2012年6月20日水曜日

それって伝統

  私は伝仁徳天皇陵である大仙陵の近くで育った。そして今は、その皇后である伝磐之媛命陵の近くに住んでいる。
  この夫婦の御陵が何故こんなに遠く離れた処にあるかといえば、古事記の語るところ磐之媛が仁徳の浮気を決して許さず別居したためらしく、磐之姫はウーマンリブ(これも死語ですか)の元祖である。
  お濠にカワセミが来るので偶に散歩に行くが、今はスイレンやコウホネが咲き、カキツバタも咲きかけている。好きな場所のひとつである。
  ただ、先日、松原市文化財保護審議会委員の西田孝司氏の講義を聴く機会があったが、多くの古墳は江戸時代中期までは、神社の奥の院とされていたところを除いては、ほとんどが禿山であったそうで、もちろん鳥居などもなく、伝仁徳天皇陵も「国見山」と名付けられた文字どおり遊山の名所だったらしい。
  それが、幕末の尊王思想と特に明治の皇国史観によって、神社らしく神々しくと、大規模な植樹や鳥居の新設が行なわれて今日に至っている。
  伝磐之媛命陵も写真のとおり例外ではない。
  つまり、私たちは(私だけ?)たかだか100年一寸前に意図的に改変された風景を千数百年を経て今日に至っている古代の風景と勘違いしているのである。
  昨年私は原発神話というものの罪深さを思い知ったが、古事記編纂1300年のブームの中で、同様の神話が一人歩きしないことを願っている。

そも御陵はこうではなかった(磐之媛命陵正面)



   伝磐之媛命陵の隣に小奈辺陵墓参考地がある。比定する天皇が思い浮かばないというだけのことで、立派な大王級の前方後円墳である。
  こちらは、この冬に水鶏(くいな)の写真を撮りに行った折、宮内庁による大規模な護岸改修工事が行なわれていた。
  これも、橿原考古学研究所共同研究員の宮川氏の講義によると、元の墳丘よりも一回り小さく「整備」されたようで、各種古墳のそれぞれの設計図から歴史を分析する上では重大な障碍をもたらしているようだ。 
  研究者による御陵の調査は拒否する一方、護岸改修は非科学的に独断専行する。こんな宮内庁の反理知的な姿勢を見ると、英国王室は何歩も先を行っているように思われ悲しくなる。 
  この4月に天皇は火葬と合葬、簡素な葬礼等を望んでいるとの発表があった。皇国史観以前の中世、近世の伝統で言えばこのとおりだろう。そのことは以前のブログに書いた。(仏式の火葬が伝統に適っており上円下方墳はさらにおかしい。)
  また、W杯日韓共催前年や平城遷都祭の折には現天皇の「(私の先祖である)桓武天皇の生母の高野新笠は百済の武寧王の子孫」との「おことば」があった。
  だが、どういうわけかメディアはほとんど報じなかった。
  歴史を直視する眼は天皇自身よりも宮内庁やメディアの方が歪んでいるように私には見える。

護岸改修されたコナベ古墳
 

0 件のコメント:

コメントを投稿