2012年8月11日土曜日

大浜海水浴場があった

  私は小学校時代、「中世の堺の繁栄を壊したのは秀吉と大和川だ。」と教わった?
  秀吉は堺の商人たちを大坂に引き抜き、付替えられた新大和川が堺の港を埋めてしまったのだと。
  この話は精確な意味で授業ではなく、話の脱線部分だったが妙に覚えている。
  だから、私の古い友人がその後小学校の先生になり、その、大和川付替え工事の積極面を掘り起こす「大和川かるた」づくりの教育実践や関連する民衆史等々を取り上げる取組みが度々新聞等で報じられるたび、学問的には肯定的ではあるが、理屈ではない複雑な感覚が私には湧くのだった。 
  ともあれ、新大和川の運び込んだ大量の土砂が遠浅の海水浴場を作り、後の埋立工事を準備したのは事実。


  つまり、堺泉北臨海コンビナートの埋立が始まるまで、私の地元・堺の大浜海水浴場は浜寺に劣らない素晴らしいリゾート地だった。
  現代堺人には信じ難い方もおられるだろうが左の図を見てハハーっと頭を垂れてもらいたい。
  妻は「ウチの小学校にはプールがあった。」と自慢したが、私が「私の小学校にはプールは要らなかった。」 と返答したらハハーっと言った。

  もちろん、私は夏休みには毎日のように家から海パン姿で海に行き、ラジオから「♪ぼっぼっ 僕らは少年探偵団~」の歌が流れる夕方には「もち貝」を持って帰り、網の上で焼いて醤油をたらして食べるのが日課のようなものだった。

  ブログなどで、この「もち貝」(鏡貝?)を「美味しくない」と書いてあるのがあるが、余所は知らず、大浜の「もち貝」はほんとうに美味しかった。
  ブログで「不味い」と書いておられる方は焼いて食べなかったのではないだろうか? 食材に適した料理法を採用せずして何をかいわんや!というのが私の感想。
  よく鳥羽などで「大アサリ」の貝焼きが美味しそうな匂いを振り撒いているが、あれを見るたびに私は、「大アサリなんか比ではない」「大浜の「もち貝」の美味しさは桁違いやったなあ」といつも思っていた。

  しかし、一般に「海水浴はお盆まで」が基本で、・・・ 「海坊主や亡者に足を捕られる」ではないが、実際にお盆以後は土用波が発生し、確かに危険性を増していた。
  それよりも、私の地域あたりではお盆の最後に市(いち)小学校近くのお寺(一光寺?)にお盆のお供えや飾りを持って行って、経木(卒塔婆)等といっしょに川に流してもらう行事があったから、お盆の後は海水浴場にもいろんな漂流物が漂着するのだった。(他の川からも流されていて・・)
  だから、「お寺から流して貰うとあの世に到着する」というのは物理的な意味では現実ではないと小さい頃から思っていた。
  こうして、お盆以降は海はいっぺんに汚れ、昆虫採集をしようとすると「お盆に殺生はあかん」と祖母に言われ、夢のような夏休み前半を折り返し、そろそろ宿題の残量が気になるのが私の記憶の底のお盆の印象である。
  もう海水浴に行く勇気もないが、かんかん照りの空を見ると大浜の潮の香がよみがえる。
  掲載の図は、友人たちが編集して評判の『歴史たんけん堺』から転載。
  今は他府県に暮らす昔堺人や堺が好きなお方には、是非ともこの本(歴史たんけん堺)を購入されることを心からお勧めする。

3 件のコメント:

  1. !「理屈ではない複雑な感覚」が「大和川が堺をダメにした」説にあるのだとしたら、それは古い学説ですよ!と友人からメールあり。
     大和川付け替えまでの港は河口に造られたり砂浜に石敷きをして荷車の道を造った程度のもの。しかし、元禄の頃から桟橋を造って新築に近い港の再建が図られたというのが事実だと。
     中世の堺が有名すぎるが、江戸時代の堺もすごかった。そして、近代も。
     参考になる資料も送っていただいた。
     ハハー!

    返信削除
  2. 小学校にはプールがなく夏になると学校行事で大浜海水浴場へ市電で通っていたこと、海から上ってもらった生姜の効いた「あめ湯」の味、大掃除の日は「大浜へ行っといで」と母に言われ9歳下の妹を連れて祖父と行ったこともブログを見て思い出しました。

    返信削除
  3. !市電といえば、私たち小学生は大阪市電を使って桜川経由で大阪市内方面に行ったものです。
     そして市電ではありませんが、大浜公園には阪堺電車の宿院から分岐した支線が伸びていました。
     何しろ私が小学生の頃の堺水族館は「東洋一」がキャッチフレーズでしたから、USJどころでないパラダイスだったのです。

    返信削除