この疋田町にはけっこう有名な眼科病院があり、そこへ行くのに最初道に迷って新しい住宅街になっている丘のてっぺんに行ったことがあるが、後で考えるとそこが遺跡のあった場所である。
行基が没した喜光寺(菅原寺)の西に当たる丘の上になる。反対に東を眺めると平城京の朱雀門、さらに終いには大僧正にまでなって大仏造立をなした東大寺。
また、さらに振り返って西をもう一度眺めると、行基が火葬され埋葬された竹林寺を望むことができる。
そんなことから『行基年譜』にいう「行基の供養堂」『長岡院』だろうと考えられる。行基の霊屋(たまや)、廟として菅原寺からよく見える丘陵上に建てられていた。
そのような重要な遺跡であったので、文化財保存全国協議会や県や市の共産党の議員などが保存運動を行ったが、残念ながら住宅開発業者に忖度?した県や市は保存しなかった。
さて遺跡は、円堂を四角い回廊が囲んでいるもので、空海の平安密教の多宝塔のようでもあるが、行基の奈良時代では全く類例のないものだ。
発掘を担当した元興寺文化財研究所は、宝塔、多宝塔として復元イメージを発表したが、浅川先生は、奈良時代に宝塔はあり得ないと建築考古学の立場から強く批判された。ここが
本講演の中心テーマである。
そして、行基が造った十三重の土塔の地でこれが開催された意味でもある。
インドからアジアの『塔』とその宗教観と年代なども詳細に検討され、結論的には、聖徳太子の供養堂である夢殿、藤原武智麻呂の供養堂である栄山寺八角堂、藤原不比等の供養堂である興福寺北円堂のような、行基の供養堂であろうとして浅川先生は復元されている。
論文は冊子になっているものでこんなに簡単なものではないが、私は講演に大いに満足して帰ってきた。
結論では、小笠原好彦著『奈良時代の大造営と遷都』と違いはない。
おまけの話をすると、行基が誕生した地にある堺の家原寺(家原の文珠さん)は小学校の低学年で歩いて遠足に行った私たち堺の子どもたちにとっては馴染みのお寺。
行基の墓のある生駒の竹林寺周辺は妻の親戚が多く、廃仏毀釈で荒れ果てていた竹林寺を平成9年までにコツコツと再建させたのも妻の親戚の叔父さん。
そして浅川先生と私は子ども同士が親友でいうなれば「パパとも」みたいなもの。
さて行基は続日本紀では「小僧行基」と糾弾されていたが後には大僧正となっている。それを「行基は日和った」とみる見方もあるが、そうではなく、行基と行基集団の知識と実行力を認めた(頼った)聖武天皇と、すでに74歳の行基亡き後も、行基が造った橋、寺院、道場などが接収もしくは破壊されるのを危惧した行基の「合意」によるものだろう。
行基集団の知識と行動力は抜群で、その背景に私は「墨子」を感じているが、浅学のためそれ以上の理解は進んでいない。