2012年9月30日日曜日

仲秋の嵐月

  少し本を齧っただけのことなのだが、月そのものを(男の神ではない)女神としたり、そこに女神が住んでいるとする神話・民話は世界中のあちこちで共通しているそうである。世界的な普遍性なんてチョット感動的で何処か可笑しい。
  思うに、月の満ち欠けは古人に生と死と再生を悟らせたのではないだろうか。そして、この世での再生のドラマ・・つまり妊娠と出産の主人公である女性・・つまり女神を想像したのでは・・・・。
  東欧の狼男は満月の夜に変身するが、この列島では満月の夜に狸ですらが踊りだす。この感覚も好きである。
  仲秋の名月・・・・であったはずが、見事に台風に直撃され、無月、雨月どころか、嵐月という造語がふさわしいような稀有な経験をした。旧暦8月15日の宵に台風が直撃するなんて統計的には『すごい』ことではないだろうか。猿沢池の采女祭も当然中止だ。ただ、ブログ掲載の21時段階では「台風って何のこと?」というような『台風一過』であるが月は見えない。
  それでも写真のとおり我が家には満月を顔を出し、楽しくお月見を行なった。
  月は、私が撮影した満月を印刷したものなのだが、印刷をしてみたらまったく兎の影がとんでしまって「私の作品(写真)だ」というのを家族に信じてもらえなかった。
  月見団子は「衣被き(きぬかつぎ)に似せた」とか「月に群雲」とか諸説はあるが、関西の月見団子はラグビーボールの胴を餡で包んだ形である。
  近所の大型ショッピングモールの和菓子屋は関西系ではないのでこの形の月見団子は置いていなかった。同じショッピングモールの中華料理店で「月餅(げっぺい)はありますか」と尋ねたら若い女性店員が「ゲッペイ?%$#?それ何?」という顔をした。
  日本を代表するような・・先ごろの中国の「暴動」のニュースで度々映し出された巨大スーパーだが、いつの間にかこの国は私の常識が通じない社会へと遠ざかってしまっているようだ。
  それでも良い、・・誰がなんと言おうと、少なくとも孫にはこの豊穣と再生の行事を引継ごう。
  庭の紫式部に再生のシンボルでもある空蝉を見つけた。
  蝉や蝶や蛇の脱皮に再生の力を信じた古人の発想が近頃いやに良く判る。思考方法が即物的になったのだろうか。自分の感性が変ってきたその理由は解らない。まさか「老い」ゆえだとは思いたくない。

2 件のコメント:

  1. 確かに「嵐月」という例えは何処にもありませんね、嵐山の料亭は有名ですが。今年の百舌鳥八幡のふとん太鼓、30日の「宮出」は中止になったそうです。各町の太鼓台は、どないして帰ったのでしょうか?

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  2. !あちこちの観月の行事が中止ですね。それを前提に準備していた方々の落胆ぶりが想像できます。だから先人は言っております。「月に群雲、花に嵐の例えもあるぞ」。

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