2011年12月27日火曜日

難波高津宮趾

高津高校にて撮影
   難波宮(なにわのみや)を最初に知ったのは高校の社会の時間で、先生が山根徳太郎博士の調査と発掘の物語のような話を、目の色を変えて感情を込めて「素晴らしいことです」と度々語るのを聞いた事だった。
 その後、その難波宮、つまり孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(前期難波宮)や天武天皇等々の難波宮(後期難波宮)の大極殿のあった法円坂の地で何回も勤務をした(転勤のため)のだが、灯台下暗しの例えどおり、この歳になるまでほとんど勉強せずに来ている。

 さて、タイトルの難波高津宮(なにわたかつのみや)は、前述の前後期難波宮にさらに先立ち、応神天皇の難波大隈宮の後、仁徳天皇が営んだと日本書紀にある、皇国史観の戦前には有名すぎるほど有名な宮殿であるが、この所在地については百家争鳴の感がある。
 そのうちの、摂陽群談、摂津志、難波旧地考、難波上古図説などはそれを上六(うえろく=上本町6丁目)の東北の「東高津」あたりと記している。
 
 そして我が家(といっても兄や姉までが過ごした家)は、大阪大空襲まではそこにあった。
 実母に聞くと、すぐ近所に氏神さんである東高津宮(神社)があり、そこには高津宮趾の石碑があった。
 東高津宮の鳥居には夫(私の実父)の名が彫ってあるのが誇らしかった。
 東南の周辺は元々一面の桃林であって、桃谷の地名の由来だろう。だから、相当開けてきた昭和初期でも鶯の鳴き声が頻繁だった。
 すぐ南の方には日赤病院があって、ひっきりなしに兵隊さんが運び込まれていた。
 空襲の後、上町台地からは大阪中が見渡せた。・・・とのことである。
 
 なお、東高津宮の神主さんに伺うと、東高津宮はもと「近鉄(大軌)上本町地上駅」の場所にあり、「元高津」と呼ばれ「仁徳天皇皇居大宮跡平野社」と記され、横には「難波寺」があったが、昭和7年に東高津の地に遷宮したとのこと。落語「高津の富」や「崇徳院」で有名な高津宮とは別である。
 もと東高津宮にあった高津宮趾の石碑は今は府立高津高校の校内に移されている。
 今日のブログは以上である。別に研究成果もオチもない。

 子供の頃は、生れるほんの数年前の戦争の話にも「別世界」のような距離感があったが、101歳の実母と話を重ねていくうちに、大正も昭和初期もまるで一昨日のように感じられるようになった。有難いことである。

2 件のコメント:

  1. 谷町センターから歩いて10分足らずの所なのでよく休憩しに行きました。米朝さんの「上方落語地図」には「高津の富」ではなく、「イモリの黒焼き屋」の噺が載ってます。高津宮の絵馬堂の下にあって、昭和50年ごろまで営業していたらしいです。

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  2. 「高津の黒焼き屋」は「摂津名所図会」などにも有名なものでした。
     私の長兄は小さい頃体が弱く、よく黒焼きを飲まされていたそうです。きっと此処の黒焼きだったのでしょう。

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