難波(なにわ)京のメインストリート朱雀大路の側溝が見つかったと新聞が報じていた。4月1日付けではあるが嘘ではない。場所は大阪の上本町1丁目交差点の少し東北。
法円坂に内裏址がある、孝徳天皇が645年から建設した難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)の朱雀門から南に走る推定幅32.7mの朱雀大路で、その先は難波大道(おおじ・だいどう)が堺に伸び、東に折れて飛鳥に通じていた。
戦後は、「難波宮【みや】は造られたが難波京【みやこ】はなかった」という説が常識のときもあったし、難波遷都のきっかけとなった乙巳の変、いわゆる大化の改新も、少し有名な郡評論争もあり「日本書紀の全くの作り話だ」というのが定説のようなときもあったが、近年の考古学の成果は、潤色のところは見極めながらも、「日本書紀も無視できない」というようになりつつある。
今回の朱雀大路の発見もそうだし、後期難波宮大極殿の西北の府警庁舎の建設に伴う発掘調査で柱列に残っていた柱は、総合地球環境学研究所の酸素同位体比年代測定法では柱の一番外側が583年と612年とされ、柱が辺材であったことから「プラス数年から数十年」の時代に伐採されたものとされている。(写真参考)
さらにその北側の谷から「戊申年」と書かれた木簡が出土し、この戊申年は648年と考えられている。
加えて、同谷からは7世紀代の漆容器が3,000点以上出土した。
また、つい最近、難波宮跡で「五十戸」と記された木簡が発見され、「大化改新の詔には‟仕丁は五十戸ごと”という五十戸という単位?があるが、そういう史料は天智時代(660年代)以前には見つからない」といわれていた常識も再検討されている(再検討で留まっているのは難波宮跡近くの出土ではあるが未だ年代の特定ができていないため)。
このように難波長柄豊碕宮とその京は考古学によって高い精度で確かめられつつある。
これらのことを考えると、文献史料の極端に乏しい我が国では木簡の持っている史料的価値はとてつもなく大きなものがあり、隣の県のことではあるが、平城宮跡の水位を下げて木簡を破壊する恐れのある「開発工事」は犯罪行為に等しいと私は感じている。
さて、古代史就中日本書紀は戦前の皇国史観の下敷きになったものであったため、戦後の開明的な人々が触れたがらない感じがしているが、古代史を歴史修正主義者の専門の舞台にさせないためにも、もっと庶民も興味を持ってもよいと私は思っている。
主たる性格は為政者の記録ではあるが、その周辺には今の公務員労働者に該当する豪族その他下級貴族たちも登場する歴史書でもある。と、つい最近気づいた。
これらのニュースを振り返って、いま私は高校時代の社会科の先生が、山根徳太郎博士が如何に苦労して難波宮を発見されたかを授業内容に関係なく熱っぽく語っておられたのを昨日のように思い出す。
また、もちろん近世からだろうが私の親や祖先は、大阪大空襲まではこの朱雀大路の上(東高津)に住んでいた。
そして私は、前期難波宮に重なる聖武天皇の後期難波宮の大極殿跡にある法円坂の勤務先に就職し、その西方にある古墳時代からの大倉庫群跡の勤務地に長く通勤した。
だからか、難波宮のニュースには訳もなく心の踊るのを抑えきれない。
余談になるが、「『百舌鳥・古市古墳群』の世界文化遺産登録を推進する議員連盟」が超党派で結成され、共産党の宮本岳志衆議院議員も副幹事長として参加している。
「古代の支配者の墓なんて」と教条的に言っていないところがいい。
私の知る限り奈良県などでは、現代政治については革新的立場でありかつ古代史が大好きな人々は非常に多い。
それもそのはずで、『戦前のレジーム』への懐古を口にする人々こそが二枚目の舌で遺跡破壊の「開発」の先頭に立っている。
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