2014年6月4日水曜日

疑うは楽し

  日本と日本人の歴史を考える場合、最も古い一級史料は魏志倭人伝となる。
 それ故、邪馬台国の位置についてあれほどあれこれ言う人も、衣食住については概ね魏志倭人伝を大前提に解説している。
 しかし私は、あちこちの博物館などで縄文や弥生の出土品を見ながら、例えば「倭人は手食す」という魏志倭人伝の記述が「ほんとうか」と疑っている。
 つまり、箸を使っていなかったというのである。
 倭の伊都国には帯方郡の郡使が留まることもあったというのにである。
 本の名も著者の名も忘れたが、こういう疑問を持った人が先にいたことを図書館で知ったときには大いに勇気づけられた。
 確かその本では、縄文や弥生の発掘調査で出てきた木片を「箸ではないですか?」と尋ねると、「専門家」には一笑に付されてばかりだったと著者は嘆いていた。
 先日、大阪府立弥生文化博物館を訪ねたが、そこには現代のオオサジあるいはチリレンゲにあたる木製の匙が展示されていた。けっこう小さいものである。
 以前にも語ったが、弥生の金属製品などは「これは昭和20年代のものです」と言っても誰も疑わないようなものも結構ある。
 この匙の近くには鉄製の「毛抜き」も展示されていた。
 そんなこんなを考えると、ほんとうに弥生人は手食だったのだろうか。(鉄製毛抜きは使っていても箸は使っていなかった?? それは金属製のピンセット型の箸である可能性はないの??)
 先の本を図書館で読んでから、あちこちの博物館や現地報告会で私はひそかに箸と思われる木片が見つからないかと探している。
 ひと口に倭人と言ってもピンからキリだろうから一概に「当時の風俗」と言えないかもしれないが、帯方郡の一大率(一大率は女王国の官という説もあるが)が田圃の畦で握り飯を頬張っている倭人を見て、「倭人は手食す」と言ったのかもしれないと頭の奥で考えている。
 定説を疑いながら出土品を見て廻るのはとても楽しい。

3 件のコメント:

  1.  高知県の国道32号線に「邪馬台国はここにあった。」の看板があります。以前は物好きな方のため旅館もありました。そこの女将と一度邪馬台国について話したことがあります。凄く真面目で話は大きいですが理論的でした。女将の息子は医者で、女将の言う、邪馬台国のあった傍で立派な病院を経営していました。大きな意味では、長谷やんや私もいくらかお世話になったところです。
     今は、森林におおわれて何もありません。偉大な先人の俳句が脳裏をめぐりました。
     「夏草や兵どもが夢のあと」
     わたくしバラやんは本日62歳になり、血圧の薬も中断して益々元気もりもりで、頑張っているつもりです。

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  2.  お誕生日おめでとうございます。邪馬台国の比定地は全国にあり、四国では阿波の矢野神山や悲願寺が有名とされていますが、土佐にもあったのですか。土佐のことですから余程壮大な話なのでしょう。
     大切なことは考古学の成果と文献史料を照らし合わせながら真実に迫ることでしょう。先の長い話をゆっくりと楽しみたいと思っています。

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  3.  四万十川流域は古代史の上では大変なところで、縄文晩期から弥生の入田(にゅうた)遺跡や古墳群もあり、銅矛は20本(近畿は破片も含めて数本)出土している。一宮(いっく)神社には「七星剣」があり、現在でも川筋ごとに銅矛あるいは銅剣が神社の祭礼に使っている。日本書紀には「土左の大神が天皇に神刀を贈った」という非常に珍しい記述がある。・・・と、森浩一先生はその地の歴史の抜本的見直しを提唱されています。

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