バルカン半島の真ん中、セルビアだとかベオグラードなどと聞くと、昔々のユーゴスラビアだとかチトーという言葉を思い出すが、先日セルビアで大統領と議員の選挙があり、学生たちが提示したリストの人々が勝利し、14年間続いた半ば独裁的なヴチッチ政権が倒れた。
今後、新政権がどんな政策をとるのか、勉強不足もあり私には解らないが、民主主義が広まるであろう気はする。
その予兆であってくれればよいが、セルビアの主要なテレビであるRTVのアンカーが「私たちはこれまで沈黙を守り、目を背けていました」と謝罪文を読み上げ、編集長も辞任したらしい。
日本には「後の祭り」とか、大阪周辺なら「すまんで済んだら警察いらん」という俚言もあるが、ここはひとつ「反省しないよりも反省したことは善いことだ」としておこう。
この種のジャーナリズムに係わって話をつなぐと、ロシアの国営テレビで20年以上キャスターを努めてきたジャンナ・アガラコワさんが、プーチンのウクライナ侵攻に抗議して辞任し、その後事実上の亡命生活を送りながら、自身の歩みを振り返るドキュメンタリー映画「さよなら、私のロシア」を作ったということがある。
彼女は今のロシア市民について、勉強不足や無関心ではなく、弾圧への恐怖感、無力感に至っていると指摘している。
そこで日本だが、日本のメディアはセルビアのこれまでのテレビやロシアのテレビほどではないと信じたいが・・・
高市氏は総務相の折り(2016年)に国会で、「政治的公平が疑われる放送が行われたと判断した場合、放送法4条違反を理由に電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性」に言及し、表現の自由を保障する憲法に違反する「放送局に対する威嚇・恫喝以外の何者でもない」発言をしたが、この威嚇・恫喝がボディブローのように効いていないかと感じるのは心配性の故だろうか。
比例定数の削減問題でも、はたまた大阪市廃止問題でも、ただただ垂れ流す報道は、単に無気力だということではなく、結果として、権力のプロパガンダの手先になって、国民に毎日毎日政治への無力感を教え込んでいないだろうか。それが次の恐怖感の入口かどうかは各自が考える必要がある。
戦争までの言論統制を思うべし。

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