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そんな問題意識が頭の底にあるので、大きな書店を覗いた時などにその種の本を立ち読みすることも多い。
先日も、第一次世界大戦前後の庶民生活の写真集をめくったが、俗に言われる大正デモクラシーなのだろうか、その意外な明るさに戸惑った。
事実、義母の記憶の頁々も、貧しくはあったが悲惨と言うほどのこともない思い出が多い。ただこれは、飢饉の東北ではそんな悠長なものではなかっただろうが。
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気が付いた時には庶民に抵抗できる余裕はなく、殺し合いの場に投入された多くの『人の良い常識的な父も祖父も』、口にできないような暴力をなしてきたのだと思う。それがリアルな戦争というものであって、そこに目をつぶってはならないのだろう。
そして現代を鳥瞰すれば、それはまさしく私が頁をめくった本の『戦前の平和』と重なるということを何回述べても言い過ぎることはないだろう。
さらにこの(現代の)「戦前」の向こうの戦争は核戦争と一触即発の危険を秘めており、せめてベトナム戦争の時代をリアルに見てきた人々は、「あの老人たちは何故あんなに青臭く戦争反対を唱え続けるのだろう」と次世代の者たちに、疑問を超えて理解してもらえるまで、発言し行動しなければと思っている。
来週は、8月のヒロシマ・ナガサキに向けて歩く核兵器廃絶国民平和行進が大阪を通過する。
気分的には(1)のプラカードにしたい気もするが、「独りよがりの押しつけ」にとられてもいけないと思い、(2)のプラカードを制作した。
体調を気遣いつつ準備したい。
プラカードにかかわって付言すると、『原則を押えて共感と展望を広げる宣伝』というのは本当に難しいが、そういう問題意識を持った者が試行錯誤するしかないと思う。これは、手作りミニコミやシュプレヒコールやイベント等々に通じるテーマでプラカードだけのことでもない。
何もしない者が批判することは容易い。いわく、原則的でない。生ぬるい。等々。
しかし、正しい原則を口にしすれば世論が広がるというのなら話は簡単である。とっくの昔にそうなっていただろう。
「また某新聞の切り抜きのようなお説教かい」という宣伝に誰が共鳴するだろうか。
だから、一人一人が自分の言葉で自分の思いを語る必要があるように思っている。
ただ、そういう議論さえ低調になっている現状には少し寂しさを感じているが、「それはあんたの偏見や」と叱られるならそれでよい。
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