2012年6月11日月曜日

原風景

  私の通っていた小学校区には田圃がなかった。
  だから、この国の文化の基底を成している、農事にまつわる記憶だとか農事に繋がる感傷というものがほとんどないというマイノリティーに私は属している。
  それでも水田に代表される風景になんとなく懐かしさを感じるのは民族のDNAなのだろうか。
  今では、別に田を持っているわけでもないのに「梅雨もまたよろし」などと思うのである。
  いわゆるニュータウンの家から少し外れると元からの集落と田圃があるので、梅雨の間の散歩も苦にならない。
  こんなことごとはご存知の方には「何を今更」と言ったような周知の事実ばかりだが、田植えは、遅かった田圃でも先週ぐらいまでに終了した。今はトラクターの音でなく草刈機の音が響いている。
  そして、私の好きなBGMだが、葦原からはヨシキリ、空中からはヒバリ、セッカ、ケリ、そして里山からはウグイスとホトトギスである。
  しかし正直に言えば、こういう風景が見えてきたのはここ数年で、現役サラリーマン時代には全く見えていなかった。
  「過労死やメンタルの不調」という話題が誰もが身近に納得できるような労働環境は、こういう風景さえも見えなくしていたのだ。

  切りのない人員削減と長時間労働、賃金切り下げ、競争と孤立の非正規労働を是とするような主張が溢れているが、「ほんとうにそれでよいのか」という声が大切にされなければならないように思われる。
  厚生労働省に統合されて影の薄くなった労働政策と労働行政を再建させる必要はないだろうか。
  労働大臣のいない先進国っておかしいだろう。
  草刈作業の場から遠くない畦に雉(きじ)がいた。カルガモの親子は田圃から田圃へ道を横切る。
  田圃には水が入ったばかりだというのに「兜海老(写真)」や「豊年海老」が泳いでいる。
  昨年の夏に水を抜いた田圃の土の中で9か月程度卵のままでこのときを待っていたのだろうか。可愛い奴である。
  名前のとおり豊年を予祝しているようだ。
  こんな風景を見て現役勤労者にもホッとしてもらいたい。

  ついでに、佐佐木信綱作詞の 『夏は来ぬ』 を掲載するので、「ホッと」をリフレーンしてもらおう・・・。

1 卯の花の 匂う垣根に        2 さみだれの そそぐ山田に
    時鳥 早も来鳴きて             早乙女が 裳裾ぬらして
    忍音もらす 夏は来ぬ          玉苗植うる 夏は来ぬ
 
3 橘の かおる軒端の      4 楝ちる 川辺の宿の
    窓近く 蛍とびかい         門遠く 水鶏声して
    おこたり諫むる 夏は来ぬ     夕月すずしき 夏は来ぬ
 
5 五月闇 蛍とびかい
    水鶏なき 卯の花さきて
    早苗植えわたす 夏は来ぬ

6月12日追記(お願い)  カブトエビについて私は漠然と『昔から田圃に居たものだが農薬等の水質悪化で減少していたものが近年増えていて好ましいことだ』と思っていたが、農家の娘であった義母が「知らない」と言った。その娘である妻も「昭和53年ごろ奈良市学園前で初めて知った」と言う。コメントに書いたとおり私が大和川の浅香山近辺で見たのは昭和37年。・・・つまり、公害、農薬以前の田圃にもカブトエビはあまりいなかったのかもしれない。そこで、皆さんがカブトエビを初めて知ったのは何時の頃・何処でかを教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。

5 件のコメント:

  1. 懐かしいですね。子供の頃は、生きた化石「カブトガニ」の幼生と信じていました。

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  2. !私はブログのような事情でカブトエビを初めて見たのは高校生の時に大和川で、河口とそう遠くない辺りででした。
     ひげ親父さん同様「カブトガニの子どもを見つけた」と興奮しました。
     写真のはカブトエビでもまだ子どもです。これからどんどんカブトガニに似ていきます。カブトエビは「生きた化石」と言わないんでしょうかねえ。

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  3. 記憶は定かではありませんが小学生の頃、それも図鑑か何かで「生きた化石・カブトガニ」を知ってから意識したように思います。その頃、子供の間で、捕まえて自慢できるのは、大きな爪を持った『ザリガニ』が一番で、「鬼ヤンマ」や「かなへび」なんかに比べてみれば、B級選手の扱いだったと思います。それほど、河内の田圃には沢山いたという事かもしれません。

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  4. カブトエビは80年代には泉南にもたくさんいましたが、ほかにその頃の田んぼにいたのは、アメリカザリガニ、タニシ、メダカ、カダヤシくらいでした。ドジョウのいる田んぼをずっと探しているのですが、いまだに見つかりません。四万十川でもドジョウは減っているそうで…

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  5. !コメントありがとうございます。mykazekさんは1980年代の泉南に、ひげ親父さんは1950年代の河内で見ていたのですね。ところが1930年代以前の生駒谷で農業を手伝っていた義母は「知らんなあ」と言うのです。だれか、カブトエビがどの時代にどういう理由で拡がったのかをご存知ないでしょうか。義母の田圃は、基本的には下肥と牛糞と「まこ」という肥料を撒いていたそうですが、詳細(記憶)は不明です。
     「真実は細部に宿る」と申しますが、事実は、「自然であった昔と自然破壊の現代」との答案用紙を提出できるほど単純ではありませんね。

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