2023年9月19日火曜日

「蝸牛考」考

   「蝸牛考(かぎゅうこう)」は民俗学者であり高級官僚であった柳田國男(明治8年~昭和37年)の有名な著作で「方言周圏論」のことである。
 それを少し乱暴に要約すれば、「京(みやこ)の言葉が日本列島の南北(周圏)に徐々に広がっていったので、遠方の方言は古い時代の京言葉で、京に近い地域の言葉ほど新しい京言葉である」と指摘している。
 京にコンパスの針を置いて同心円を描くと、遠くが「ツブリ系」次が「ナメクジ系」次が「カタツムリ系」次が「マイマイ系」次が「デデムシ系」となったので「蝸牛考」なのである。

 この論は相当昔だが探偵ナイトスクープなどでも掘り下げられ、松本修氏の「アホ・バカ分布考」は専門家からも評価されたようだ。私もけっこう評価している。以上、前説(まえせつ)。

 先日、奈良大学岸江信介教授による「奈良県吉野地方における方言の特異性」という講義を受講したが、その中で、先ずは奈良県のアクセントの分布が話された。それは、
 ① 奈良県北部全域と下市町、五條市、吉野町、東吉野村は『京阪神アクセント』
 ② 天川村(洞川を除く)が『型の区別が少ない京阪神アクセント(垂井式)』
 ③ 五條市篠原(旧大塔村篠原)、天川村洞川、十津川村、上北山村、下北山村が『東京式アクセント』であり、学会の定説では、京阪神アクセントが古く、東京式アクセントが新しい・・というものだった。う~ん、となると蝸牛論とは反対だ。

 次に、ちょっと寄り道の話で京阪神の「来ない」という言葉について、京都の「来(き)やしない」が京都で「きいひん」になり、それが大阪で「けえへん」になり、さらに神戸で「こおへん」になったが、京都はあくまで大阪の変化を認めず「きいひん」のままだ‥と言う話があったが、この辺りも蝸牛論の外の「京都の意地」のように感じられた。

 3つ目には、イキヨル、ノミヨルの「ヨル」の話も興味深かった。
 奈良県北部などで「あのおっさん、また遊びにイキヨル」というと、「ヨル」は「ヤガル」ほど悪い言葉ではないが、軽くののしる意味が含まれる。
 しかし奈良南部(吉野地方)や近畿の周辺部では、例えば、
 「桜の花が散りヨルなあ」は「散りつつあるなあ」「~つつある」で軽くののしる意味はない。
 また、桜の花が地面に散っているのを見て、「桜の花が散っトルなあ」。桜の花が(既に散り終わり)地面に散っているなあ・・となる。
 例えば「来ヨル」は「来つつあるが、まだ着いていない。「来トル」は既に到着している。
 この区別は、奈良県北部を含む京阪神ではないと先生は指摘されたが、この話は微妙に私の中では理解(わかる)ようでもあり、?でもある。私は京阪神だが、その区別が判らないわけではない。
 大阪南部田尻町の先輩は、桜の花でいえばはっきりと、「散ってら」と「散っちゃーる」を使い分けていたように思う。

 このブログ記事は印象・エッセーだからこれぐらいにするが、蝸牛論的なものと蝸牛論では収まらないものが多々あった。
 そして、地域コミュニティーの解体、通勤その他での広域的な人間の移動、テレビの普及などで急速に方言が変化、消滅しつつある。
 それはしようがないことかもしれないが、大いに寂しくも感じられる。

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