2015年2月24日火曜日

卓見に目から鱗

  「本と雑誌のニュースサイト/リテラ」という中で酒井まど氏が高畑勲監督の言葉を解説しているのがあって感動したので、内容を孫引きのように書かせてもらう。内容の大意はこうである。

 『火垂るの墓』を撮った高畑監督は、反戦映画というものが、「戦争を起こさないため、止めるためのもの」であるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないかと神奈川新聞のインタビューに答えている。
 なんの罪もない幼い兄妹が戦争に巻き込まれ、死に追いやられることへのやり場のない怒りと悲しみ。優しいはずの親戚さえ手を差し伸べなくなるという戦争のもうひとつの恐ろしさ。死にたくない、殺されたくない、あんなひもじい思いは絶対にしたくない。・・・そういう気持ちが生まれる『火垂るの墓』は反戦映画だと思われることが多い。
 しかし、攻め込まれてひどい目にあった経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始めるときは「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっているからだ。「死にたくない、殺されたくない」という感情につけ込まれて再び戦争は始まるものだ。
 ほんとうの意味で戦争をなくそうとするなら、「死にたくない」だけでは足りない。「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力になる。
 戦争が始まってしまえば私たちは流されてしまう。
 先の戦争について「一般国民は嫌々戦争に協力させられたのだ」と思っている人も多いけれど、大多数は戦勝を祝う提灯行列に進んで参加した。非国民という言葉は、一般人が自分たちに同調しない一般人に向けて使った言葉だ。
 「空気を読む」と現代の若者が言うが、この言葉は協調ではなく同調を求めるもので、歩調を合わせることが絶対の価値になっている。国民のメンタリティー、体質は70年前とあまり変っていない。
 だから絶対的な歯止めが必要なんだ。それが憲法9条だ。等々。

 卓見だと思う。
 そして思う、戦争がはじまったらもう遅いのだと、その時に異論を唱えることは何百倍も難しいのだと。
 だから、「解釈」などと言っている今こそが大事なのだと。

3 件のコメント:

  1.  『為政者が次なる戦争を始めるときは「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっている』は卓見だと思う。
     この続きは考え続け、書き続けようと思う。

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  2. 高畑監督の反戦の思いはとても強いものだと思います。話は変わりますが、今回「かぐや姫の物語」のアカデミー賞受賞を逃したことについて興味深いことを語っておられます。今回受賞した作品等、「多くの作品が立体なんですね。ほとんどが3DCG化されており、平面の画で物語を表現することが認められなかったことは残念」と語ったという事です。この事は山田洋二監督がデジタル画像ではなくフイルム撮影にこだわり続けていることと相通ずるものがあるように思います。

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  3.  「ほとんどが3DCG化」ということは知りませんでした。CGを上手く使うことなどに私は反対ではありませんが、芸術で勝負する領域を技術で押さえ込むのは賛成できません。
     なお、私が卓見だと思った核心は、「戦争は(私たちにとって)悲惨だ」という主張だけでは戦争を阻止しえない・・・という問題提起にありました。目から鱗です。

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