10日は12:50から17:50まで百済文化国際シンポジウムに出席した。16:50終了予定であったものが会場の奈良教育大学を出たときには真っ暗な奈良公園であったという充実ぶりで、「熊津時代の百済と倭」など余程復習しないと消化不良になる程豊富な内容だった。
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この行列、お笑いください。 |
11日は大田皇女(おおたのひめみこ)の墓である可能性の高い越塚御門(こしつかごもん)古墳現地見学会と、折角の機会であるので再度自分の目で確認しておきたい幾つかの飛鳥の遺跡をじっくりと巡ってきた。
それにしても飛鳥の懐は深く、あちらこちらに〇〇塚と伝えられている丘がいっぱいあり、もちろん未調査となっている。一方で、亀型石造物や今回の越塚御門古墳など、全くノーマークの場所を掘っていても大発見が度々あるというのであるから歩いていても背中がゾクゾクする。
越塚御門古墳などは、つい3ヶ月前に八角墳確定で斉明天皇・間人皇女合葬陵だろうといわれた牽午子塚古墳の中ともいえるところにあったのだから、もちろん「先の大発見」のあった3ヶ月前には誰も予想もしていなかったのだから驚くばかりだ。
以前に故網干善教先生宅の近所に住んでいたことがあり、先生から関大の学生を連れて高松塚の発掘作業を行い例の大発見をしたときの話を伺ったときも感動したが、そういえば、高校時分の歴史の故林先生が、通常の授業内容よりも山根徳太郎博士の難波の宮発掘調査の大極殿発見のエピソードを熱く熱く語っていた姿が昨日のように思い出される。
概して歴史家は簡単にその時代にタイムスリップできるようだ。考古学の水野正好大先生などは、今しがた卑弥呼を見て来た様に話されるので大人気者である。
なお、今回の越塚御門古墳の石槨のラインは牽午子塚古墳の石槨のラインと大きくズレていた。石槨と墓道のラインも少々ズレていた。これについて「慌てて作ったからか」と新聞で解説しているものがあったがそうだろうか。真実は細部に宿るというから軽々に被葬者を特定したり、日本書紀の記述内容を信用するのはどうかと思う。今夜もなかなか眠れそうにない。