2015年2月12日木曜日

神武天皇陵

平成26年の橿原神宮紀元祭
  11日は建国記念の日であった。
  石部正志先生の講演資料から引用するが、日本書紀天武元年(672)に、壬申の乱の最中、大海人皇子側が神武陵に戦勝を祈願したとの記述があり、7世紀には神武陵とされる地があった。だが、それが何処かは解らない。
 その地を日本書紀は「畝傍山東北陵」と書き、古事記は「畝火山之北方白樫尾上」とそれぞれの神武記に書いている。
 古事記の記述のとおり尾根の上だとすると「丸山」があり、その北方の平地には「ミサンザイ(神武田)」と「塚山」がある。
 近世の修陵事業は元禄期、享保期、文化期、嘉永期にあったが、元禄期・享保期には塚山が、文化期・嘉永期には丸山が比定されていた。
 そして幕末の文久3年、当時有力だった丸山説と、ミサンザイ(神武田)説が朝廷に提出され、孝明天皇の勅裁でミサンザイが神武陵であると決定された。
 その理由は、尊攘派が朝議の実権を握り、急進派公家が蠢動し、孝明天皇が攘夷祈願の大和行幸、攘夷断行、長州藩が外国船砲撃、天誅組の乱などという幕末のあわただしい状況下で、丸山に隣接する被差別部落の洞(ほうら)部落を移転させる時間的余裕がなかったからだと解されている。
  後に「自主的」に移転させられたこの問題は「橋のない川」で「路部落の移転問題」として登場している。
 その後明治~大正の政府は大規模な改造工事を行い、当初小さな土饅頭二つであったものが八角形の墳形に改造され、6554坪の民有地を買収して拡張し、明治23年には橿原神宮が建てられ、紀元2600年(昭和15年)にはさらに大々的に整備事業が行われて今日に至っている。
 これが『建国の地』の事実である。
 古代史を愛する立場からしても、あまりに近代の政治が介入していて好きになれないが、そんなことを先輩のFさんに語ったところ、「近代の犯した無謀な歴史遺産として大事にしたらよい」と返事があり、Fさんの懐の深さに感心した次第。
 建国記念の日にこんなことを記録しておきたくなった。

 11日の朝刊には「ODA転換、軍支援解禁、国益明記、周辺事態法存続へ」等の見出しが躍っている。
 近代の鏡で現代を見つめ直すことの意義は大きい。

1 件のコメント:

  1.  今日になって妻が、この記事についてもっと詳しく説明せよと・・・
     で、地図やなんかを引っ張り出してきて、「少なくとも7世紀に神武天皇陵と考えられていたのは丸山に相違ない(ほんとうに神武天皇陵であるかどうかは別にして7世紀の天皇周辺ではそう考えられていた)」ことと、近代の差別問題と考えられる」ことを説明したら、「非常に興味深い問題であることが解った」と理解してくれた。記紀の神武天皇の記述はそのままでは全く信憑性がありませんが、この話の焦点は近世、近代史です。

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