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しかし、それでも残る疑問が二つある。
その1、そもそも旧名が何故「ダテボリ」でなく「イタチボリ」?ということ。
天下の台所を預かる大坂人が誤読したとも思えない。
それよりも、「わてはダテボリのなになにだす」「ダテボリってどこですねん」「イタチボリってかくあそこです」から、・・・「わてはイタチボリって書くダ テボリのなになにだす」を経て、それなら最初から「イタチボリだす」というような大坂人の合理主義ないしはシャレでそうしてしまったと考えるのが納得しやすいかも・・・・・?
・・・・・などと想像しながら調べてみると、伊達家の読みは、もともとイタチ→イダテ→ダテと訛ってきたものらしい。政宗のローマ法王あて親書にもidateとある。だから、大坂人が原則に戻ってイタチと読んだ・・・・・と、そこまではチョット想像しにくいが、普通に江戸初期の伊達の読みはイダテであって、東北弁のテとチの微妙な近似性からすると、耳で聞いた分にはイタテやイタチだったのだろう。
なんと言うことはない、当時は普通にイタテボリというかイタチボリと言っていたのであって、この件は何の疑問もないようだ。
その2、その後、町名が「立売堀(タチウリボリ)」と変更されたにも拘らず〔読み〕を「イタチボリ」のまま通したのは何故?ということ。
お上が変えた地名などに捉われず旧地名を語り続けた町人文化か?
タチウリボリもイタチボリもタチとかボリとかよく似た音だからそのままにしたナマクラ精神か?
シャレ言葉が好きだった大坂では、漢字をそのまま読まずに隠語のように読むのを好んだ?・・そして隠語は往々にして時を経て表の言葉になったのか?
それとも、〔イタチボリ〕を自分たちで枕詞?に昇華させたのか??? 「立売堀をイタチボリと読んで悪かったら飛鳥、春日、長谷、日下はどうすんねん」・・・と。
この件は、結局はよく解らない。・・・ただ歴史ある地名をブルドーザーのように踏み潰した昭和の地名変更の暴挙をくぐり抜けて、平成の御世に「立売堀」が堂々と「イタチボリ」である奇跡を喜びたい。
これ以上は、このあたりの事柄に詳しい「ひげ親父さん」のコメントを待とう。
なお、以上のとおり大阪人の「イタチボリ」の〔読み〕を肯定的に書いては見たが、京都のお人は「大阪のお方は中立売通りをナカイタチドオリてお言いやすよってかなんわあ」と言うのであるし、京都か奈良で古代史の講義を受けていた際に先生が、「大阪市や堺市にある遠里小野の地名に大きく〔オリオノ〕と書かれているのであきれ果てた」「あの地は〔とほさとをの〕という万葉からの由緒ある地名なのに・・」と深く深く嘆かれたのを思い出したことも付け加えておきたい。
庭に現れた 二匹のいたち の話かなあ?と開いたらびっくり、違ったイタチの解説でした、行ったこともある場所なので、感慨深かったです、おもしろい
返信削除!みっちゃん 立売堀は阿波座の近くでしたね。
返信削除立売堀というと「どてらい男」がすぐに浮かびますが、あの当時の大阪モノのテレビドラマの大阪人というとチョット一面的でエゲツナすぎました。
そのワンパターンが今日まで大阪のイメージを広げているように感じます。
しかも、大阪人自身がそれに捉われて、下品で利己的で単細胞を誇るかのような風潮のあるのは悲しい限りです。