2012年3月26日月曜日

母の「如来さんの思い出」

   「現存している日本文化といえるものの直接のルーツは室町文化にある」という説、「中でも踊念仏が重要な位置を占めている」という指摘に、私は大いに説得力を感じている。
ネットから
 と、前説(まえせつ)を振ったのはよいけれど・・・、

 そこで、・・と言うほどのことでもなく、かつ現存している宗派の宗教行事を民俗文化として語るのにもためらいがなくもないが、さらには、踊念仏と直接的な関係があるようでもない話ではあるのだが・・・、
 義母が外泊の折に幼い時分の『如来さん』の思い出を語りだした時、それは私の全く知らなかった世界であるにも拘らず、何処かに、不思議に訳もなく懐かしさを感じたのだった。
 『如来さん』それは、河内と大和を中心に信徒の多い融通念仏宗(本山は大阪・平野の大念仏寺)の行事である。
 とつとつと語った義母の思い出は・・・・・、
 秋になると本山から『如来』さんが廻ってきやはるねん。
 カンカンカンカンと鉦を叩きながら黒塗りの箱に入った掛軸が廻ってきやはるねん。
 部屋に仏さんの掛軸をかけて念仏をあげてくれはって、あっという間に次の家に行かはるねん。
 そのとき、箱に仕舞った掛軸を背中に当てて「身体堅固」のお祓いをしてくれはるねん。
 子供らの着物にもしてくれて、学校から帰ったらその着物を着るねん。
・・・というものだったが、
 ネットを見ると、今は出張檀家廻りのようではあるが、そもそもは、良忍上人が鳥羽上皇から鉦を下賜され、諸国回遊を許された遊行にルーツらしきものがあったものらしい。
 清盛、西行の時代である。


ネットから

 その時代と繋がる行事が連綿と繰返され、田の畦道をせわしなく鉦を叩きながら急ぐ坊さん一行のシーンを思い浮かべると、「ああ、これはもう新日本風土記の世界だなあ」という印象が浮かんでくる。

 そして、そういうシーンの一コマに幼い時分の義母がいるのを想像すると、そこに繋がる私もまた、「ああ私も日本人だなあ」となんとなく納得するのである。

歌詞の上でクリックすると大きくなります

 融通念仏宗の良忍上人は日本仏教界の「声明(しょうみょう)」、つまり後に続く日本の音楽を確立した元祖と言われている。
  私の知る範囲では現代のこの行事に音楽的要素はあまり感じられないが、声明から祭文、江州音頭、浪曲、歌謡曲への流れを思うと、義母の話にふと沸いてくる「懐かしさ」の謎が解けるような気もする。

 だが子や孫には歴史教科書の知識としては伝承はできるが、この心象は伝承できないに違いない。
 朝崎郁恵さんの唄うテーマソング「あはがり」を聴いて子や孫は何を感じるのだろうか。
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&sqi=2&ved=0CDUQtwIwAA&url=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DRPW3VAtTl6s&ei=psBuT-6ENan-mAWjhNGoBg&usg=AFQjCNEskJdAPJtnr9gsI5t2e4NEc-A11Q

2 件のコメント:

  1. 長谷やん様
     久しぶりにコメントさせていただきます。
     義母さんの語る「如来さん」の思い出。それなりに納得できる信仰の有様が伝わってきました。現代人が求める理屈による信仰の根拠と異なり、やはり信仰とは「体験の世界」だということがわかるような気がしました。
     浄土真宗にも毎年冬場に親鸞聖人の遺徳をしのぶ「報恩講」という行事があります。ご門徒の家々を僧侶が順番に回り一緒に正信偈を唱えます。

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  2. !御地では、おっさん、おじゅっさん、いんじゅさん・・どのように呼ばれているのでしょう。で、和道おっさん コメントありがとうございます。
     信仰の話など語ったこともなかったし、無知ゆえに何か非常に恥ずかしい気持ちもあるのですが、私は小さい頃から非常に近代主義というか合理主義というか、そういう感性で育ってきました。
     だから、ということでもないのですが、宗教者の中では抜群に親鸞の論理性が好きです。奇跡やご利益や罰の話は好きではありません。
     そして、現在でも神仏に感謝・畏怖こそすれ、ご利益を求めないようにと自分に言い聞かせています。頭の中ではそうしてきました。
     しかし、この頃は、家族や知人の安寧をお頼みしても許されるのではないか、社会の平穏を頼んでも罰は当たらないのでは・・・と、ほんとうにこの歳になって考えるようになりました。我ながらおかしい心境の変化です。
     さらに、最終的に皆とお別れをする時の安心の為に、壮大な幻想、空論を信じるのも悪くないなと思うようになりました。
     さはさりながら、実証できない極楽を、親鸞が法然を信じるが故に信じられると語った境地には、煩悩具足の凡夫はなかなか到達できません。

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