2月22日の記事で「洗濯板は明治時代に移入されたものだから、それ以前は宮崎県の名勝『鬼の洗濯板』は何と呼んでいたのだろう」と書き、すぐに宮崎県の観光部局にメールで質問したが、今日に至るも返事がない。ちなみに山城郷土資料館に洗濯板の上下を尋ねたらすぐに回答があった。
だから、鬼の洗濯板の昔の名前は判らない。
さて、和菓子の名前でも有名な三笠(山)はどこだろう。
若草山と春日山と高円山の三つの山を重ねた総称だという説もあるが・・・、
正解?は御蓋山と書くのが正しく、春日山の前の方の一峰と言われている。
後ろが春日の奥山である。(普通に言うところの春日山)
阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」がここ(御蓋山)を詠ったものであるということに異論は多くない。
しかし、正直に言えば御蓋山と奥山の区別は見た目にはほんとうに判り難く、奥山に比べて御蓋山の影は薄く、それよりも、ごく普通には若草山の旧称こそが三笠山である。
こちらは確かに一重目、二重目、三重目と重なっているのが明瞭で、ここを三笠山と呼んでいたということも十分納得できる。事実、私などもそう理解していた。
なら、三笠山と御蓋山が並んでいるのが煩雑なので三笠山の方が若草山と改称されたのかというとそう単純ではないらしい。
真相は、昭和10年に三笠宮家が宮号を賜った際に「同じ名前では畏れ多い」として若草山に徹底されたらしいのだ。
このように考えると、近代史も古代史以上に複雑怪奇である。
その近代史を為政者たちのグループの主張する『現代史』が、あちこちで捻じ曲げようとして蠢いている。嗚呼。私がこの記事で一番言いたかったことは此処である。
私たちは近代史修正の進行形の上に生きているのだ。
だから三笠山と読んだり聞いたりした場合、それが御蓋山のことなのか若草山のことなのかは今でも文脈から想定しなければならない。
なお、和菓子の三笠は、山焼きでのっぺらぼうになった若草山(一重目)に違いない。あれは鬱蒼と繁った春日原始林のイメージでは決してない。
余談ながら、戦後レジームの下で秋篠家が創設されたときには奈良市秋篠町も秋篠寺も「畏れ多い」として改名などしていない。それでいい。
さて、秋篠地域と伎芸天で有名な秋篠寺は非常に歴史ある街とお寺であるが世界遺産の中には含まれていない。
こちらの理由は、すぐ隣に競輪場があるからで、当然、そんな世界遺産は何処にもない。
私などは、古都に似つかわしくない競輪場こそが「畏れ多い」とか言って無くなって、秋篠寺周辺が世界遺産に包含されればいいと思っている。
ほんとうは「畏れ多い」かどうかではなく、理性的に考えてそうあるべきだろう。
※ 追記 3月4日に宮崎県から返信があった。「鬼の洗濯板」の初見は昭和8年であり、それ以前の呼称については県立博物館、県立図書館の文献等に見つけることができなかった・・とのことであった。宮崎県の観光推進課、ありがとうございました。
宮崎県の観光推進課から返事を戴いたので本文に追記しました。
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