2025年1月18日土曜日

行基の供養塔

    先日、公立鳥取環境大学浅川滋男先生退任記念講演第3弾が堺市の土塔町公民館であったので出かけてきた。主題は『行基の建築考古学』で、奈良市疋田町(菅原町に隣接)で発掘された『菅原遺跡「円堂」の復元』だった。

 この疋田町にはけっこう有名な眼科病院があり、そこへ行くのに最初道に迷って新しい住宅街になっている丘のてっぺんに行ったことがあるが、後で考えるとそこが遺跡のあった場所である。
 行基が没した喜光寺(菅原寺)の西に当たる丘の上になる。反対に東を眺めると平城京の朱雀門、さらに終いには大僧正にまでなって大仏造立をなした東大寺。
 また、さらに振り返って西をもう一度眺めると、行基が火葬され埋葬された竹林寺を望むことができる。
 そんなことから『行基年譜』にいう「行基の供養堂」『長岡院』だろうと考えられる。行基の霊屋(たまや)、廟として菅原寺からよく見える丘陵上に建てられていた。
 そのような重要な遺跡であったので、文化財保存全国協議会や県や市の共産党の議員などが保存運動を行ったが、残念ながら住宅開発業者に忖度?した県や市は保存しなかった。

 さて遺跡は、円堂を四角い回廊が囲んでいるもので、空海の平安密教の多宝塔のようでもあるが、行基の奈良時代では全く類例のないものだ。
 発掘を担当した元興寺文化財研究所は、宝塔、多宝塔として復元イメージを発表したが、浅川先生は、奈良時代に宝塔はあり得ないと建築考古学の立場から強く批判された。ここが
本講演の中心テーマである。
 そして、行基が造った十三重の土塔の地でこれが開催された意味でもある。

 インドからアジアの『塔』とその宗教観と年代なども詳細に検討され、結論的には、聖徳太子の供養堂である夢殿、藤原武智麻呂の供養堂である栄山寺八角堂、藤原不比等の供養堂である興福寺北円堂のような、行基の供養堂であろうとして浅川先生は復元されている。
 論文は冊子になっているものでこんなに簡単なものではないが、私は講演に大いに満足して帰ってきた。
 結論では、小笠原好彦著『奈良時代の大造営と遷都』と違いはない。

 おまけの話をすると、行基が誕生した地にある堺の家原寺(家原の文珠さん)は小学校の低学年で歩いて遠足に行った私たち堺の子どもたちにとっては馴染みのお寺。
 行基の墓のある生駒の竹林寺周辺は妻の親戚が多く、廃仏毀釈で荒れ果てていた竹林寺を平成9年までにコツコツと再建させたのも妻の親戚の叔父さん。
 そして浅川先生と私は子ども同士が親友でいうなれば「パパとも」みたいなもの。

 さて行基は続日本紀では「小僧行基」と糾弾されていたが後には大僧正となっている。それを「行基は日和った」とみる見方もあるが、そうではなく、行基と行基集団の知識と実行力を認めた(頼った)聖武天皇と、すでに74歳の行基亡き後も、行基が造った橋、寺院、道場などが接収もしくは破壊されるのを危惧した行基の「合意」によるものだろう。
 行基集団の知識と行動力は抜群で、その背景に私は「墨子」を感じているが、浅学のためそれ以上の理解は進んでいない。

2025年1月17日金曜日

今日は1.17

    1.17から30年。3.11から14年。昨年は元日に能登半島地震があり息子のファミリーは金沢で遭遇した。この列島で地震は避けられない。
 もう少し遡ると関東大震災から102年。東南海地震を考える安政東南海大地震から171年。この東南海地震の発生周期は100年から150年であるから、明日発生してもおかしくない。

 先人たちの偉いのはこのように「大地震・津波は避けられない」との認識で、四天王寺にはそのことを石に刻んだ『安政地震津波碑』が中之門を入った無縁仏の頂上にある。
 それに比べて変に技術が向上したせいか現代人は危機意識が薄くはないだろうか。心理学でいう正常性バイアスもある。

 安政東南海地震では『稲村の火』の伝承もあるが、四天王寺の石碑はもっと注目されてもよい。昨年四天王寺界隈街歩きをした際この石碑のことを少し話したが、正直皆の反応は低かった。
 今年は1.17の30年ということでテレビなども少し力が入っているようだが、30年と31年に変わりがないように、アニバーサリーで終わらせてはいけない。読者のみなさんの1.17をコメントなどでいただければ幸いだ。

 最後に、避難所などの各種設備も進歩がない。西欧先進国の避難所のテレビニュースを見て彼我の差をつくづく思う。
 日本人はアホなのか、日本国はそれほど貧乏なのか。そうではなく、予算の哲学、政治の基本姿勢の問題だと思われる。
 中学校の社会で習ったが、戦争の裏では死の商人が宴会を催している。
 やれミサイルだ、台湾有事だといって、軍事費という名でアメリカの中古兵器をつけ払いで底なしに購入している。
 そこを見ないで103万円の壁を語るから地方財政との天秤みたいな話で終わる。国民や維新の議論に全く欠落しているのはここだ。
 1.17を語るとき忘れてはならない観点だと思う。

2025年1月16日木曜日

1.17から30年

    昨年日本被団協がノーベル平和賞を受賞したが、その意味は『体験を草の根で語り続けてきたこと』が評価されてのことだと思う。
 ならば「体験しなかった人は語れないのか」とするとそんなことはなく、人は共感し理性で理解できる。紆余曲折はあろうが、社会はそうして進歩する。その出発は体験したこと、それを聞いたことなどを語ることだろう。

 私は1995年(平成7年)1月17日は奈良市に住んでいたから、阪神間や北大阪に比べると揺れも弱かったが、関西の私鉄では近鉄だけが「運行しながら点検する」とかで動いていたので、京都線から西大寺を越えて一旦大阪から反対の奈良駅に出て、その後、走ったり止まったりする電車で大阪市中央区まで出勤した。
 そこは古いビルの9階であったから窓は割れ、机や書類ロッカーは転倒したり大きく移動していた。ひどいものだった。

 それらの「大掃除」のような片付けをしているうちに出先から「ガス、電気、水道の業者がボランティア?の要請?で出発するが、労働者が被災した場合どうなる?」という問い合わせが殺到し始めた。
 話は全て要領を得ないもので、誰の要請で、どういう指揮系統で動くのかも解らないが、現実の事態は動いていた。
 兵庫にはもちろん連絡が取れず、東京(行政電話)ともなかなか繋がらなかった。
 我われの広い仕事では、私の業務が一番最初の判断を要する部署だったから「待ったなし」だった。

 なので責任者3人ほどで決断し、「兵庫に提出できない届は大阪で仮受付をする」「指揮命令下での災害は補償される」「発注者、請負金額等不明な点はその旨記載し判明後補充して届ければよい」と徹底した。
 100年に一度あるかないかの判断を数時間で決断したわけである。
 これがスタートで、後はいろいろ公示をしたり官報掲載をしたり、この3月末までは忙しすぎて記憶も定かでない状態だった。

 それ故に、後輩たちがこういう事態に困らないよう、一件書類はそのままファイリングして残してきたが、その後「文書保存年限の過ぎた文書は遅滞なく廃棄せよ」となったから、もう残っていないかもしれない。
 「そんな徒弟制度みたいな記憶の継承は必要ない」という意見もあるかもしれないが、どうだろう。

 写真は堀川戎の『福興戎』。1.17で倒壊した鳥居の柱(石材)を彫って作成されたもの。
 今年の十日戎にお参りできたのも何かの縁かも。

2025年1月15日水曜日

土塔

 どおとです市民は言えりどとう町

    ラジオを聴いていたら、パーソナリティーがリスナーの住所を「青森県みと郡」と言うので「どのあたりかなあ」「聞いたことがないなあ」と思ったが、すぐに「三戸(さんのへ)郡」と訂正が入って笑った。
 実際に住所や人名はややこしい。
 頭書の川柳?の堺市中区土塔町も、堺市民はズーっと「どおと」であり、南海バスの停留所のアナウンスも「どおと」だったが、727年(神亀4年)に行基が建立開始した土塔が国の史跡であるため、各地から訪れた人々が実際に迷うことも多かったというので、ついに南海バスも「どとう」と発音するようになった地名である。

 その土塔は、そこにある大野寺の十三重塔で、一辺53.1m(天平尺180尺)の瓦積基壇の上に粘土塊等で十二重に盛土をし、屋根瓦61,432枚、立瓦6,440枚で全体を葺き、十三重には小規模木造建築の塔?が建てられていたであろうもので、現在、十二重の半分が復元されている。

 少し似たものとしては、東大寺大仏殿の南方1キロ奈良市高畑町にある頭塔(ずとう)がある。

 写真の土塔になぜ私が行ってきたのかは後日記す。


2025年1月14日火曜日

新春散歩

    日曜日の朝は雪が舞っていたので家の中ですくんでいたが「これではイカン」と散歩に出た。
 
 正月明けの日曜日のせいか街中静まり返っていて「みなさん休暇疲れか正月ボケか」と想像したが、ショッピングモールのフードコートとスタバには人があふれかえっていた。私の行動パターンがズレていただけ。

 ショッピングモールのスピーカーからは恵方巻の予約が繰り返され、今年も新年早々から先へ先へと訳もなく急がされていくのだろうか。

 この1~2月には写真用紙で印刷する「工作」を予定しているので値段の下見をしたが、A4×20枚で1,800円ほどだった。予想外に高いと若干後悔して帰ってからアマゾンを調べると、A4の両面印刷×100枚で1,680円が見つかった。
 アマゾンの独走は好きではないが、予算不足の「会」のことを考えると安く買いたいので心は乱れる。

2025年1月13日月曜日

これもインバウンド?

    少し前に大阪市内に出る用があったので(というのも少し不謹慎かもしれないが)一心寺に参ってきた。
 この寒波ならお年寄りは外出を控えるので空いているだろうと考えてのことでもある。
 狙いどおり、いつも待たされる受付堂はスイスイと進んでわが推理の的確さにほくそ笑んだが、本堂に入るとそこは満杯に近く、しょせん凡人の狙いなどこのように大甘でることを教えられた。
 それに、季節でいうと統計的にも冬季の死亡者数が多いようだから、祥月命日がこの混雑を生んでいるのかも。

 満杯のため1時間ほど経過して、トイレに行きたい頃に順番が廻って来たのにはマイッタが、これもヨミの悪さと不謹慎な動機のせいだろう。
 少し驚いたのは境内の外国人観光客と思しき人々の多さだった。きっと、その種のガイドブックに載っているのだろう。
 ただ考えてみると、四天王寺のような観光寺院(失礼)よりも、生きている?仏教が遠望できるといえるかもしれないから、これもアリかなと少し納得した。
 さすがに本堂には上がっては来ていないが、外国人向けに法要の観覧席があっても私は良いと思った。こんなのおかしいですか?

2025年1月12日日曜日

堀川戎余聞

    「冬至十日もすりゃアホでもわかる」は生前の義母の口癖みたいな言葉だったが「日の入り」に関してはいつも「ホンマや」と感心している。それはさておき・・・

    11日に書いた「堀川戎」の最寄り駅は『南森町』で、すぐ近くには天神橋筋商店街があるから一杯呑めるような店はいくらでも知っているが、ちょっと洒落たランチの店というとすぐには思い浮かばなかった。
 そしたら妻が娘に「ええ店を教えて」とLINEをし、折り返して「西天満の方に向かうと法律事務所街となり洒落た店もある」と、その中のとある店を教えてくれた。
 目立たない入口を地下に降りていく店で、娘の助言がなければ絶対に入ることのないような店だった。だが正解だった。

 昔なら、この種の相談は家族から私が受け、妻や娘にもキタならここ、ミナミならここはどう!と要望に応じて紹介するのが当然の流れであったが、それが今では全く反対になっているのが可笑しいものだった。
 老いては子に従え!の格言は名言だ。
 これからは、ネットやなんかで調べるよりも、子どもたちを頼るのが早道だろう。
 こうして立派な正真正銘の高貴高麗者になりつつある。

 福笹を持って入店すると、福の神が入ってきたように喜ばれた。めでたしめでたし。

2025年1月11日土曜日

今年も えべっさん

    十日戎なので今年は夫婦で堀川戎に詣でてきた。
 今宮戎に比べると境内の面積が格段に狭いので、詣でるまでに時間がかかったが、夜にはものすごく大渋滞することだろう。
 それでも「えべっさんは耳が遠い」と言われるから一番前まで徐々に進み、大きな声で「えべっさん!家内安全だけでええから頼んまっせ」とお賽銭を入れて、詣でた後は混雑から逃げるように外へ出た。
 福笹につける吉兆はここでは「小宝」と呼ばれ、江戸時代中期の唄に「十日戎の うりもの(売り物)は はぜぶくろ(袋)に とりばち(取鉢) 銭かます 小判に かね(金)箱 たてゑぼし(立烏帽子) ゆでばす(蓮) さいづち(才槌) たばねのし(束熨斗)  ささ(笹)をかたげて ちどりあし(千鳥足)」と歌われたものを集めたものである。
 その福笹だが、昔の福娘?は「大きい笹を・・」と差し出したが、「商売繁盛はエエから小さい笹にして」と言って授かってきた。
 写真は、関西演芸協会(会長桂福団治)の芸能人によるしころ(錣)。
 「しころ(錣)」とは、上方芝居芸能で正月興行の芝居終演の際、木戸口で太鼓と双盤を用いて囃したもので、男女が「ひょっとこ」「おたふく」の面を被って、「大入り」の字の形になるように踊っていたもの。上方芸能の保存を目的に毎年奉納されているという。この踊りの仕草が「大入り」の形なので、参拝者に「えべっさんの福」が懐に大きく入るとも言われている。
 笛、三味線、太鼓などの実際の演奏で演じられているもので、さすがキタの堀川戎という情緒が感じられた。

2025年1月10日金曜日

刀伊の入寇

    鎌倉期の蒙古襲来(元寇)以前、都は藤原道長の時代にこんな事件があったことはまったく知らなかった。東夷の来襲→刀伊の入寇。

 12月13日に渤海を書いたが、渤海は7世紀末に高句麗の遺民大祚栄がツングース系の靺鞨を統合した国だった。
 その渤海は10世紀初頭に南下してきた契丹族の遼に滅ぼされた。
 その契丹(遼)の支配下にあった女真(女直とも)は後に12世紀には契丹に代わって金を打ち立てるが、契丹支配下で特に朝鮮半島東北沿岸にいた東女真こそ日本が驚いた東夷(刀伊)であった。
 朝鮮半島では新羅を破って高麗が樹立されていた。
 ・・・ここまで記述するのに時間を要した。というほど私は無知だった。
 そんなもので中公新書『刀伊の入寇』、12月の初旬には読み始めていたのだが、年をまたいでようやく読み終えた。

 そこで感想をひとつだけ言うと、確かに王朝の兵(つわもの)たちもよく戦ったが、対馬、壱岐、博多湾周辺で略奪、殺害、捕虜生け捕りがされたにもかかわらず、時とともにそれは「刀伊を討ち従えた」という記憶に変わったということに驚く。

 寄り道だが、元寇のことについて東大寺の長老に教えてもらった話に、北ベトナム大越国の大勝利の話がある。日本に対して3度目の大侵略を計画していた元はその前にベトナムへ大戦争を繰り返したが、ベトナム側の「バクダン川の奇計」によって、艦船100隻沈没、400隻捕獲、兵は多数死亡、将軍、士官多数捕虜という決定的な大敗北を喫した。だから3度目の元寇がなかったのは鎌倉武士や神風に恐れたのではなく、ベトナムでの大敗北によって元が南や東への海戦をやめたからであるという話だった。

 つまり、元寇を神風とした後の歴史認識のようなものは「刀伊の入寇」からあったということ、もっと遡って新羅との戦争やいわゆる「神功皇后三韓征伐」も同じで、良い意味でも悪い意味でも島国ニッポンの外交その他の「観念論」の根は深いと思い知った。

2025年1月9日木曜日

インフォデミック

    インフォデミックとは情報(インフォメーション)と感染症大流行(パンデミック)を合わせた造語である。
 やたら横文字を使いたがる風潮には苦虫を噛みつぶしていたがこれは解り易いと少し認めている。
 と言っても1月4日付け赤旗の記事で初めて知ったもの。本年の初勉強は「赤旗」の「経済キーワード」だった。

 ついでにインフォデミックに関連する大切な横文字を拾ってみると・・・
 アルゴリズム・・・アルゴリズムとは、一般に、問題を解決するための手順やルールのこと。
 SNSでは、「いいね」や「リプライ」などのユーザー行動データに基づいて、どのようにコンテンツを配信するか決定するルールのことを指すらしい。
 一度ある情報を閲覧すると同じ傾向の情報が次々と出てくる。あるいは、そういう情報を検索している人を狙ってCMを流すことも可能だ。これは日々のスマホで実感している。

 フィルターバブル・・・同じ傾向の情報を次々とみていると、「フィルターバブル」といわれる空間に包まれ、それをみている人があたかも多数であるかの感覚に陥るといわれている。自分の見解と異なるような情報は流れてこない。ここが問題だ。

 エコチェンバー・・・よく似た現象にエコチェンバーがある。
 自分と似た意見や思想を持った人々の集まる空間(電子掲示板やSNSなど)内でコミュニケーションが繰り返され、自分の意見や思想が肯定されることによって、それらが世の中一般においても正しく、間違いないものであると信じ込んでしまう現象のことをいう。
 トランプ信者もこういう風にできたといわれている。
 遠い外国のことではない。現に東京や兵庫の知事選挙でもこの現象が現実世界に影響を与えている。
 「必要な情報はスマホで見るから新聞はいらない」ということの恐ろしさ。


 それだけに、いろいろな情報が「一覧」できる紙の新聞の重要性はネット時代だからこそ求められる。
 紙の媒体=紙の新聞のもつ一番の強みは、ニュースの「一覧性」にある。つまり、自分の知らないことでも、あるいは興味のないことでも、何がその日のニュースかをひと目でみることができるということだ。
 紙の新聞では、主要なニュースは1面で掲載するほか、政治面、経済面、国際面、社会面、スポーツ面といったニュース面で、その日の主なニュースがひと目でわかるようになっている。あるいは企画面では、最近の話題、情報などがその新聞なりの視点でとりあげられている。
 このことは、ネットで情報を検索する場合と大いに違う点だ。
 もちろん、紙媒体にもいろいろあるのでそこを見極める力,判断力が必要なことはいうまでもない。まさに「知は力」だ。

 なお、以上で述べたようなSNSの負の部分をSNS利用者に「知」として理解してもらうためには、そういう発信を彼らの読まない「オールドメディア」で語っているだけでは不十分で、アウェイ感があってもSNSの舞台に登らなければならないだろう。

2025年1月8日水曜日

何が立憲主義か

    正月に、石破首相をはじめ、立民の野田代表、維新の前原共同代表、国民の古川代表代行らはそれぞれ伊勢神宮を参拝した。
 個人が氏神様に初もうでに行ったという話ではないこのことを、赤旗以外の主要メディアはスルーした。

 戦前、アジア各国の人を殺し、ものを奪い、女性を凌辱した侵略戦争を精神的に支えたのは国家神道であったし、その頂点に置かれていたのが神宮(伊勢神宮)だった。
 戦後、日本国憲法は政教分離原則を打ち立て、表向きは他の神社と同レベルの一神社とされたが、戦前の政治や戦争を美化し、憲法改悪の先頭に立つ右翼団体・日本会議の顧問や代表委員に宮司が就任している。

 石破氏は報道されているところではキリスト教徒であるらしいから、明らかに信仰上の行動ではなかったことは明らかである。
 つまり、彼らの行動が、個人の信仰や民俗的な正月行事ではなく政治的な行動であることは明らかである。
 個人が個人としてどこの神社に参ろうが問題はないが、いやしくも憲法順守義務のある公人が、政教分離の原則を踏み外すことは見過ごせない。
 これらを、クリスマスを祝い、除夜の鐘を突き、初もうでに行く文化だと捉えるのは感度が悪すぎる。

 さて、よく「伝統だ」「昔から」と言われる話には気をつける必要がある。伊勢神宮・内宮の天照大神も例外ではない。
 以前に西宮神社に参ったとき神職が「東に蛭子(えびす)大神、中央に天照大神が祭られていますが昔は蛭子大神が中央でした。いつの間にか東に移ったのです」と説明した。帰宅してから昭和初期の本を当たってみると「天照大神」の名はなかった。推測すると紀元2600年(昭和15年)頃の皇国史観・国家神道絶頂期、つまり、つい先ごろ天照大神が中央に据えられたようだ。

 江戸後期に御師というツーリスト会社?方式が功を奏してお伊勢参りが流行した事実はあるが、明治以降の国家神道とゆめゆめ混同してはならない。
 日本書紀崇神天皇記の物語は別にして、宮中三殿が初めて設けられたのも近代1889年(明治22年)のことである。
 
 片岡伸行著『神々のルーツ』によると、そもそも正式名は「神宮」であるが、歴史上初めて「神宮」なる祭祀施設を表したのは新羅であった。江戸時代の地図には近くに「韓神山」があるが現在の地図にはその名が消されているとある。

 外宮のことなどもあるが話が長くなるので今日はここまで。

2025年1月7日火曜日

金色の落ち葉

金色(こんじき)のちひさき鳥のかたちして銀杏(いてふ)ちるなり岡の夕日に 晶子

    今年のわが家の蝋梅の開花はだいぶ遅れた。
 例年だと近所の蝋梅に先駆けて12月(臘月)にはけっこう咲いていたのに・・・
 きっと、夏日のような残暑が続いていたせいだろう。
 桜などは気温を積算していって開花すると聞くから、積算した気温が低くなるのが遅かったのか、それとも、開花準備のスイッチの入る低温の訪れが遅かったのだろう。
 写真は5日に撮影したものだが、ユズリハではないが開花とバトンタッチするように葉が散っていく。音もなく散っていく。
 落ち葉は茶色くはならず黄色いままなのがいい。そういえば銀杏もそうだと連想し、冒頭の与謝野晶子の歌を思い出した。
 蝋梅の花は蝋細工のような艶がある。その上に、爽やかな香りがする。
 受粉を助ける虫たちも来ない寒空に、誰に向けてなにゆえにこの芳香を放っているのだろう。

2025年1月6日月曜日

歳月 人を待たず

    お正月だからパーッといこう!と言いながら、お正月だからこそ「歳月人を待たず」などというちょっぴり深刻な詩が思い出される。
 写真の巳さんは奈良一刀彫のもので「なら工藝館」の公開講座の際私が絵付けしたものだ。…ということは、それは12年前のことになる。

 感覚的には数年前の出来事のようにしか感じないが、実際にはアッという間に12年経ったという”年月”をこの一刀彫を見ながら恐怖感をもって噛みしめている。
 つまり、この先の12年も、これに倍する速度で過ぎ去っていくことだろうし、そもそもこれからは次の干支に自分がいるかどうかもわからない。

 さて、蛇がなぜ干支の巳となったかについてはよく知らない(古代中国の星座の名前との説もあるようだ)が、中国の古くからの民間信仰であり当時の先進科学であった道教や陰陽五行説は、どちらかというと黄河ではなく長江、つまりは南の稲作地帯で発展したため、稲作や水辺の蛇は身近であったのではなかろうか。
 そこで脱皮を見た古人が再生、長寿のシンボルと見たのではないだろうか。

 蛇というと「こころ旅」の火野正平さんが動物が好きで、自転車走行中見つけた蛇を捕まえようとしたりして、怖がるスタッフが逃げ回るということもあったという思い出も2024年の思い出に貼り付けておこうと思う。

2025年1月5日日曜日

忍熊王の旧跡

    正月に、静かな集落、奈良市押熊の里にある八幡さんに初もうでに行ってきた。天満宮や稲荷社ほかにもいろいろの神社がまとまっているので、効率のよい?初もうでであった。
 
 ここのすぐ裏手には、『忍熊(おしくま)王子 麛坂(かごさか)王子 舊蹟(きゅうせき)地』があり、そのことは以前の(下記の)ブログで「墓」と書いたが、墓ではなく文字どおり「旧跡」であった。
 https://yamashirokihachi.blogspot.com/2017/12/blog-post.html

 で、その際のブログ記事では『富雄丸山古墳』は忍熊王の墓=古墳ではないかと想像したが、その想像はさらに膨らんでいった。
 富雄丸山古墳については今月後半に文化財保存全国協議会の講座が予定されていて、今からワクワクしている。

 旧跡の話に戻ると、鳥居の前に立派な門松が設えられていた。いわゆる神社でもないのに村の宮座のような人々によってこの旧跡が大事に守られてきたのだろうと想像された。
 すぐ近くにはニュータウンや大型商業施設が迫っているのに、この一角だけは嘘のように農村風景が残っている。
 下記のアドレスで以前に書いた歓喜天の常光寺もほんとうに静寂を保ってその中にあった。長閑な正月散歩であった。
 https://yamashirokihachi.blogspot.com/2019/06/blog-post_7.html?m=0

万博チケットの恐怖

公取法は企業が守らなければならないルールを定めている。
労基法は雇用関係上の使用者のルールを定めている。
社会的ルールを守ってこその社会的存在であるはずだ。
しかし今、大阪のサラリーマンは万博チケット購入の強制が始まるだろうと心配している。

 1221日のYAHOOニュース(日刊ゲンダイDIGITAL)は、「大阪万博チケットさっぱり売れず」とのタイトルで、目標1400万枚のうち経済界に割り当てた700万枚を超えた途端、売り上げペースが急失速。販売不振は赤字に直結する。埋め合わせに税金が投入される可能性も否めない・・と報じていたが、大阪のサラリーマンは今、「売れた」とされている700万枚について、企業ぐるみ選挙のようなルールを外れた圧力によってチケット購入が強制されるだろうとおびえている。

つまり大手の会社に割り当てられ販売されたという700万枚は、これから子会社、系列会社、取引等で嫌と言えない取引先に購入を「強制」され、それは玉突きのように社員に「強制」されるだろうと心配している。もちろんそれらはルール違反である。厳密にいえば違法である。

逆説的な話だが、子どもたちは学校から強制的に行くことになるから「一度ぐらいは子どもに見せてやろう」という必要もない。義務教育ぐらいの子どものいない大人にはわざわざ行く気も出てこない。
カジノ万博のことやガス爆発の危険を横に置いても高額のチケット購入を強制するのは理不尽だ。

大手企業は、本来の商取引でない万博チケットの「購入圧力」をかけるな! 企業は労働者に万博チケットの購入を強制するな! そういう当たり前の声が広がることを望む。