2014年10月29日の記事でこんなことを書いた。『日本では子供に「他人(ひと)に迷惑をかけないよう」にと指導するが、インドでは「他人(ひと)は迷惑をかけあって暮らすものだから他人(ひと)の迷惑を許しなさい」と諭すらしい』と。
そのことから連想するのが、世の中には利害の対立する層が現実に存在するし、その場合単純な単線的理屈では解決できないということで、言いたいことはパブリックな部門の労働三権や労働法のことである。
そもそも労働法そのものだって、『契約自由』の大原則でことが済むなら不要な制度であるが、使用者に対して劣位にある労働者が平等な力で公正な契約を結ぶためには、労働者の団結権、団体交渉権(協約締結権)、団体行動権(争議権)が前提になるというのが憲法28条である(憲法ですよ、憲法)。
そしてパブリックの際たる国家公務員の争議権についての最高裁判例も、「国家公務員も憲法にいう勤労者にほかならない以上労働三権を無条件で制限していると解するなら国家公務員法は憲法違反」だが、「代償措置たる人事院勧告制度が機能しているので合憲と解釈する」というものだった(機能しているかどうかの論争は此処では置く)。
だから、公務員は全体の奉仕者で、その労働条件には予算の制約を受けるが、別の面では憲法にいう勤労者にほかならないから、国や地方自治体の使用者は誠実に団体交渉に対応する義務があるのである。その場合、予算の民主的執行という課題と労使協議の結果との乖離が生じたならば、それは不断の努力(協議)で解決すべきなのである。
そういう複線的な思考ができずに、自治体の主人公は住民であるから公務員は選挙で選ばれた使用者の奴隷で良いという主張は労働法や憲法の趣旨をまったく理解できていない幼児的主張といわざるを得ない(結構マスコミもそういう報道を行う)。
早い話が、現実社会はそういう複線的な利害や制度で成り立っているのであるから、それを調整できない人物は管理者能力がないということである。
ヨーロッパやアメリカでは警察官だってストライキをすることが珍しくない。もちろん「保安要員」は用意されている。そして、国民は、目先のことでいえば迷惑を被ることがあっても、「彼らも主張する権利がある」と許容するのである。
それが成熟した民主社会である。
このことを一番判っていないのが橋下維新であるから、現に弁護士資格があるにもかかわらず彼が訴えられた労働事件は橋下氏の連戦連敗となっている。
W選挙の話の中で、「庁舎内から組合事務所を放りだすのは当然だ」というような意見があったので、それを機会に労働法の精神のイロハを振り返ってみた。
労組法の「便宜供与」だって、使用者の買収・介入を禁ずるところに主眼があるのであって、判例でも企業施設内の事務所の供与は当然認められている。
もし、公共性や予算を理由に労働三権が単純に制限されるのだとしたら、ほとんどの財団法人や、予算や税制の優遇措置を受けているほとんどの企業の労働者は労働三権が奪われることになる。「国や自治体の援助を受けている企業の労働者が労働三権を主張するのは我儘だ」と。
こういう話をもっともっと語る必要があるように思っている。
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