2025年6月21日土曜日

今日は夏至

    今日21日は夏至ということで思い出したことがある。
 小学生のとき「なぜ夏と冬が起こるのか」と先生が尋ねたので私は「地球は太陽の周りをまわっているが、それはまん丸ではなく楕円である。だから一番太陽に近づいた季節が夏で太陽から遠ざかった季節が冬である」と回答し、圧倒的なクラス仲間から「そうだ、そうだ」と賛同を得たが、「それなら日本の夏にオーストラリアはなぜ冬か」と返されて「・・・・?」となった。そのときのことを今も覚えている。

 地軸が23.4度傾いているため、夏は太陽の高度が上がり、地表の面積あたりに降る光の量が増え昼間の時間も長くなるというのが正解だ。
 「そしたらなぜ正午に一番暑くならずに午後の2時ごろに一番暑くなるのか」「なぜ6月の夏至が一番暑くならずに8月の夏休み頃に一番暑くなるのか」と質問すると、「空気全体が温まるまでの時間差だ」と聞いた。これも何となく解ったような解らないような勉強だった。
 気候、気圧配置の話が抜けるとこんな尻切れトンボになる。

 太陽黄経(春分を0度として1年を360度)が90度の時間(瞬間)を含む「日」というのが夏至の定義らしいが? 北回帰線上にいると正午に太陽が天頂を通過する。なお、1年で日の出の時刻が最も早い日および日の入りの時刻が最も遅い日それぞれと夏至の日は一致しない。日本では、日の出が最も早い日は夏至の1週間前ごろであり、日の入りが最も遅い日は夏至の1週間後ごろである。となると日の出は既に遅れ始めている・・・なぜか少し寂しい。

 Wikipediaの知識だが、ヨーロッパの国々では、夏至は性欲をかきたてる日とされており、スウェーデンの民俗学者によると、夏至を祝うミッドサマーの祝日から9ヶ月後に生まれる子供が多いという。ギリシャ北部では、未婚女性がイチジクの木の下に自分の持ち物を置くと、夏至の魔法により将来の夫の夢を見るという伝承がある。ポーランドではスラブ民族の祝日、「イワン・クパラの日」の夜には、人々が恋に落ちるという言い伝えがある。イギリスのストーンヘンジでの夏至祭りは、ドルイド教に由来し、男性神、女性神の出会いを祝う意味があると言われている。シェイクスピアの「真夏の夜の夢」もこういった恋に狂乱する人々をテーマにしている・・とか。

2025年6月20日金曜日

アインシュタイン

    17日付朝日新聞『天声人語』がNO KINGSのことに触れ、「社会は必ず自由で民主的な方向に変わっていくと私たちは思いがちだ。しかし声をあげねば、あっけなく破綻する」と書いていた。異議はない。大事な観点だ。
 それはアメリカのトランプ周辺だけの問題ではない。現代人たる我々一人一人の課題でもある。
 16日の記事でニュース原稿のことを書いたが、原稿の執筆や編集に際してもそういう観点は大切だ。
 井上ひさしさんの言葉に「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」というのがある。それはこのブログでも度々書いてきた。
 経験豊かな高齢者ほど「経験主義」に捕われる。「今さら川柳なんて」と鼻で笑って自分は「お手並み拝見」となりがちだ。
 高齢者がいろいろ挑戦し大いに失敗することは良い事だ。失敗しない高齢者に後輩は続きがたいが、挑戦して失敗する高齢者の後ろでは笑いながら後輩が乗り越えていくだろう。
 井上ひさしさんの前述の言葉はNHK eテレの幼児向け番組でやっていて、孫の凜ちゃんも(十分には発声ができないが)何となく真似をしている。この番組の影響力はすごい。先日は科学館に行って、ポスターを見るなり「アインシュタイン」と言ったらしい。

2025年6月19日木曜日

SNSを馬鹿にしない

    共産党がSNSのフル活用を赤旗紙上で訴えている。
 
 具体的には候補者が発信するYouTubeのショート動画を「評価」して、各自のSNSで共有して拡散してほしいと訴えている。
 多くの支持者がこれを「判った、やってやろう」と思えば若い層の世論も変わると思うのだが、そうであれば私のフェイスブックあたりにも少しはその影が見える筈だが、残念ながら見えてこない。
 どうしたオールドマルキスト! 理屈を言う前にやってみなはれ!
 「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」という言葉もある。私はテーマを能動的に捉えよという意だと解してる。
 日本の政治も世界各国の問題も知っている。しかし私は何もしない・・・でよいだろうか。

2025年6月18日水曜日

40年ぶりの大改革

    G7の中でなぜ日本だけ賃金が低下しているのだろう。その結果国内の購買力が低下し経済成長も止まってしまったのだろう。
 単純化はできないが、労働法制の改悪と、それと一体となった労働組合組織率の低下、そして労働戦線の体制内的統一(連合)などに大いに問題があったと私は見ている。
 そのうちの労働法制に目を向けると、労働者派遣法が問題だった。派遣先の大きな会社が実質的に仕事の命令をしているのに雇用責任は派遣元でよいと・・・表向きは言っていないが・・・実際にはそれで不安定雇用が急拡大した。

 現在、東京では労働基準法の『改革』が議論されているが、例によってマスメディアは「政局」は報じるが、こういう地味な話は報じない。
 その労基法改革では、デロゲーション(逸脱)が幅広く導入されようとしている。
 企業別労働組合をすべて御用組合とは言わないが、労使の合意という形を整えれば「最低労働基準の底を破ってもよい」という話だ。
 御用組合どころか形式的に「過半数代表者」を選びさえすれば、労働の最低基準、最低保障からデロゲーションしてしまう。
 このほかにも、「労働者」という概念の判断基準も検討されている。
 先にも述べたが、パート労働だとか派遣労働という脱法行為を労働法制は追認してきた歴史がある。「そういう働かせ方は憲法の精神にも反する」とぴしゃりと是正させるのでなく「そういう労働、雇用が実際にあるからそれに見合った制度にしよう」という論は非常に危険だ。それは歴史が教えている。
 このほかにも労働時間、休日等々が検討されている。いわゆる過労死に繋がる長時間連続労働などは前進面が出てくるかもしれないが、そういう宣伝に迷うことも危険だ。
 この動きにどうか注目してほしい。

2025年6月17日火曜日

盗人カワラヒワ

    昨年咲いた矢車草(ヤグルマソウ)から自然に落ちた種で、今年はあちこちから芽を出したのを妻が集めてきて、今春はけっこう華やかにヤグルマソウのお花畑になった。
 「花の形が鯉のぼりの竿の先の矢車に似ているから・・」というのを再確認しようと検索してエエエエ仰天した#$%&#$%&!!
 私の検索した花は今日では「矢車菊(ヤグルマギク)」といい、ヤグルマソウという花は別にあることを初めて知った。何十年とヤグルマソウと信じて疑っていなかった。よって自今ヤグルマギクという。
 そのヤグルマギク、花期は済んだが、来年のために種を採ろうと少し汚いがそのままにしていた。
 そして一方、先日からわが家の前の電線にたくさんの河原鶸(カワラヒワ)が留まってヒリヒリヒリヒリ鳴いていて、そのうちに写真でも撮ろうかと思っていた。
 という何とも長閑な初夏の風景を楽しんでいたのだが、ナント・・・カワラヒワは集団で私が大事に育てていたヤグルマギクの種で饗宴をしていたのだった。
 つまり盗人だった。何が可愛いカワラヒワだ。少し凹んでいる。
 (写真はネットにあったnorichan.jpさんのもの・カワラヒワ)

2025年6月16日月曜日

似非(エセ)柳人

    タイトルの柳人とは俳人、歌人同様川柳を作る人のことである。
 近頃、二つの機関紙?というかニュース?というか・・の原稿集めを担当?している。 何となく担当みたいになっているだけだが、こんなことは「言われたからやる」「決まったからやる」ものでもないから別に不満もない。
 「みんなで呼びかけよう」「賛成賛成」となるのだが、思い通りにはうまくいかないのが原稿集め。
 まあ「指示待ち人間」などと言われたくないから放っておけないとこうなる。つまり勝手に原稿集めをしている‥それはそれでよい。

 二つのニュースの読者はほゞ重なっていて、みんな数十年の間、定型に似た?小難しい文書ばかり書いてきた公務の卒業生である。
 となると、反対に定型ではない自由な原稿は不得手だという声が上がったりする。あるいはどうも堅い話、もっと言えばお説教臭い文章になるという傾向も生まれる。つまり下手をするとせっかくのニュースがつまらなくなる。難しい。
 川柳界の重鎮・故近藤勝重氏は「5W1Hではない。6W1Hだ」「Wow!(ワオ!)という感動が大切だ」と書かれていたが、元公務の高齢者にはそれもまた難しそうだ。
 それでも何とか「読んでもらえる」紙面にならないものかと、何号か前から思いついて川柳を募集した。川柳には全くの門外漢であったが、短歌や俳句は難しそうだし、川柳ならサラリーマン川柳やシルバー川柳ぐらいは誰もが読んだことがあるだろうと、その程度のとっかかりだった。
 そして先日、ひとつのニュースを発行した。コンセプトは目前の参議院選挙で世の中を改善しようというもので、その中で私が投稿した川柳は、「タラバガニ食ってキーウにすんまへん」と「ユスリカのいのち輝く夢の洲」だった。
 タラバガニの川柳は、ロシアに経済制裁とか言いながら大量に輸入している日本を、ユスリカの川柳は、万博会場で大発生している現実と万博のメーンスローガンとのあまりの隔たりを突いたつもりである。

 そしてここからが今日の本題だが、発行したニュースを読んだ読者から、すぐに「掲載の川柳読みました。川柳っておもしろいです。短い言葉綴りの中から色んなものが出て来ます」「先ずトイレ リハビリ終えて またトイレ」 SOさん、ありがとう。僕だけやなかったわ(^o^)」という文とその方の川柳を添えてメールがあった。
 嬉しい、やっぱり編集方針に間違いはなかった。
 最後に、川柳ではないが15日朝のNHK短歌を見ていると、「どんな時に短歌ができるのですか」というアナウンサーに歌人曰く「締め切りが迫ったときです」というのがあった。
 そうだ、川柳だって勝手に湧いては来ない(来る人もいるだろうが)。締め切りと編集者への気遣いで出てくるものだと自分自身に言い聞かせた。
 こういうのは川柳を愚弄している似非柳人の戯言だろうが、それでも編集者の顔を立てて投稿してほしいものだ。
 高齢者の日々の生き方について書かれた文に、「請われれば一差し舞え」という箴言もあった。
 近藤勝重さんの本には「書く子は育つ!」とも・・・。

2025年6月15日日曜日

IMAGINE

13日の夜にイランを爆撃したイスラエルのネタニヤフ首相の演説をTVニュースで見たが、「この先制攻撃は聖書にも書かれている」という趣旨の発言にはいささか衝撃を受けた。
 テレビのニュースなので、旧約聖書のどの部分を指しているのかなどは解らないが、宗教の経典が大量殺人の「お墨付き」になっていることにやりきれなさを感じた。
 奇しくも、その夜10:30~11:30にNHK「時をかけるテレビ・・ジョンレノン、イマジンを語る」という番組があり、9.11直後のアメリカで「報復だ」という風潮に同調せず、イマジンを歌う若者が増えたという話があって、こちらには大いに共鳴した。



Imagine / John Lennon & Yoko Ono
         和訳 Akihiro Oba
 
Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...
 
Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace
 
You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one
 
Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world
 
You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one
 
 
想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...
 
想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...
 
僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ
 
想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...
 
僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ

2025年6月14日土曜日

悪い想像

    13日未明、イスラエルがイランの核施設や指導者等を空爆した。
 私は「核抑止力論」は正しくないと考えているが、例えば金正恩などが「それ見ろ、イラク(フセイン)もイランも核兵器を完成できなかったからヤラレタんだ」と核を含む脅しあい、パワーバランスでしか国は守れないという反対の教訓?にするのではないかと心配する。
 金正恩の名前を挙げたが、日本の自公政権や維新などの「ゆ」党も全く同じである。そんな悪い想像をしてしまうが、狭い列島に原発を並べておいて「核抑止力」もないものだ。

 付記すれば、イランの最高司令官や複数の核科学者らも殺害されたというから、イスラエルの諜報活動、早い話がスパイ網とその科学技術は恐ろしい。
 その国をアメリカ・トランプは支持している。

 世界中で世界大戦後の正義の概念が塗り替えられようとしている。
 朝ドラ「あんぱん」ではないけれど、軍事態勢が出来上がってからでは個人の抵抗は困難で、多くの結末は死あるのみ。大切なのは軍事国家が完成する前にNOの声でストップすることだ。
 この世界情勢の中で、来月には参議院選挙がある。
 例によって、「軍拡反対はお花畑だ」的なキャンペーンが舞うだろうが、こんな時こそ理性的な判断とその発信が大事だと思う。
 アメリカについていくと「戦死を分担」させられる。

胡姫の舞

    過日、散歩道のスイカズラを見て、『忍冬(すいかずら)歴史は遥か胡姫の舞い』と一句詠んでみた。
 こころは、スイカズラといえば忍冬唐草紋(にんどうからくさもん)に連想が跳ぶが、それは古代ギリシャのパルメット紋に起源を持ち、遥かシルクロードを旅し、長安(西安)を経て奈良時代の日本に到着した。
 その蔓草(つるくさ)を踊子の円舞とみて、当時の唐などではシルクロードから伝わってきたものを胡と呼び、例えば、ペルシャの女性による舞を胡姫の舞として人気があったことなどを思ったからである。
 ちなみに胡人とはシルクロードに関わる多民族の総称らしいが、より具体的にはシルクロードの商人、ソグド人のことを指しているとの説に説得力を感じている。

 そこでその胡瓜(キュウリ)だが、原産地はインド・ネパールのヒマラヤ地方と言われているが、大きくは西方から中国に入ってきたのでやはり「胡の瓜」となる。
 食の好みは夫々だから正解も誤答もないが、私に言わせればスーパーに並んでいるものはキュウリの子どもで、ほんとうに熟してしまうと苦みが出るが、少しその手前の、いわば「大人のキュウリ」が私の好みである。
 そのために小さな家庭菜園を作り、新たに糠味噌を購入したりしているわけである。
 湯木貞一氏の著書では糠床について「カラシを入れておく」「昆布を入れたりはしない」とあるが、ずぼらな私は、出来合いの糠床で済ましている。
 「ぬか漬けの野菜は絶対に新鮮なものでないといけません」だけは及第点をいただける。
 以上のような新しい床ともう一つ「古漬をつくる糠味噌を作っておく」ともあるが、そこまではできていない。
 「昔は、転宅するとき、まず三宝荒神さんとぬか床を先に送り出したものだ」とあるほど大切にされていた。
 浅漬けの素なる調味料を否定する気はないが、このキュウリとナスの季節ぐらい、せめて出来合いであっても糠床を購入されることをお勧めする。

2025年6月13日金曜日

コメ騒動と米作文化

    11日のブログに「輸入米議論に欠けているもの」というのを書いた。
 テレビニュースなどが「備蓄米や輸入米がいよいよ店頭に出てきた」「何円だ」「コメが店頭に出てきて嬉しい」みたいな画面と音声を繰り返すのを見ていて、さらには「放出した備蓄米の穴埋めは輸入米の拡大でいいのではないか」というパフォーマンス大臣の発言まで肯定的に取り上げられ、事実として「内閣支持率が上がった」と報じられたのに大いに違和感というか、「そんなに単純に乗せられていいのだろうか」という気持ちから、問題のバックグランドである水田稲作と農村というものが果たしている気候温暖化対策効果に一言も触れないマスメディアはそれでよいのかという気持ちを込めて書いたところだ。
 このブログ記事を読んだKさんがフェイスブックで私の意見を一考に値するという趣旨で書いてくれたが、12日付け朝日新聞朝刊の山際寿一「科学 季評」で「米作 私たちを形づくる文化」というのが掲載され、私の視点もまんざら間違いではなかったように感じられ、少々孤独感がほぐされた感じがする。
 山際寿一氏の文章の一部をつまんで紹介する。
 🔳 有機農業の価値は環境のみならず人の心のつながりも強化してきたのだ。
 🔳 食糧自給率が極端に低い日本では、せめて主食のコメは有り余るほど生産して非常事態に備え、国際戦略の主力として活用すべきではないだろうか。
 🔳 コメという「商品」の生産・流通・消費の循環を図る上で重要なことがある。米作文化の継承だ。
 🔳 米作は地元の人々の力の源泉であり、その姿は総合的な景観と文化の複合により守られている。
 🔳 インドに発した仏教は「一切衆生悉有仏性」を説き、これが日本に渡り「山川草木悉皆成仏」となったという。
 🔳 この「コメ騒動」を契機に、私たちのこころのふるさとを形づくってきた米作とは何かを考え直すべきなのではないだろうか。
・・・農村であれ都市も漁村でも、そういう文化を重ねてきた日本人にしては、なんと底の浅い議論?に一喜一憂しているのかとテレビを見ていてため息をついている。

2025年6月12日木曜日

半白胡瓜

    箸休めとは失礼な白胡瓜

 写真は9日に撮影した今季第一号。黒イボ半白胡瓜。自根苗のため連作障害(厭地)を心配したが杞憂に終わり愉快愉快。(接木苗は売っていない)
 毎年わが家庭菜園ではこの半白胡瓜とイボイボの四葉(スーヨー)系胡瓜を植えている。
 苗屋には「めちゃ成り」とか言って「たくさんできる」「病気に強い」などという苗がたくさん出ているが、その種のものには手を出さないでいる。
 理由はただ一つ、素朴で美味しい胡瓜を食べたいがため。
 食べ方の第一はぬか漬け、次いでうざくといきたいが「う」(鰻)は高いので、アナゴでざくざく、後は鱧の皮、蛸、いろんな酢の物がよい。
 メーンディッシュとは言わないが、箸休めとは失礼に当たる。
 モンスーン地帯の暑気を払うには胡瓜がよい。

2025年6月11日水曜日

輸入米議論に欠けているもの

    「緊急」だとかいろいろ言い訳を言いながら、備蓄米を戻すことが出来なければ輸入米を増やして充てればいいではないかと例のパフォーマンス大臣。
 目先の選挙の話題にさえなれば、口先?八丁(舌先三寸)。
 こういう男に乗せられるとエライことになる気がするが、テレビや新聞を見ていると杞憂ではなさそうなのが怖い。

 口先大臣は環境大臣経験者でもあったはずだが、結局、客寄せパンダ以外の何者でもなかったことがはっきりした。
 ここで私が言いたいことは、コメのバックグラウンドである水田あるいは農村が環境に莫大な貢献をしているという認識が欠けているということ。マスコミも同様だが・・・
 日本人の主食のコメがなくなるのは重大なことではあるが、同様に地球温暖化は地球人共通の毒ガスのようなもの。
 稲作をつぶすことはこの国の環境を根本から破壊する・・と想像する知恵が大切ではないだろうか。。
 水田や農村のはたしている温暖化対策の効果は、ほんとうに試算すれば莫大な価額に相当する。
 そんな時代に、「古古古米も安くていい」とか「カリフォルニア米も結構いける」などとマイクの向こうで笑っているテレビ、そういうことを良しとしている姿勢のマスコミ。皆さん! 現代の地球人として忘れてはならないものを忘れていませんか。
 輸入米議論を聴いていて、稲作と田園、それに携わる農家を守る農政の大転換が必要だと思う毎日だ。

2025年6月10日火曜日

原発事故高裁判決

    6
月6日、東京高裁は、フクイチの原発事故について、東電旧経営陣の責任認めず 1審と逆の判断を下した。
1審の東京地裁は元会長ら4人の賠償責任を認め、国内の裁判で最高額とみられる、合わせて133210億円の賠償を命じ、双方が控訴していた。
原告の株主側は、国の機関が2002年に地震の予測についてまとめた「長期評価」に基づき巨大津波への対策をとるべきだったと主張した一方、旧経営陣側は「長期評価の信頼性は低く、巨大津波は予測できず、対策をしても事故は防げなかった」などとして責任はないと主張した。
判決は、『長期評価』は原発の事業者として尊重すべきものだが、地震学自体、未知の領域が多く、運転を停止させて津波対策を講じる根拠としては十分ではない。巨大津波を予測できる事情があったとは言えない」と指摘し、旧経営陣が巨大津波の対策を講じなかったことについて「当時の状況から、津波が襲来するという切迫感を抱かなかったのもやむをえない」として、1審の判決とは逆に旧経営陣の責任を認めず、株主側の訴えを退けた。
これは「大津波が来るような地震の具体的な危険性や切迫性がないと、原発事業者の役員は対策する必要はない」という内容で、原発事故の再発を招くおかしな判決だ。
事実、東京電力が津波対策について話し合った2008年は、柏崎刈羽原発が地震で止まっていて、切迫した状況だった。
現実に戻ると、14年以上続く避難生活で、コミュニティーも土地も、仕事も友人もすべてなくして、孤独でひとり寂しく住んでいる人もいる。ここに目を向けて考えるのが司法の役目ではないのか。
「長期評価」とは、過去の地震などを踏まえて地震の規模や発生確率を予測したもので、専門家でつくる政府の地震調査研究推進本部が公表している。
20027月には、三陸沖から房総沖にかけての地震の予測が公表され、過去400年の間に日本海溝沿いの領域でマグニチュード8クラスの津波を伴う大地震が3回発生しているとして、福島県沖を含む太平洋側の広い範囲で同様の地震が▽30年以内に▽20%程度の確率で発生すると推計した。
そのとき武藤元副社長は2008年、国の地震調査研究推進本部による「長期評価」に基づいて、福島第一原発に敷地の高さを超える最大15.7メートルの津波がくるという計算結果が出たという報告を部下から受け、改めて土木学会に検討を依頼する考えを示したので津波対策が保留された。
もし津波による浸水が本当に起きるかもしれないという危機感を持っていればもっとできることがあったし、海外の原発のように可動式の非常用発電機を置いておくなどしておけば事故にならなかった可能性もある。

さて、司法の場に倫理は無用なのか。長い現役の職場生活の中で実際に悩んだことも多いが、可能な限り被災者のために使える法律はないものかと条文や判例を探しまくったものである。そういう経験からすると、言って悪いが「でもしか裁判官」と見えてしまう。
ヨーロッパには「ノブレス・オブリージュ」という不文律がある。社会的地位にはそれに伴う高い義務があるというものだ。それを大企業の社会的責任と重ねるのに無理があるだろうか。
また私は、古都近くに住んでいるため、多くの宗教者の教えを聴く機会も多い。
例えば2014年発行された「奈良県宗教者フォーラム」編「修験道の真実と未来」の基調講演は「大自然に想定外などない」「政治家は・・自然のほんとうの怖さも知らないで簡単に手に負えるものと考えていたのではないか」と指摘している。
翻って、「「当時の状況から、津波が襲来するという切迫感を抱かなかったのもやむをえない」という判決文はどうだろう。
私はこのニュースを聴いて、非常に哀しい気持ちになった。

2025年6月9日月曜日

ニッポンジャーナリズムの病

    6月4日、学術会議解体法案の廃案を求め、2020年に任命拒否された当事者の加藤陽子東大教授、小沢隆一慈恵医大名誉教授らを先頭に、多くの日本を代表するような学者や市民が参院前で座り込みをしたが、「朝日」が短信扱いの記事を掲載したのみで、大手の新聞、テレビが全く報じなかった。
 トランプの大学自治やメディアへの介入は報じても、目の前の日本の事態には委縮している。なんと怖いことだろう。
 自公政権や維新は、国家予算が支払われている学術会議や国立大学は国の方針に従うのが当然だという詭弁を弄しているが、80年以上前のこの国で、学問や報道が国家に管理された結果が日本国民やアジアを中心とする他国の国民の悲惨な殺害(戦争)を生んだという歴史に封がされてよいのだろうか。
 そのメディア(特にテレビ)がニュースの時間を大きく費やして報じているのがコメ問題であるが、コメ不足の克服や減反の見直しには触れずに、備蓄米が店に並んだ、多くの市民が殺到した、食味はあまり変わらない、などという口先大臣の提灯持ちニュースでないか。
 放出した備蓄米の補充のときに銘柄米はどうなるのか、最終判断などと言って輸入米にシフトを切るのか、アメリカからの長距離輸送に伴う大量の殺菌剤や防カビ剤は・・・ほんとうにこの国のジャーナリズムは病んでいる。
 外国特派員協会が「しんぶん赤旗」に「報道の自由賞」を授与したのは的を射ている。

2025年6月8日日曜日

特別支援教育を大事にしてほしい

    いま参議院文教科学委員会では教員給与特別措置法(給特法)改正案が審議されているが、その改正案では、長時間労働が温存されるだけでなく、特別支援学校・学級の教員は特別支援調整額が引き下げられる内容となっている。
 学級担任手当などの一部引き上げや創設のために、少数派の特別支援教育を犠牲にしようとするもので、怒りを通り越して、文科省のその根性が悲しくなった。
 主務教諭という問題でいうと先行している東京都では、同僚性・共同性が壊れ「何でも言い合える雰囲気がなくなった」と指摘されている。
 社会全体の雰囲気が株式会社化する下で労働者は家畜ならぬ社畜と呼ばれて久しいが、今一度、労働者は商品ではない! 教育現場の競争主義は国を亡ぼす! という「青い」正論を大きな声で訴えたい。
 6月5日、共産党の吉良よし子議員は強く主張した。だが国会は「数」がものを言う。7月の参議院選挙が大切になっている。 
 ちなみに元職場の退職者が、大阪府内の某市立小学校で肢体不自由児介助員をしているが、最低賃金ぎりぎりの非正規不安定雇用だと嘆いている。ただ嘆いているだけではなく、自治労連の中の労働組合員として団体交渉にも参加していると退職者会の会報にしばしば投稿をしてくれている。