び名がある」「捕まえるとバチが当るという言い伝えがある」とあるから、ちょっとこのハグロトンボには他とは違うイメージがあるようだが、それでも、ある種の蔑称に転化した理由はわからない。 
 あえて想像すれば、フワフワと、トンボであってトンボでないような、このハグロトンボの浮世離れをした飛びかたこそが、神聖トンボ王国の中の「うわついたのんき者」に見えたのではなかったか。ご存知の方は教えて欲しい。


 昔少年は、ヤンマとオハグロだけは今でも採りたい衝動に駆られてしまう。
 明らかなことは、東日本の状況の向こうで、このようなテーマに悩んでいる者のことを、人は極楽トンボと呼ぶことである。

  7.28右の写真を追加

2011年7月23日土曜日

特許 ヨーヨー釣り車

 光陰矢のごとし。ついこの間、学童保育の父母会をしていたと思ったら、あっという間に老人介護施設の家族会をするようになっていた。ただし、こちら(家族会)の方は全くの新米である。
百均で購入した鳴子
施設に持ち込んで
楽しんでいる
 しかし、新米の素人ほど強いものはなく、家族会の役員会で「夏祭りに家族会としてヨーヨー釣りをするらしいが、よほど丈夫な紙縒り(こより)にしないと入所者には難しいのでは?」と言ったところ、「入所者には元々無理だから、ヨーヨー釣りは近所の子供相手にするのだ」との回答だった☆△$¥%??。
 ちょっと、ちょっと、それはないでしょう! ということで、今年は台車に盥(たらい)を積んで、ヨーヨー釣りの出前もすることに決定した。
 「ヨーヨーが割れて体が濡れたらどうしよう」とか、いろいろ議論は尽きないけれど、「それも思い出になるでしょう」という、相当強引な理屈で決定した。
 
8月9日に写真をアップしました
 そして今日がその夏祭りで、出前ヨーヨー釣り(台)車を出動させてきた。
 最初は皆さんの顔に、不自由な手の恥じらいがあったり、そもそも「ヨーヨー釣りをしましょう」という意味が解からなかったり、いろんな心の躊躇が見られたが、それまで八割方“祭の観客”でしかなかった入所者が、直接イベントに“参加”した喜びはひとしおらしく、釣れたヨーヨーを「おめでとうございます」と差し上げたら、全ての方々が満面の笑みで応えて頂いた。
 
 何も知らない素人だから、「出前ヨーヨー釣り車」ってちょっとした発想の特許でないかと自画自賛しているが、「そんなこと既にしているわ・・」と介護のプロや他の施設には笑われることだろう。

2011年7月21日木曜日

蜩の声は涼しい?

 台風一過、蝉と子供の声が帰ってきた。
 私は基本的に都会っ子であったので、蜩(ひぐらし)というと、山間の、裏に川が流れている旅館に泊まったときに川の向こうから聞こえてくる、夕暮れを告げる時の声というのが、文句なく頭の中に浮かんでくるシーンである。
 だから、あのカナカナカナカナ・・は、旅情も加味された少し物悲しくて涼やかな、チョッとその筋の琴線に触れる感情と切り離しがたく結びついている。
 そして、こういう連想は、元日の朝に何となく目出度く感じるような、全ての日本人に共通するメンタルだと信じて疑っていなかった。
 ところが赤目の旅館に泊まったときに、蜩が夜明け前にも大合唱をするのを初めて知った。
 日中の蝉の大合唱には「蝉時雨」という粋な名前がついているのに、この夜明け前の大合唱には名前がないのだろうか。ヒグラシスコールとか。夜明け時ではあるがスコールがピッタリのまるで豪雨
のようなものだった。

これはクマゼミ
  そして旅館の主人と話をすると、「私等は蜩の声を聞くと、わあ今日も暑い一日が始まるなあとうんざりする」と、朝であれ夕暮れであれ、蜩の声を語るそこには一片の物悲しさも涼やかさも含まれてはいなかった。正直に言って驚いた。
 狭い経験でものごとを決め付けてはならないものだとつくづく反省させられた。
 蝉の季節が始まると、そんな思い出がよみがえってくる。
7.22追加した写真「私が蜩です」
7.22PS 今日は、珍しく最高気温が30度に達しない薄曇りの一日だったので、奈良公園を散歩した。
 たまに厚い雲に覆われ原生林が暗くなると蜩の大合唱が起こり、明るくなると嘘のように鳴き止んだ。
 ということは、彼奴らは体内時計で鳴くのでなく、光の変化を考慮?して鳴いているらしい。
 それにしても、何故明るいと鳴かずに夕暮れの条件で鳴くのだろう。白昼公然と鳴くと鳥に喰われ易いと遺伝子が学習したのだろうか。解からない。
 

2011年7月20日水曜日

祝 なでしこ

 老人介護の施設で「なでしこジャパンが世界一になったよ」と言うと、お婆さん方が万歳をしたり拍手をしたりして心から喜んだ。
 女子サッカーなんて見たこともないだろうに、どうしてこんなに喜ぶのだろう。
 何でもいいから目出度い話題に飢えていたのか、娘時代にいやと言うほど刷り込まれていた愛国心の発露なのだろうか。解からない。
 家族としては入所者が少しでも機嫌のいいのが一番で、「大人と子供ほど体格が違った」とか、「日本女子の度胸も世界水準だ」とか、出来るだけ楽しい解説をして帰ってきた。
 門外漢ながら、日本チームの勝因は、諦めなかったことと挑戦者のダメモト精神で、アメリカチームの敗因は、二度にわたる逃げ切り作戦の油断というか驕りだったと思う。
 その結果として、PK戦では攻守の精神が逆転していたように思われ、本番に弱いと言われ続けてきた日本スポーツ界の負の伝統が乗り越えられた一瞬であったように感じる。ちょっとした人生訓のような試合であった。
 
 ということで、「祝なでしこ」に因んで、相当ピークを過ぎた感のある我が家の白色撫子の写真を撮った。
 「常夏」との異名もとっているほどに夏から秋に向けて花期の長いのが嬉しいし、その色も気に入っている。

2011年7月18日月曜日

贅沢な夕涼み

 考えようによっては贅沢であるが、昨夕は妻と一緒に、ちょっと法華寺の「蓮華会式」まで夕涼みに行ってきた。
 駐車場も拝観も全て無料になっており、おまけに奈良県指定文化財である光月亭でゆっくりと「小豆粥」の接待まで受けて来た。あまりのサービスに少し恐縮してしまうほどである。
 法華寺は、総国分寺である東大寺とペアである総国分尼寺で、聖武天皇、光明皇后発願の門跡寺院として1300年近い歴史がある国宝や重文だらけのお寺である。
 そういうお寺が、観光行事に流されることもなく、やたら閉鎖的な行事にもせず、ほどほどの参加者を迎えて庶民的な燈籠行事と茅の輪行事を中心とした法要を行なっているところが素晴らしい。
 「お寺で茅の輪?」と思わなくもないが、そもそも明治の神仏分離令が無茶であったので、神仏混淆の姿こそが長いこの国の歴史を貫く一般的な意識だったのだと思う。
虎模様の斑入り茅萱
の茅の輪
 
  奈良県が、「記紀編纂1300年プロジェクト」のような構想を打ち上げているが、それが記紀の記述内容の無批判な肯定と明治的皇国史観の復活に手を貸すことにならないかと心配する。
 そういえば、法華寺は、葛城や三輪や蘇我や物部の歴史を消し去り、万世一系の神話(記紀)を創設した陰の実力者・藤原不比等の屋敷跡であった。


2011年7月16日土曜日

盆踊りに神仏がいた頃

 近鉄奈良線で大阪に通勤している人は、瓢箪山駅を出てから直ぐ南側の窓の外に大きなグランドと鉄製の工作物を見るともなく見ているが、その工作物こそは何を隠そう1年に1度だけ使用される河内音頭の櫓である。こういう景色はこの河内の地には無数にある。
 そういう、日常風景の中に当り前のようにあるいくつもの櫓が象徴しているように、河内の街には「河内音頭〇〇節家元」という様な表札(看板)も多く、ケンミンショーで取り上げられても不思議でないくらいのものである。
 この辺りのことがらは是非友人の「ひげ親父」さんにブログで書いてもらおう。

 さて、河内音頭の有力な源流が江州音頭であり、その有力な源流が祭文語りにあることは研究などしなくても耳で聞けば判ることであり、奈良の北部ではその三者が競合せずに交じり合っている。
 そこで、昭和の前半の生駒谷ではどうだったのかを昨夜義母からビールを飲みながらいろいろ聞いてみた。

 盆踊りはお寺や広場ではせんかった。
 新盆の家を廻って一晩中踊るんや。
 新盆の家は前庭に行灯付きの竹を立て、行灯は六角形で切紙を貼ってあった。切紙を作る店もあった。
 呼んできた「音頭とり」が真ん中の台の上で文句を読んだ。
 太鼓や楽器は何もなかった。手拍子だけやった。
 踊手は赤いタスキで袖を留めていた。
 掛け声は、エヤコラセードッコイセ  ヨイトヨンヤマッカドッコイサーノセ やった。
 みんなお盆休みを楽しみに働き続けてたから盆踊りは楽しかった。
 子供らは回りで見ていただけやったけど・・
 ・・・という「講義」を元に妻がスケッチしたのが右上の絵である。

 ビールの力もあって義母が踊って見せてくれたのは、有名な「河内マンボ」(注)の膝の使い方そのものであったが、そこには、河内音頭が「芸」になる以前の、・・・念仏踊り、祭文語りの、神仏と共に居る精神がまだまだ満ち溢れていた昭和前半の生駒谷のフォルクロアがあった。
 (注)今東光氏がその著書で、「河内音頭の踊りはマンボだ」と表現した。
    なお、河内音頭は、その節も踊り方も無数にある。
    「河内マンボ」はそのうちの一つの踊り方である。

2011年7月15日金曜日

夏は胡瓜三昧

 祇園祭の山鉾巡行が近づいてきた。
 宵山の日だけに授けられる「厄除け粽(ちまき)」(右の写真)・・・1年間我が家の玄関で、よくもまあ、「蘇民将来子孫者也」と戸籍に関わる公文書偽造に近い大嘘をついて守ってくれたと感謝している。
 ちなみに、この「粽」は、一説によると「茅の輪」が変化したものらしい。

 茅の輪といえば夏越の大祓・・・で、この時期(新暦、旧暦の6月末~土用の丑の日等々を中心に)、京の真言密教のお寺での「きゅうり封じ」が度々夏の風物詩としてニュースに登場する。

 胡瓜といえば、八坂神社の神紋が胡瓜の切口に似ているので「祇園祭の間(といってもこの祭は1ヶ月間も続けられる)は胡瓜は食べないんや」と、かつて鉾町の同僚が言っていたことを思い出す。

半白
 そして、鉾町からはるかに遠い京阪奈の当地では、そのような話題をアテにしながら胡瓜やビールを美味しく頂いている。 
四葉

 さて、その胡瓜、声を大にして言うが、私は断然「半白胡瓜」派である。これの属する黒イボ白胡瓜一派を支持し、左の写真のように少し黄色くなっても一向に構わない。中は水がいっぱいで、種まで大きいが、これが又たまらない。その美味さは説明不要である。

 ところが妻は「胡瓜はしわしわの四葉(スーヨー)に限る」と譲らない。 「味が絞まっていて夏野菜~っという味」だと言う。

 「こっちが美味しい」「あっちが美味しい」という論争ほど正解のない不毛の論争はないので、しばし休戦をして「スーパーの没個性的な胡瓜はしゃあないなあ」というところでお互いに手を打っている。

 糠漬け、うざく、冷汁、棒々鶏、具沢山素麺、冬瓜風あんかけ、ジャージャー麺、鱧の皮、蛸酢、胡麻和え、チリメンジャコ、サラダ、もろキュウ、ピクルス、野菜カレー・・・我が家における主演~助演級のレシピを見ても、胡瓜は偉い奴である。

2011年7月14日木曜日

Tokio hat の紳士帽

 横浜在住の先輩のエッセイ集の中に「ボルサリーノ」という章があり、紳士帽の文化が楽しく論じられていたが、顔のエラが張っていて全体に帽子が似合わない私は、そのエッセイを読みながらお洒落な先輩を羨ましく思っていた。
 だから、そういう自覚からフォーマルな帽子系には手を出さなかった私は、視点を変えて、これまで、少しラフでおどけた帽子類でよく遊んできた。
 そのせいか?娘が友達と遊んでいる時の写真などを見ると、私のコレクション類やいろんな被りものを面白おかしく使いこなしていて、思わず笑ってしまうことも多かった。
 ところが息子はというと、1950年代のようなファッションを堂々と個性的に着こなし、そのため「ソフト」のようなしっかりした帽子も見事に揃えていて、些かジェラシーを感じるほどだった。

 だから、その、息子への対抗心から、布製の夏用中折れ帽(Borsalino ではなく Tokio hat)を購入したのは昨夏のことで、再び猛暑が帰ってきた近頃は、電車の中や街中を「どうだ」という顔をして使用している。
 さらに、孫の誕生でお会いしたお嫁さんのお父さんも、「実はお婿さんに触発されて・・」と言って紳士帽を被っておられた。
 お父さんも「負けてたまるか」と思っておられるに違いない。
 父親連合と息子との間のバトルはもう戻れない。
 だが、私に関する限り、悔しいが試合前から結果は見えている。

2011年7月12日火曜日

ベラルーシに驚く

 実母の入所している施設の若いスタッフが母たち入所者に、「何で干支に猫が入ってないん?」と本心から聞いていた。
 人生の先輩たる入所者は、「何故やったかなあ」「忘れたなあ」と言いつつ、「神様が到着順に干支に入れてやると言うたんや」「その日を鼠が猫に嘘を教えたんや」「怨んだ猫は鼠を捕って食べるようになってん」と徐々に民話の世界を思い出したようだった。
 ・・・ということがあったので、少し周辺の雑学を調べてみたら・・・ト、ト、ト、ト、知らないことがいっぱい出てきたので、今更ながらほんとうに感動した。知っていた人は鼻で笑って読み飛ばしていただきたい。)

 その1
 チベット、タイ、ベトナム、ベラルーシでは、兎の替わりに猫が堂々と入ってる。
 なお、猪は日本以外では猪の字であっても基本的には豚のことである。
 
      ■世界の十二支 の動物
日本     鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪
中国     鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪
台湾     鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪
韓国     鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪
チベット   鼠、牛、虎、、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、豚
タイ      鼠、牛、虎、、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、豚
ベトナム   鼠、水牛、虎、、龍、蛇、馬、山羊、猿、鶏、犬、豚
ロシア    鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪
モンゴル   鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪
        鼠、牛、、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪
ベラルーシ 鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、豚
        鼠、牛、虎、、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、豚

 その2
 干支は、漢字や箸の文化圏を越えて、なんとロシアやベラルーシ(白ロシア)まで拡がっていた。(上図のとおり)

 その3 
 わが国のキトラ古墳や高松塚古墳に四神図があったことは有名だが、この四神と方角と色と季節の関係、つまり、北=玄武=黒=冬=例えば玄冬という言葉、
東=青龍=青=春=青春、
南=朱雀=赤=夏=朱夏、
西=白虎==秋=白秋・・・例:北原白秋・・・・で、
・・・このが、・・・・白ロシア=ベラルーシ・・・つまり、彼の国の国名が道教=陰陽道の考え方を大前提にした「西ロシアの意」となっているなんて、腰を抜かさんばかりに驚いた。
 ユーラシア大陸の民族と文化の大移動を考慮の外に置いた日本史の探求なんて井の中の蛙であると、しみじみと感じ入った。

2011年7月11日月曜日

ツバメはスベッた

 基本的に屋外に出ることのない義母や実母に四季の移ろいを感じてもらおうと、「解説付きの写真アルバム」を作成して時々持参している。
 「こんな花が咲いているの?」「こんな鳥が飛んでいるの?」と喜んでくれた時には作成した甲斐がある。

 で、今日は「夏鳥の代表ツバメ」を持っていった。
 電線に止まってはいるが、ツバメらしいスマートな写真はとりあえずは好評だった。

 ・・・・そして、今日の解説は、① 日本のツバメは冬の間はオーストラリアに行っている。 ② だから、オーストラリア人は「ツバメは冬の間は日本に行っている」と言っているだろう・・・・というもので、写真を見せる前にマクラとして ① 北半球の夏は南半球の冬である とか ② 太陽に対して地球の自転軸が傾いているから四季がある とか 十分に絵を描いてまで“振っておいた”のだが、一向に解説には笑ってくれず(解説の文章が理解できず)、完全にスベッてしまった。
 
 「ちょっと立ち位置が変わると発想が逆転する・・のが可笑しいですね」などと解説を解説し始めたら作者の負けで、今日は、敗北感に打ちひしがれて帰ってきた。
 「老人介護施設にユーモアを持ち込むのは結構難しい」と、自分の能力のなさを棚に上げて妻に説明した。

2011年7月10日日曜日

新七夕伝説

 七夕は過ぎたけれど(太陽暦の七夕がナンセンスであることは置いておいて)、ちょっと星空がきれいなので見上げていたら、7月10日21時過ぎの10分ぐらいの間に、織姫星の近くを人工衛星が2ツ南から北へ流れていった。(もしかしてスペースシャトル?宇宙ステーション?・・・これ――何も調べずに無茶苦茶言っているだけ――です・・・)

ネットのカササギ
  こんな現象が日常なら、何も無理をしてカササギに橋を渡してもらう必要もなく、新伝説を考えてみてみたい。
 何よりも、織姫と牽牛の側をツ――ッと流れていく「星」は、それはそれで、結構神秘的である。
 本格的に観察すれば、神秘的どころか俗な日常茶飯事なのかも知れないが、1年に数回しか夜空を見上げない素人にとっては、ちょっとした感動的シーンであった。
 それにしても、天の川を見るのは、もうこの辺り(京阪奈)でも絶望的なのかもしれない。
 山小屋を夜中に出発した時のような経験をすることは二度とないのだろうか。
 次は念のため新月前後に見上げてみるか・・とダメモトで思っている。

2011年7月9日土曜日

松下飛行機と盾津飛行場

 友人の「ひげ親父」氏のブログにボーイング787のことが出ていて、実は「空モノ」マニアである・・とあったので、その航空機の話題に触発されて、飛行機「明星」のことを少し書いてみたい。

 先ず、私の出生地「盾津(たてつ)」にあった「盾津飛行場」は、昭和9年から終戦まで存在したということがあまり知られていない、ちょっとマニアックな幻の飛行場である。
 場所は、現在の東大阪市の新庄、本庄、盾津中学校、機械団地、トラックターミナル辺り。
 砂利を敷き詰めただけの草っ原だったらしいが、昭和12年東京~ロンドン間94時間余の国際新記録を樹立した「神風号」も、その際にこの飛行場に離着陸したと言われている。

 次に、松下飛行機㈱は、軍が松下幸之助氏に作らせて、昭和18年から終戦まで存在した。(昭和17年からと書いてある資料もある)
 場所は、現在の住道のサンヨー大東事業所と鴻池新田のサティ付近らしい。
 工場と盾津飛行場間には誘導路があったらしいが正確には解からない。(私が知らないという意味で「解からない」)

 そして、右の2枚の写真は我が家にあるもので「松下飛行機㈱地鎮祭式場」。
 下の左の写真は、ネットからもらったものだが、昭和20年1月に1号機が完成した松下飛行機㈱製の木製の爆撃機「明星」。
 この飛行機の完成記念品であるフィギュアは、私の子の世代の筆頭男子である甥が持っている。

 下の右の写真は、「明星」のコンパスと高度計(気圧計)の実物。
 これは今でも現物が我が家の押入れの奥に鎮座している。

 と、・・お察しのとおり私の父は松下飛行機㈱の幹部社員であった。

 しかし、終戦後は松下グループに残らず、私が小学生のうちに亡くなったので、今ここで書けるような話を私は何も聞いていない。
 ただ、この「明星」を父は「赤とんぼ」と呼んでいたから、関係者間ではそういう愛称で通っていたのかもしれない。
 明治生まれの母も、父の仕事のことは全く聞かされておらず、ただ、「飛行場の周辺にはベニヤ板の工場がいっぱいあった。」と傍証するだけである。 
 国立国会図書館関西館にも行ってみたが、「その時代の飛行場や飛行機工場は軍事機密という事で資料が残っていない。」と言われてしまった。ちょっと寂しい気持ちもする。そういえば、父が、終戦時に考えられないほど膨大な資料を焼却したと言っていたことを思い出す。

 だが、・・・戦争末期の木製飛行機である。・・・常識的に考えれば幹部社員の間では「“特攻機”を作っている」との意識があったかも知れず、「資料がない」という現実にホッとする気もないではないが、近頃はやりのドラマのようにタイムスリップしてみたい気も半分ある。逝った父には口がないが、歴史の真実は一体どうだったのだろうか。
ネットの「明星」
 
左が高度計 右は方位計


2011年7月8日金曜日

カプリコ ミニ を推奨する


 何回も書いているが、実母の入所している老人施設は「おやつ持ち込み自由」の気楽な施設であるところが、なんとなく呑気でいい。
 だから、時々、シュークリームやチョコレートや和菓子を持参して、「制限のない方々」に食べていただいたりしていたのだが、今回、思いついて持参したのが写真のカプリコ ミニ。
 このお菓子、・・100%下品ではないのだが、あまり上品でもない駄菓子であり、(これは全くの独断であるが・・・)手に持ったままかぶりつくことによって、理屈抜きで楽しくなるという「駄菓子のホームラン王」のような気がしている。
 事実、高級なお菓子を食べている時よりも皆さんの顔が緩んでいるし、そんなはずはないのだが、「美味しかった」「ごちそうさま」と言う声がたしかに何時もより弾んでいる。
 持参した此方が恥ずかしいが、高級な和菓子や洋菓子よりも、この、ほどほどの駄菓子にかぶりつくのは何故か心をウキウキさせるようである。
 老朗介護のメンタルケアの本など読んでいないが、これはちょっとした本質を突いた感想ではないかと、妻と「わかる わかる」と笑い合っている。

 スタッフも良い方々で、「そこのテーブル何食べてるの?」「お菓子パーティーか?」「私にもかじらせて!」と、ほんとうにかじってボケてくれるのは流石にプロだと感心させられる。感謝している。

2011年7月7日木曜日

海ほおずき

 義母の近代史講座
 大阪府と奈良県の県境が生駒山。その東側が生駒谷で義母の出身地。その東に矢田丘陵という山脈があり、その東が奈良盆地。そして、矢田丘陵の東側の山の上には、紫陽花と「味噌なめ地蔵」で有名な矢田寺や日本最古の厄除霊場で有名な松尾寺(まつのおさん)があり、そこは生駒谷の農家の人々の行楽地でもあったらしい。
 地蔵さんの縁日だとか厄除詣りと言っては大人たちは歩いて山を超えて行っていたという。(昭和初期の昔語りなので・・「歩いて」)
 そして、そのお詣りのお土産が「赤い海ほおずき」だった・・・・と、義母が先日私たちに「講義」(ただの昔語り)をしてくれた。それは娘である妻も聞き初めのことだった。
 お土産の赤い海ほおずきはカチカチの乾物なのであるが、水に浸けておくとゴムのようになり、それを口に含んで、チューチュー??と音を鳴らして遊んだと楽しそうに語ってくれた。
 (こんにち一般に「海ほおずき」という言葉の響きが醸しだす漠とした甘いイメージとはちょっと違っているかもしれない。)
 この海ほおずき、妻も知らなかったというので、今度は私の実母の施設で何人かに聞いてみたところ、・・・意外だったが実母以外に知っている者はいなかった。(たまたまそうであった・・・・)
 実母は、「祭の夜店の定番やった。いろんな形の海ほおずきがあった。水で戻して売っているのもあった。親は汚いからあかんと言ったが反対に子供はよけいに欲しがったもんや。私は鳴らすのも上手かったし大好きやった。」と語ってくれた。
 そして、その話の中で、例の草花であるほおずき」も「上手く中の種を取り出して同じように口の中で鳴らしたもんや」とその取り出し方も含めた話に発展し、そしたら「草花のほおずきでは鳴らしてよく遊んだ」という方が話に加わってさらに盛り上がった。
 ???・・・・この話・・・私は知らなかった。   本などで「ほおずきを鳴らした」と書いてあったのは全て海ほおずきのことだと勝手に理解していた。
 昨秋我が庭でほおずきが実ったのに・・・・なんというもったいない・・・・。
 ちなみに、山里の子であった義母も、これも意外なことに草花のほおずきでは鳴らさなかった(遊ばなかった)ようである。
ネットからコピーした海ほおずき
義母のいう「赤いの」は右下に

 行ったことはないが、7月9日10日は東京の浅草寺の四万六千日で鬼灯(ほおずき)市が有名とか、・・現代の東京の子供たちも鳴らして遊ぶのだろうか。???
 関連して、・・かつて、その規模に圧倒されたことがあるが7月6日~8日は東京入谷の鬼子母神の朝顔市だったはずだが、これは理解し難い知事さんの申される理解し難い理由により今年は自粛と報じられている。
 さて、鬼灯市や朝顔市といったこの種の限定された花の「市」が東京の下町に比べて関西ではパッとしないのは何故だろう。
 「種を蒔くか、安い苗で育てるわ」という大阪人スピリッツが邪魔をしているのか、関西経済の地盤沈下が文化を支える力を失いつつあるのか。何かパッとせんなあ という今日の梅雨空である。

2011年7月6日水曜日

七夕

 昨夜は久しぶりに梅雨前線の北側に入ったので「これはチャンス」と夜空を仰いだが、22時頃に織姫(ベガ)と彦星(アルタイル)がデネブと併せて「夏の大三角形」として見えたものの、その後だんだん雲が厚くなって見えなくなり、天の川は片鱗すら確認できなかった。(まあ期待もしていなかったが・・)

 そこで、今度は紙上天文家となって、7世紀~8世紀初頭の築造(製作)とされているキトラ古墳の星宿図を見たところ、当然のことに織女と牽牛はしっかり書かれていたが、一方、天の川の方は書き入れられていなかった。
 この星宿図は北緯39°にある高句麗の都の平壌(ピヨンヤン)で観測された原画に基づいているというのが多数意見のようであるが、とすれば、唐や高句麗では天の川の存在が必須である七夕伝説は政治的には重視されていなかったようである。
 それにしても、約350の星と68の星座をほぼ正確に記した古人(いにしえびと)に比べ、現代人がどれほど「進歩」したと言えるのだろうか・・・と、感心することが多すぎる。

 話が前後するが、昨日の朝、実母に天の川の写真(コピー)を持参した。(老朗介護のための小道具である。)
 「ほんとうに昔はこんなんやった。」「土手に寝転がって眺めたなあ。」と懐かしがったが、何時頃の何処の土手かは判らない。
 七夕飾りには、101歳の手になる曾孫の名前が記されていた。(この現代人には身内ながら感心する。)

2011年7月4日月曜日

チンチン千鳥が鳴いている

 もう2週間ぐらいになるだろうか、早朝4時半頃にホトトギスの声のバックコーラスのようにヒョッヒョッヒョッヒョッヒョと飛びながら鳴き続ける声が聞こえている。
 例のところに例の鳥が帰ってきたなと、この目で(カメラで)確認できるのを楽しみにしていたが、なんやかやと用事があったり、起きるのがうっとうしかったりで、今朝まで延び延びになっていた。
 古いブログに書いたが例のところとは大型ショッピングセンターの「数ヶ月に数回だけ使用する臨時駐車場(病院建設が頓挫したため贅沢に臨時駐車場として放置されている土地)」。
 例の鳥とはこのショッピングセンターの造成前にここに住んでいたコチドリ(正確には、大型造成の途中でこの地が「西部劇の大荒野」然としていた一時期に巣造りをしていたコチドリ)。
 ショッピングセンターの造成~建設によって、その巣が破壊された後は彼らの姿を長い間見なかったが、その末裔が帰郷したに違いない。
 さて、この贅沢な駐車場の自然を讃えるべきか、それとも、こんな帰郷を決断するほどに住みにくくなったと想像される木津川の河原の荒廃を嘆くべきか。
 私は家にいて、嬉しいBGMとしてその声を楽しみながら、独特のチドリ、シギ、アジサシ類の飛び方を遠望して喜んでいる。
 駐車スペースのすぐ近くにあると思われる彼らのスイートホームが人に見つからないうちに無事巣立ちができ、あの声が泣き声にならないよう心から祈っている。

2011年7月3日日曜日

紅スモモについて

 浄瑠璃寺参道の紅スモモ並木が印象的だったので、庭に紅スモモを植えたことがある。
 葉っぱの赤銅色が美しいし、早春のピンクの花も申し分なく気に入っていたが、唯一の欠点がイラガ(強力毒毛虫)の大発生で、それに辟易して伐採してしまったという微妙な思い出の木である。
 だから、その後は、街路樹の紅スモモを楽しみながら歩いていたが、この(街路樹の)紅スモモも、前のブログのヤマモモ同様放置されている?のが気になって、気になって、・・・だから、ただただ落果するのが可哀相なので、今朝、少しだけ摘んできた。
 酸っぱいスモモが大好きな息子は「売っているスモモよりも酸っぱくて美味しい」と自宅に持って帰ったぐらいである。
 繰返すが、誰も見向きもせず、ただただ落果するだけのものである。
 この街の「もったいない精神」はどうなっているのだろう。
 クーラーの屋外機をウンウン廻しながら高級な水菓子を頂いているのだろうか。どこかおかしくないだろうか。
 ええ! 街路樹の実を齧って喜んでいるほうがおかしいですか。

2011年7月1日金曜日

夏越大祓式

 6月30日は、701年の大宝律令に定められた宮中行事の一つ「夏越大祓式(なごしのおおはらえしき)」の日のため、宮中と密接であった藤原氏の氏社である春日大社のそれに参加してきた。

 いつもながら、京の諸社に比べてどことなくあっさりしていて、その分古式を思わせる神社である。
 祓戸社の前で大祓詞等が奏上され、お清めが紙吹雪のように舞い、よくは解からなかったがヒトガタなのだろうか絹布のようなものが何枚も裂くように破られ(ヒトガタに転移した罪が清算され??)、そして、茅の輪をくぐって、後は本殿でのお神楽等々であった。

 未曾有の原発災害を受けても式典に特段のアレンジもないところが良いのか悪いのか解からないが、半年間に犯した数々の罪もお祓いで清められてしまうとするメンタリティーに負の側面を感じてしまうのは、私が、この国の為政者等の目に余る嘘と無責任に少々ウンザリしているからかもしれない。

 茅の輪の近くの茶店の池も淀んで汚かったが、アルミの柱にへばりついたモリアオガエルは微動だにもせず、1300年の神の森は現代人をあざ笑っているかのように静かであった。

 森ではキビタキが美声を奏でてくれていた。
 茅萱(ちがや)をもらって帰り、教えてもらったとおりプチ茅の輪にして玄関に飾って、とりあえず我が家はチャッカリと半年をリセットしておいた。
7月3日:写真の追加
孫の初茅の輪