民俗学者・神崎宣武氏の講義を聴く機会があった。
「日本の歴史の上で、私たち(講師並びに受講生の大勢)ほど変化の時代を生きた者はいない」との発言には、ほゞ同世代の参加者がうなずいていた。
「ひと世代前の人は戦争前後の変化が大きい」というかも知れないが、そうは言っても昭和30年代までは、かまどで火を焚き、洗濯は手でしていた」「江戸時代の初めごろから昭和30年代までの人々の暮らし方は、明治維新といえども大きく変わらなかった」と指摘されていた。(私の感想を言えば、弥生時代から昭和30年代までは共通する匂いがする)
先生は「洗濯板は江戸時代初期から使っていた」と述べられたが、少し調べてみたらこれは明治時代からだった。
そんな誤り?もあったが、高度成長が日本人の生活をガラッと変えたこと、その生き証人が我々の世代で、次の世代は私たちが使っていた道具等を「昔の暮らしの博物館」等でしか知り得ないということも納得するものだった。
さて、講座のテーマは産神(うぶがみ)、産土神(うぶすながみ)のことで、これは神社が生まれる以前からの神であること、通常は山にいて出産の時に産屋(うぶや)に降りてくること、それは田の神が田植のときに降りてくるのと同じ思想であることなどの説明があり、同時に、妊婦を労働から解放し、産飯(うぶめし)で栄養を補給し、夫たる男性からも隔離・保護する知恵であったと(如何にも民俗学的な)講義があった。
ところで、高度成長という大変革で産屋や産飯が消滅したのは判ることだが、産土神はどこに行ってしまったのだろうか。神社の摂社や末社にも痕跡がほとんどない。氏神(うじがみ)という言葉が残っているのに比べて日常生活の場面で産土神は名前の上でも影が薄くなっている。
これは結局、明治政府の神社合祀令の結果であって、廃仏だけでなく、修験道も弾圧され、神様の世界も国家神道以外の素朴な神々は冷遇され、一村(大字相当)一鎮守という合祀令で小字単位にあった産土神が吹き飛ばされたのだと先生は指摘され、無理やり合祀された神社の体裁が、その地の大きな氏族の氏の神だとか、少し前までの武士の守り神であった八幡神になっていったのだと説明があった。
なるほど、そのために、本来意味の違う「氏神」が、現在では土地の神のように使われているのかとガッテンした次第だった。
また別件では、世間では江戸時代の檀家制度が戸籍の役割を果たしていたとの誤解があるが、戸籍の役割を果たしていたのは氏子帳であり、その地の産土神の神主がその任にあたっていたとの説明は私には「へ~」という驚き(知識)だった。
先生が「人生最初の通過儀礼である産湯を皆さんは(子供に)されましたか?」という質問に、私を含め会場の全員がノーだった。
ああ、民俗学自体が歴史遺産になりつつあるようだ。
備えも力もなく、ただ神風に頼って始めた無謀な戦いの結果、何百万人かの他国の人を殺戮し、何百万人かの自国民を犠牲にし、力尽きてようやく終えた戦いであったが、よれよれに憔悴しきった庶民には、今夕の食べ物さえなかった。餓死する者や栄養失調で倒れる者が続出し、不穏な日々が続いた。他国による占領支配という現実もあり、日本という国が残ったことさえ奇跡的と言えるほどの大変動の時期であった。
返信削除もし民俗学というものがあるならば、米を炊いて食うという日本古来の単純な営為を見守ること、そうであってほしい。
鳴き雀さん、やっぱり1945年8月15日の敗戦こそが大時代区分でしょうか。
返信削除だとしたら、戦争を知っている世代がフェードアウトしていっている現代こそ、・・・・戦後レジュームの脱却などという言葉が現実味を帯びてきた現代こそ、第二の大時代区分かもしれません。
それは民俗学というようなものではないかもしれませんが、少なくとも戦後民主主義を知っている世代が語って語って語り継がなければならないように思います。
そうでなければ、少子高齢化社会でただの目障りな年寄りでしかないといわれかねません。
2011年6月12日の「プチあやつこ考」の記事に書いたが、お宮参り(初宮)のときに赤ちゃんの額に字や×印を描くのを「あやつこ」と言います。青森の方からは「やちこ」と言っていたとのコメントもありました。大阪では口紅で男の子は「大」、女の子は「小」と描くのが普通です。
返信削除「あやつこを描いてお宮参りをして産土神に誕生を報告し、そうして初めて共同体の一員として生まれたことが認知される」というのが白川静先生の解説です。
今回の講義は産湯までで終わったが、レジメのその先に「あやつこ」がなかったのは残念でした。