2013年8月8日木曜日

被害者に語れと言う酷さ

  先日から、自分のブログや知人のブログのコメントで、私たち普通の高齢者が歴史(体験)を語り継ぐことの大切さを書いてきた。
 そうであるなら、この時期に原爆について語らなければ、これまでの書き込みはいったい何だったのか、単なる善人面をした「評論」なのかと言うことになる。
 ちょっと「ええかっこ書き過ぎたか。」と天に唾した気持でもある。
 と言って、戦後第一期生の私は直接的には戦争を知らないし、大人になるまで広島にも行ったことがなかった。
 だから、直接的な原爆のことでなく、私の出会った被爆者のことを書くことでささやかな語り継ぎとさせていただきたい。

  1970年代に私の所属していた労働組合は「核兵器廃絶、被爆者援護」のいろんな運動を取組んでいた。
 そんな中の一環として、国連への要請団に広島支部の被爆者が参加した。
 この先輩は、体格も立派で、仕事の上でも労働組合の役職でも文字どおり幹部であったし、そういう風格もあった。
 被爆者らしい「見た目」もなかったし、少し長い期間のいろんな交流の機会もあったがそんな話も聞いたことがなかった。・・・と、少し意外であった。
 その方は、ニューヨークでは立派な行動を精力的に展開され、あちらのテレビのインタビューも受け放映された。
 そして、帰ってこられて、労働組合の集会でその報告を私たちは聞いた。
 するとその先輩が、夕食時だったかに、ふと「原爆の話はほんとうはしたくないんじゃ。」とおっしゃった。が、その意味を私は解からなかった。
 よく大新聞が原水爆禁止世界大会を評して、「現地の被爆者は冷ややかな目だ。」と意地悪気に書いていたし、もしかしたら「被爆者の気持ちは被爆者以外に解かるもんか。」という意識に通じるもので「話したくないんじゃ。」と言われたのかと思ったりした。
 そして、その夜はホテルの二人部屋にその先輩と私が寝た。

 その真夜中、私は先輩の恐怖にひきつった「うおおう。うおおう。」という叫び声に起こされた。最初は心臓発作か何かの急病かと思ったが、おこしてみるとうなされていたのである。
 そして、それは再び寝入ってからも再三発生した。
 体格もよいからかもしれないが、剣道に見る悲鳴に似た発声よりも大きな、ほんとうに恐怖にひきつったうめき声だった。
 その声は、ある意味、私の気持ちをも恐怖に引っ張り込んだ。寝付けなかった。
 翌朝、「夕べ迷惑をかけたんと違う?」「昼に原爆の話をしたら夜中に必ずうなされるんじゃ。」とおっしゃった。だから、恐怖にうなされるのが怖いから語りたくなかったのだと。こういうことが度々あったのだと。
 私は、そのうめき声で原爆の悲惨さを、何百枚の写真や分厚い本よりも、自分の感情として深く理解することができたような気がする。

 先日、維新の橋下大阪市長が「従軍慰安婦に強制はなかった。」「証拠がない。」と発言した。
 それ自体、はっきりと残っている史実に反している不当な発言だが、それ以外にも、彼には酷い事件に蹂躙された被害者のPTSDやその症状としてのフラッシュバック、夢の中での辛い再体験の怖ろしさに対する人間的な想像力、理解力が欠けている。
 悲惨な事件ほど、その大きさほどには語られないものだということを、フクシマに重ねて我々は肝に銘じなければならない。
 でも、それだからこそ私は、そのつらい体験と事実を語って伝えてほしいと、酷いお願いを体験者にするのである。
 そして、伝え聞いた私たちは、その(聞いたという)体験をまた語り伝えなければならないとつくづく思うのである。
 こんな中学生でも解かるような当たり前のことが、何故か当たり前のように思われていない現代というのは何処か病んでいないだろうか。

7 件のコメント:

  1. 原爆ではありませんが、父方の祖母は堺空襲の、おばさんの母は京橋駅周辺の8月の大空襲の被災者でした。京橋の大空襲は来週14日が恒例の慰霊祭です。

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  2.  私も原爆の話ではありませんが、我家にも戦争の深い悲しみを持った家の過去があります。こんなことをコメントすると、面白くないし個人情報に抵触するから末梢すると言われるかもしれませんが、あえて戦争の悲惨さを私なりに伝えます。
     私の両親は数年前に亡くなっていますが、母は養女で父は養子です。この家には2名の立派な男の跡継ぎがいました。二男は18歳の時病気で亡くなりました。一人息子となった祖父母(義)の自慢の長男は満州事変で戦死しました。私が中学生のころ義祖母は亡くなりましたが、義祖母はいつも私に「死んだらなんちゃーなくなる。英霊も犬死も変わらん。戦争は何の悪いことしてない私らあの希望を全部奪い取った。」と泣いていました。私なりにその頃戦争は絶対いけないことだと解りました。

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  3. 先般、退職者の会から長崎原爆投下直後の悲惨な情景を語って下さる元労働組合のF副委員長のDVDを受け取りました。勿論その方も被爆者で今の長崎の街を歩きながら当時の街の被爆者の瀕死の情景の話をDVDで聞かせてもらいました。その生々しい話は分かっていたつもりでも、新たな思いを考えさせられました。朝からコメントの文言を考えていましたが未だ書けない状態です。
    語り続ける事は分かっているけれど「戦術的」には難しいです。その重々しい、深刻な内容を「ペラペラ」言えませんし、言う方も聞く方も時、所、を考えてしまいます。
    ただ、「平和」「戦争反対」「核廃絶」・「今の日本の政治状態」を意識することが地獄の苦しみで亡くなっていった市民「老人、婦人、子供」の「死」を無駄にせず、「霊」に対してお慰め出来ることではないかと思います。
    8月9日、今日中にコメントを思っていましたが言葉足らずで言い尽くせません。誤解がないように!

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  4. mykazekさん、バラやん、スノウさん、非常に真剣なコメントをありがとうございます。
     私の薄っぺらで偉そうなブログに、「過ぎるコメント」で胸に響いています。
     それぞれへの具体的な「コメント返し」は、この紙幅ではようしません。お許しください。
     そして私たちは、非常に難しいことですが、15年戦争の加害責任についても忘れず時代に引き継ぐことの大切さをいま感じています。
     言うは易しです。でも、皆さんのコメントのおかげで、こんな駄文も書いてみて良かったとほんとうに思っています。
     明日は長崎の日です。

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  5.  すみません。次代です。

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  6. 私たち普通の高齢者がにひっかかりますね!同級生としては(笑い)

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  7.  ワガババさん、コメントありがとうございます。でも、貴方のネームだって相当なものじゃないですか。
     先日、同級生から私が参加できなかった同窓会の写真を送ってもらいました。宴会場で浴衣を着た面々は紛う事なき高齢者だったので衝撃的でした。

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