2月3日の「星月夜と桃太郎」の記事を書いて、その余韻が頭の中にあったころ、本屋を散歩していると『歌謡曲から「昭和」を読む』という新書の背表紙が目に飛び込んできたので、思わず買ってしまった。
著者はなかにし礼、NHK出版新書平成23年12月第1刷というもので、日本歌謡曲史といってもよいものだし、単にそれを時系列で披露しているのではなく、時代と照らして解説している素晴らしい内容だった。
ただ、ここでは、「星月夜と桃太郎」で自分が感じたことを受けて、敗戦(昭和20年)の暮れ、「東京新聞」紙上で行われた作曲家山田耕筰氏と音楽評論家山根銀二氏の論争について、なかにし礼のこの本から引用したい。氏はこう書いている。
さて、山根銀二は、山田は戦争中の「楽壇の軍国主義化」について責めを負うべき「戦争犯罪人」であると批判した。これに対して、山田はこう答えている。なるほど私は、「戦力増強士気昂揚の面にふれて微力」ながら働いた。祖国の不敗を希(ねが)う国民として当然の行動をとったのだ。戦時中国家の要望に従ってなした「愛国的行動」が戦争犯罪になるのなら、「日本国民は挙げて戦争犯罪者として拘禁」されなければならない、と。
私(なかにし)は、「愛国的」つまり「日本のため」と言うこと自体、芸術家として根本的な誤りであると思う。問題を軍歌にしぼれば、作詞家であれ作曲家であれ、作家というものはどんな場面にあっても、最高の作品をつくろうと力を尽くすものである。それ自体はもちろん悪いことではない。しかし、その結果、作家の卓抜な技によって煽り立てられて戦地に赴き、戦死したり苦難を強いられたりした若者が大勢いたことに、作家たちは罪の意識を感じなかったのだろうか。感じていたら、次々に書くことなどできないはずだから、山田がそうであるように、ほとんど感じていなかったにちがいない。そこに彼らの罪がある。
平成21年(2009)、イスラエルのエルサレム賞を受賞した作家の村上春樹は、授賞式で、「高くて硬い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」と自らの文学的信念を語り、列席していたイスラエル大統領の面前で、イスラエルによるガザ侵攻を非難した。私は一人の作家として、この言葉に共感する。・・・・・・・・と、
なかにし礼の見解は厳しい。
だがそれは、「人生の並木路」を「国を信じて満州に渡った者が身もだえしながら共感したのだ」と評論して、挙句は、「満州から引き上げる軍用列車で機銃掃射を受け、死体は列車から投げ捨てられ、行けども行けども、線路際には捨てられた死体がごろごろと転がっていた」実体験から発せられた言葉だと思う。
余談になるかも知れないが、氏は「引揚船の中で聴いたリンゴの唄は私にとって残酷な歌だった。」「まだこうして真っ黒な海の上にいるのに。着の身着のまま、食うや食わず、命からがら逃げつづけた同胞が、まだ母国の土を踏んでいないのに。なぜ平気で、こんな明るい歌が歌えるんだろう。どうして、もう少し、私たちの帰りを待っていてくれないのだろう・・・。そんな、仲間はずれにされたような、おいてけぼりをくったような、悲しい思いがこみあげてきて、私は泣いた」とも綴っている。
フクシマ原発事故の際、多くの日本人には「貴方は原発建設の際どうしていたのですか」と問われ、多くの人々は「まさかこんなことが起こるとは知らなかった」と答えたが、上記の文章は、「知らなかった」「想像が及ばなかった」なら、そこに罪はなかったのかと問うているようだ。
いま安倍内閣は確実に戦争への道を歩んでいる。それは間違いない。
そのことが、いつでも、どこでも、日本人がテロに巻き込まれる可能性を高めている。
嫌な想定だが、そんな危険が現実化したとき、やっぱり一人ひとりの日本人に「戦争へ向かっていた一つ一つのステップのその時にあなたは何をしていたのですか」と問われることだろう。
その時やっぱり「こんなことになるとは知らなかった」と答えるなら、私たちは歴史から全く何も学ばなかったことになる。
反目も、疑いも封じられた庶民は、ただ権力に従い、渦中に悶えるしかしかなかった。あとから矜持と責任を問うのは難しい。
返信削除ワイツゼッカー氏の演説を読み返してみました。
以下、抄文。
「……………………………………
ドイツ人だからというだけで、罪を負うわけではない。しかし先人は重い遺産を残した。罪があってもなくても、老いも若きも、われわれすべてが過去を引き受けなければならないということだ。
……………………………………
われわれ年長者は、過去を心に刻んで忘れないことがなぜ決定的に重要なのか、若者が理解できるよう手助けしなければならない。冷静かつ公平に歴史の真実に向き合えるよう、若者に力を貸したいと思う。
……………………………………
若い人たちにお願いしたい。他人への敵意や憎悪に駆り立てられてはならない。対立ではなく、互いに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。自由を重んじよう。平和のために力を尽くそう。正義を自らの支えとしよう。」
鳴き雀さん、よく言っていただきました。「なかにし礼の見解は厳しい」と書いたとおり、公務員はもちろん、企業戦士も、実際の局面局面で異議申請をして不服従を貫くのは困難です。あんな時代になれば、私も部分部分では「協力者」になることでしょう。だから、そうならないうちに、異議申請が可能なうちに声をあげようというのが歴史の教訓だと思います。しかし、なかにし礼的な厳しい見解に接することも大切な気がします。
返信削除ワイツゼッカー氏の演説も心に響きます。
やられたらやり返す!倍返し!などの勇ましい言葉は、人間の本質を否定するものだと私は思っています。人間は本来相手を思いやる愛の心を持っています。何処が悪い、どこが間違っている、と否定的な面を指摘するだけの扇動で日本の誇るべき「平和憲法」を骨抜きされるのは、我慢なりません。是非「平和憲法」にノーベル平和賞を!!
返信削除バラやん、優しいコメントありがとうございます。
返信削除近頃はテレビ的とでも言えばいいでしょうか、短い言葉が飛び交っています。インターネットの世界はテレビ以上です。短い言葉は感情的で非理性的に流れます。私も気を付けなければなりません。