2015年1月19日月曜日

小山田遺跡現地説明会

  18日、橿考研(かしこうけん・奈良県立橿原考古学研究所)による小山田(こやまだ)遺跡第5・6次調査現地説明会があった。
 いつものことながら、「謎の天皇陵発見か?」と各紙1面トップで報じられたこともあり、電車の中はご同輩であふれ、空にはヘリコプターが舞い、主要テレビ局も勢揃いという賑やかさで、10時開始のところが9時ごろから繰り上げられて始まっていて、私は9時25分から説明のグループに入った。
敷石のない穴の部分は
昭和40年の校舎建設時に出来たもの
  場所は明日香の中心地(川原)で、甘樫丘あたりから南へ伸びている尾根の先端部をズバッと切断して、飛鳥時代最大級の方墳が築造されたもので?この遺跡はその北辺ではないか?というのが説明内容。
 少し小ぶりの敷石が敷き詰められた堀割りが東西に約48m掘られ、北側(外側)は少し大きな石が貼られて土手を造り、南側(古墳側)は方形の板石の結晶片岩を2段積んだ上へ同じような室生安山岩を約10㎝ずつずらしながら約25度の傾斜で積んでいる立派な仕様だ。
 説明員は7世紀中期と言う。
  私の知識ではこれが古墳の裾なのか、全くほかの石の施設(明日香には石の遺跡が少なくない)なのかはわからないが、古墳だとしたら飛鳥時代の天皇陵級の感じがする。
 石舞台古墳をしのぐ規模である。
 たしか橿考研の菅谷所長はテレビで「舒明(じょめい)天皇の初葬地」の可能性を語っておられた。
 板石の積石が改葬後の舒明陵とされる段ノ塚古墳(書紀では押坂陵だが)と類似し、他に例がないようだ。
 すぐ西側には菖蒲池(しょうぶいけ)古墳があり、立派な石室と二つの石棺を見学できる。方墳と考えられている。だから、ここも天皇陵古墳の可能性が非常に高いという説明に十分納得できる。
 また一方、この地が蘇我一族の中心地であることや、一面では天皇家をも上回る権勢を誇った蘇我の墓(例えば蘇我蝦夷の墓)かも知れないとの説にも、舒明天皇が蘇我宗家と仲がよくなかったらしいこともあり、相当有力な説得力を感じる。
 板石の加工技術など古代人の高度な技術に感心するが、その割に記録を残さなかった先人に少しがっかりする。大陸には異常なほどに記録マニアの国があったというのに・・・。
 それとも、記紀編纂の時代に、それ以前の気にいらない記録を抹殺した所業があったのだろうか。
 まあ、そのおかげで、1400年ほど後の我々がああでもないこうでもないと楽しまさせてもらっているのだが。
 天気もよく、岡寺まで足を延ばした。はるか金剛山山頂が白く輝いていた。
 歳は取りたくないものだ・・が、朝早くから、膀胱の上あたりに懐炉を貼って出かけた甲斐があった。
   明日香には 謎という言葉が よく似合う
  謎と言えば 参加者みんな 納得し 

2 件のコメント:

  1. お疲れ様でした

    現地説明会の当日は前日の様な
    冷たい飛鳥風も吹かず 天気も
    味方をしてくれたみたいですね
     
    皆さん 夢 謎 ロマン 興奮・・・・・
    いっぱいリュックに詰めて お帰りに
    なられた様です

    お手伝いに参加させて頂いた主人が
    興奮気味に帰宅しました  やれやれ

    やっぱり疲れたのか 今朝はお昼前迄
    爆睡でした  「笑」



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  2.  橿考研の準備体制はさすがに各地の教育委員会等とは比べものにならないくらいしっかりしているように思いました。
     ニュースでは8,000人が参加したと報じられ、前後1時間延長して9時から5時まで行われたようですから、さぞやお疲れのことでしょう。ご苦労様とお伝えください。
     それにしてもこの遺構・・・・いったい何なのでしょうかねえ! 私ごときの頭では舒明天皇の滑谷崗(なめはざまのをか)か、蘇我蝦夷・入鹿の雙墓(ふたつのはか)・大陵(おほみささぎ)小陵(こみささぎ)=日本書紀巻廿四=か、など判断ができません。だから楽しい??

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