荒れた土地に草が生え、それが枯れ…というのを繰り返すうちに豊かな土になり、その土地の主人公たる草花が交代していく。
そのことを文句なく理解できたのは小さい頃の思い出と重なるからである。
小さい頃、街は月見草だらけだった。
堺の中心部にいたから、住宅の建っているところ以外は全て「焼け跡」だった。田圃でも畑でもなく焼け跡だった。大げさに言えば、世界は地球は住宅地と焼け跡で成り立っていると思っていた。
その焼け跡の夏は月見草であふれていた。
ところが知らないうちに「空き地」の主人公はセイタカアワダチソウになったりして、月見草は徐々に退場していった。
現在はけっこう自然が豊富な「郊外」に住んでいるが、空き地イコール月見草ではないから、月見草が見つかったりすると何か懐かしい気分が湧いてくる。
竹久夢二の「宵待ち草」の抒情でなく、キリギリス捕りに夢中になっていた月見草の群落が懐かしい。

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