2012年12月30日日曜日

鳥納め

  庭のバードテーブル(餌台)にやってくる中で圧倒的に多いのは当り前のことであるが雀である。
  「なんや雀か」と言わないでほしい。
  現在急速に人間界周辺から姿を消していると言われている。
  (我が家周辺ではそういう実感はないが、新聞や本ではよく言われている。)
  それに、頬に黒い墨をつけたその顔は、じっくり見ると結構愛嬌がある。
  近頃の子供達で雀を絵に描いて見せられる子が幾人いるだろう。
  それほどに近い存在ではもはやなくなっている。

  それを窓の内側から見るともなく見ていると、どことなく神経質そうな、落着きのないときがある。
  どこがどうと具体的には言えないが、どこか様子がおかしいときがある。
  そんなとき、ヒューっと真横から何かが刺す様に飛んで来て、バタバタバタバタと、一瞬我が庭が修羅場と化す。百舌鳥の狩猟である。(雀はやはり殺気を感じていたのだろうが、・・・・)
  私の作ったバードテーブルのせいで犠牲が出るのは心が穏やかでない。
  後悔のような気分も湧いてくる。
  しかし、百舌鳥にとってはこれが死活問題の「なりわい」でもある。
  これもまた厳粛な自然の掟・・と、静観している。
  ただ、心のザワザワは続いている・・・・・
  自然は優しく厳しい。
 
  今年も我が家から半径数キロ以内の身近な鳥たちを数々紹介してきたが、・・・・・と言うことで、ちょっとだけ悪役になった百舌鳥の写真で『撮り(鳥)納め』にしたい。
  百舌鳥は鳥の中では際立って頭(の比率)が大きい。
  人間で言えば乳幼児の体型である。つまり可愛い。だが実は獰猛な猛禽類。
  つまり、ものごとは「見た目」で判断してはならない。
  それを2012年の自戒(教訓)として来年に臨みたい。

  みなさま どうか よいお年をお迎えください。

2012年12月28日金曜日

古墳を造る

右の方に伸びる前方部は18㎜広角レンズにも収まらなかった
  奈良県の北端近く、平城宮跡北側の佐紀盾列(たてなみ)古墳群の中に『コナベ古墳』(陵墓参考地)がある。
  過日、この古墳の1/2の古墳を運動場に地割する作業が奈良市立一条高校を会場に行なわれた。
  同趣旨の実験は1981年に堺市立西百舌鳥小学校で経験済らしいが、巨大古墳発祥の地ここ大和では初めてのことらしい。
  このプロジェクトのリーダーの宮川徏先生の説では、いわゆる前方後円墳には明確な設計思想があり、後円に対してどういう比率の前方部が造られるかで大王墓であるか否か、あるいは王統の系列が解るとのこと。
  特に墳丘長をひとからげに大きさの基準にして論じている多数の学説に対して「それは違う」と主張されている。(こういう論争を外野から眺めているのはとても楽しい。)
  私は、宮川説の全てについて理解し納得しているものではないが、何はともあれ貴重な実験であるので参加した。
  棒と糸と勾股玄(こうこげん、3・4・5のピタゴラスの定理)だけで書いたのだが、コナベ古墳の1/2でも運動場いっぱいに広がった。
  これが、一人の人間の墓である。(正確には多くの古墳は複数者が葬られているが。)
  その巨大さを改めて実感する。
  神仙世界への成仏を求めたのか、「よみがえるな」と祟られることを怖れたのか、盛大な首長権の移行儀式の会場だったのか、王権の力の誇示か、主従関係のシンボルか、・・・・それらがどの様に変化していったのか。 謎解きに終わりはなさそうだ。
  なお、少なくない前方後円墳は横から眺められることを前提に築造されているらしい。それは、小さい頃私自身が眺めながら育った伝仁徳天皇陵を見ても納得できる。あれは大浜側から見上げさせて、西日本の首長や大陸からの使者達に「まいったか!」と恐れおののかせていたに違いない。
  実際の継体天皇陵といわれる今城塚古墳も、横の堤上に素晴らしい形象埴輪によるジオラマが荘厳に飾られている。
  だとすると、「前方後円墳」という名称も、もちろん宮内庁が前方部に造った鳥居も大いに不適切だと言わなければならない。
  世の常識とは、とかくこのようなものである。
  権威や常識から自由になる。・・・・・・・・これ、実際には結構難しい。

閑話休題
  古の「しきたり」に思いを馳せたついでに・・・・我が家では質素なお正月しか準備していないが、それでも、若干の「しきたり」めいたこともする。
  そんな私を、妻と子供たちは、「外を向いて言うてること(一切の旧弊に捉われるな等)と内で言うてることが違うなあ」と笑い飛ばしている。
 ・・・・・で、祝箸 にはそれぞれの名を書いたが、私は悪筆なのでシール印刷させてもらった。「ナニ、印刷など言語道断だ」と指弾しないで貰いたい。このあたりが私(わたくし)的思考である。
  取り箸は「海山」とか「組重」と書く家庭もあるようだが我が家は「山海珍味」と書く。読者の皆さんはどう書かれます? 楽しい大晦日からお正月の貴家の「しきたり」などあればコメン トお願いします。

2012年12月26日水曜日

冬の雲雀

  この鳥は、冬の草原に10羽を超える集団で行動していたので、てっきりセキレイ科のタヒバリだと信じて撮影して帰ってきた。
  しかし、写真を良く見るとヒバリ科ヒバリ・・・・・つまり、普通のヒバリのようである。
  考えてみると・・・そういえば、セキレイ科独特の動作がなかったし、頭の形がタヒバリではなさそうだ。(中にはタヒバリみたいな頭もあるのだが・・・)
  で、タヒバリかヒバリかで1週間ほど悩んだ。 
  このように悩むのも、「ヒバリは春」「集団ではなく、それぞれの縄張りを囀って主張する」「地上に降りたヒバリは隠れてしまう」というような思い込みがあったからだろう。
  だから、例の高らかな囀りも、そのためのホバリングもなかった冬のヒバリが別モノに思えたのだと思う。
  「非繁殖期には小さな群で生活する」というようなフィールドガイドの解説なんか知らなかった。ヒバリが群れるって・・・?知らなかった。
  既成概念というか、思い込みで眼(マナコ)は曇りに曇るものである。
  しかし、そういう逡巡の後やっぱりヒバリだと思うと、この寒風の向こうには春が待っているという感覚が湧き上がってくる。
  これもノーテンキな思い込みだろうが。
  いや、それは真実である。

2012年12月24日月曜日

俺がこんなに強いのも

  私は毎日、㈱アルプスのコンコード赤ワイン辛口という酸化防止剤無添加の安物の「癖のない」赤ワイン、あるいはそれと同等品を嗜んでいる。
  それを知って息子のお嫁さんが、先日、クラッカーとチーズを提げてやって来てくれた。ありがたいことである。
  そのクラッカーがなんと、前田製菓のクラッカーだったから珍しいので驚いた。
  CMのキャッチコピー「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」は、私達の世代の関西人なら知らぬ者はいない。
  さらにその大きな工場は我が故郷堺市にあり、その工場周辺はいつも美味しそうな香りが広範囲に充満していたから、そんな記憶も交えて懐かしいクラッカーだった。

  そしてチーズは、私の好きなカマンベールチーズと一瞬思ったが、よく読むと『ブリーチーズ』(Le Brie)とあった。それって何?
  調べてみると、フランスはブリー地方の白かびチーズの本家のようなもので、カマンベールチーズはその分家筋に当たるという、そんな能書きは不要の、とろけるような「癖のない」美味しいチーズで、ちょっとこれは虜になりそうな危険な代物だった。

  照明を落としたテーブルで、このチーズにコニャックを振掛けて火を点し、青白い炎で温まったところをワインの肴にしたいが、老夫婦だけでは今更そういう気にもなれず、次に息子夫婦とチーズが好きな孫がやって来たときには・・と思うが、それまでにはきっとなくなっていることだろう。
  今夜はクリスマスイブ、ちょっとおどけて点してみるか。

2012年12月22日土曜日

それをエアとは畏れ多い

ネットから
  先日、かつて実母の介護に通い慣れた老人施設でお餅つき大会があった。
  「久しぶり」と言ってくれる入居者もいるし「あんた誰」という人もいる。多数の方は表情が少ないが仕方がない。
  部屋から会場まで順番に皆さんの車椅子を押し、手を洗っていただき、そして、お餅を配ったり善哉を配ったり話しかけたりと行事を盛り上げるだけだったのだが、結構疲れた。

  12月8日のブログでこの日のために「老人施設の『エア餅つきと写真撮影用の杵』を作った」ことを報告したが・・・・・・・。
  ラワン材の柄と発泡スチロールの頭という安直なものである。
  費やした努力は20㍉のドリルの刃を探したことと柄の先に少しカンナをかけたことぐらいだ。
  こんなものでも、一瞬でも手にとって笑ってくれれば好いがと願っていたが、もしかして・・・と思って頭の部分をラップで包んで全体に除菌スプレーをふり掛けて持参した。

  そして、スタッフとボランティアが搗くのを取り囲んで皆に丸めてもらったのだが、・・・この超軽量級杵は大好評で、多くの方々が頭の上まで持ち上げて嬉しそうに写真に収まった。
  そのうちに、手を伸ばして臼を搗きたそうな動作の方が現れ、それならと何人かに出てもらうと、ほんとうにお餅の上を搗き出した。音は文字どおりペッタンペッタン。見た目は全く本格的だった。
  かつてないことで、入居者がほんとうにお餅を搗いたのだ。会場は大興奮。
  この杵は、今年1年の私の工作の中で一番安易な作品だったが、一番人に喜んでもらえた作品だった。
  こうなったら、「老人施設や保育園用の杵の製作賜ります」・・と看板を上げようかと、ちょっとだけ天狗になっている。

2012年12月21日金曜日

一陽来復にササゲご飯

  冬至である。
  雨の中、関電本店前で原発ゼロをアピールして帰ってきてから柚子湯に入った。
  南瓜を食べた。
  そして、赤い色で邪気を祓うという小豆粥をグレードアップした?ササゲご飯を食べた。
  ササゲは自家製無農薬野菜である。えへん。
  昔、武士は小豆は腹が割れるから小豆の赤ご飯や赤飯は食べなかったらしい。と、本に書いてあった。(切腹の連想を嫌ったのだと)
  だから、小豆の代わりにササゲを使用したという。
  といういきさつは我が家のササゲとは何の関係もない。
  作りやすく、青い莢の段階でも食べられるし、このように豆としても利用できるから毎年植えている。

  数日前から相当な腰痛に悩まされている。
  腰をかばってあまり動かないものだから、喉を含め内臓系全般も不調を覚える。
  頃は冬至。古人が太陽の衰えを怖れ、いろんな行事食等を編み出して太陽の復活と健康を願った気持ちが実感としてよく解る。
  しかし、テレビは益々のクリスマス寒波を報じている。 ああ。

  風邪に関する私の持論は、「伊達の薄着」と「うたた寝」が風邪の素。
  皆さん くれぐれもご自愛ください。

2012年12月20日木曜日

交名の儀はちょっと期待外れ

左下に私をとっているテレビカメラが無気味である
  お酉様や終い天神、納め荒神のような師走の行事もいろいろあるが、大和の師走の最大の行事は『春日若宮おん祭』である。
  清少納言に言わせれば「祭といえば賀茂の祭(葵祭)」であるが、さらにその原型とも言われている。
  そして八百七十有余年途絶えることなく古式を伝えているという点では最古の祭とも言える。
  今年は、その『お渡り式』の中の『南大門交名(きょうみょう)の儀』を見物した。
  祭礼の主催権をもつ興福寺の南大門跡において興福寺の衆徒に参列側が交名(出席者名簿?)を読み上げるのであるが・・・・・、
  居並ぶ興福寺の衆徒(山法師)がアルバイトのようであり、読み上げに予想したような威厳がなく、ちょっと期待外れであった。
  観客など知ったことでない馬が大小を撒き散らしたりした可笑しさの方が記憶に残った。
  到着を待っているとき、東京から来たというおじさんがいたので、『私は今年は山法師を撮ろうと思ってここにいるが、東京からわざわざ来たのなら一の鳥居の影向の松のところの「松の下式」に行く方が絶対に好いですよ。』とアドバイスしたのだが、これは的確な案内だった。もし、来年初めて行かれる方は、このブログを思い出して欲しい。
  尤も、夜遅くまで徹底して中世の芸能に浸りたいなら御旅所式となる。
  おん祭は、奈良ではあるが平安絵巻である。
  子供達はそんな些か間延びのした「時代劇」よりも屋台のアテモノに夢中だった。あたりまえか・・・・・・

2012年12月18日火曜日

世の中を明るくしたい

道路から撮りました
  未来が暗く感じられる選挙結果だが、それ以前から我が街は年とともに暗くなっていた。
  一時は12月ともなると各家庭のイルミネーションが美しく、それを見物しながらの夜の散歩も楽しかったのだが。
  ところが、だんだんその数が減り、ごく普通の街になりつつある。
  単に子供が大きくなったからというのでなくイルミネーションが減っていっているので、リストラや賃下げの結果でなければよいのだが・・と妻と話し合っている。
  しかし、残念ながら、そういう想像しか思い浮かばない。
  家庭のイルミネーションは、家庭の可処分所得・・・生活の余裕と直結していないだろうか。もちろん、収入を考えずに遊び心を優先する我が家のような例外もあるが。
  そして去年には3.11フクシマ大人災事故が発生し、一段とイルミネーションが減少した。
  しかし、このまま街が暗くなってよいものか。
  今年は、日頃この種の買い物を「無駄遣いだ」と非難する妻が、珍しく「孫のために1種類増やそう」と同意した。
  その増えたイルミネーションが平面的なサンタクロースで、通常は窓の内側から外に向けて吊るしておき、孫がやって来たときは内向きにした。
  当然、孫は非常に喜んで、・・・・「よかったよかった」と爺婆もまた非常に喜んだ。
  だんだん設置と取り外しが邪魔臭くなってきて、手持ちの全てを飾ったわけではないが、まあ4種類ほどあちこちに設置した。
  お向かいも子供は大きいが「飾る派」なので、我が家の一角だけは時代に抗して「未来を」照らしている。
  暗い世の中だけに、これを「節電意識がない」などと怒らないでもらいたい。
  年金が減らされたり、政策的なインフレが実施されると、我が家だって来年は躊躇するかもしれなくなる。
  世の中を明るくする話がどうしても暗くなる。ああ!

2012年12月16日日曜日

国破山河在

  今年は、この国に現存する最古の書物といわれる古事記が編纂され、太安麻呂が元明女帝に献上してから1300年になる。
  この栄誉ある最古の書物は、奈良県(庁)の古事記出版大賞を受賞した別冊太陽『古事記』登載の大塚ひかり氏の記事に言わせれば「セックスとうんこだらけ」の物語(千田稔氏に言わせると「戯曲」)であるが、そういう物語が皇国史観の教科書となって戦時体制が築かれていったのであるから、戦後生まれの者には信じられないが教育の統制というのはそら恐ろしいものである。

  さて同じ年、つまり1300年前の712年は詩聖杜甫が生まれた年であり、今年は杜甫生誕1300年でもあるのである。
  それを新聞で知って私は、彼の文字の国、書物の国とその辺境の島国とのあまりに大きなタイムラグに愕然とするのである。
  そして・・・・・、辺境の国はその文化度において文字の国に追いついたのだろうかと考えた。

  荒っぽい言い方だが、文字のない時代の歴史は考古学が、文字以降の歴史は文献史学が主として担っているが、その歴史時代(文字時代)の初期の文字(木簡)の宝庫が平城宮跡で、今も地下の水脈により「地下の正倉院」といわれるように『保管?』されている。その価値は計り知れない。

  ところが、そもそもの発信元は奈良県知事だと推定されるが形式的には国土交通省が、イベントがしやすいように?と言うことだろうか、秘密裏にここを広範囲に舗装し始めている。
  浸水性がある舗装というのだが、すでに舗装された大極殿前には草1本生えていない。
  砂利がひかれているが私が靴で払ってみるとその下はしっかり舗装されていた。
  京奈和道トンネル工事案もしかりだが平城宮跡の木簡は文字どおり危機に瀕している。
  水が涸れると木簡は朽ちてしまう。
  木簡が眠っているからこその世界遺産なのに・・。
  私は、現代中国の政治体制や民主主義の度合いについては大いに批判的意見を持っているが、それを偉そうに見下しているこの国の為政者たちのかかる文化の軽視には、白頭を掻いて涙が止まらない。
  (杜甫に釣られて結びの文章が大袈裟になって自分自身で笑っている。ほんとうは涙は出ていない。)

2012年12月14日金曜日

はるかなるミャオ族

  先日、町内会の餅つき大会が無事終了した。
  20臼近くの餅つき大会だから、結構盛大なもので、「餅つき大会顧問」としてはホッとしている。
  昨年までは、「貴方搗く人、私食べる人」的な感じがあったので、今年は、実際の作業に参加してもらおうとひっきりなしに大きな声でお誘いし、ちょっとはそのようになったように感じている。
  総じて高齢の男達は暖をとるのを兼ねて「カマド奉行」にたくさん集まり、また昔を懐かしんで餅つきそのものの参加率もよかった。
  奈良公園などを歩いていると婆さんの逞しさだけが否に目立つが、餅つきは貴重な爺さんの活性化策だったんだ。
  また、若いご夫婦などにも私が強引にお誘いし参加してもらって盛り上がったが、しかし、中には綺麗な服を着てお餅を貰うだけの母子も少なくなかった。ああ~!
  でも、昨年よりも子供達が無邪気に参加してきたので、少し冷めすぎ状態まで思いっきり搗かせてあげたり、餅つき途中の白蒸し状態や半殺し状態のものも「ナイショ」と言っていっぱい食べさせた。こういうイレギュラーなことこそ子供達には楽しいものだ。だから、搗きあがった臼にこびりついたお餅も「おいしいぞう」と言って食べさせたら素直に喜んでくれた。うん、これならこの民族の将来も悲観することはない。
ミャオ族の餅つき(ネットから)

  穀物を・・粉にして、丸めて、蒸したり茹でたりする料理法は世界中にある。
  しかし、穀物を・・蒸して、搗いて、丸めるお餅はあまりない。
  我が国の文化の大きな源流である中国の中原や朝鮮半島にも(古くは)ない。
  その故郷らしきところは、中国南方から東南アジアにかけてのミャオ族らしいように私は思う。
  鮨、納豆、魚醤のルートと重なる。
  その伝達の主人公は、漁師か、交易商人か、ボートピープルか、勉強もせずにただ空想するだけで楽しい。
  テレビで見たミャオ族の棚田は文句なく私達に郷愁を感じさせないか。

  その昔、原水禁世界大会に参加したとき、モンゴル、朝鮮、中国、ヴェトナム、スリランカ等々の参加者の顔を見たら、確実にそれぞれその民族らしい特徴があった。
  なのに、同時に思ったことは、そのそれぞれと同じ顔が日本人の中にあるということ、つまり、間違いなく我々はアジアの偉大な混血児だという感想を抱いたことを思い出す。その祖先としてミャオ族もしかりである。(シベリアや中央アジアにも同じ顔の人々が多い。)
  偏狭な人種・民族主義を主張しようとは思わないが(帰化した方やハーフ等の方々を無視しているわけでは決してないが)、そう、間違いなく我々はアジア人なのである。
  これは当たり前のことではあるが、選挙演説を聴いていると、この人は自分をアメリカ人だと信じきっているような党首等が少なくない。
  それはパートナーこそドイツ・イタリアではないが、7~80年前にこの国が誤った大きな勘違い(脱亜入欧)の再現のように思えてならない。
  そのアメリカは今、経済大国であるとともに大貧困大国である。そして大軍事大国であることは言うまでもない。
  そんな中で、日本共産党が「日米安保条約でなく日米友好条約を!」と言っているのはこの国の理性だと私は思っている。

2012年12月12日水曜日

鯨が出てきた

  「奈良の大仏と土佐の鯨はどちらが大きいか? 金(曲)より鯨が2寸長い。」は、曲尺(かねじゃく)・鯨尺が身近になくなった今では、私など一般庶民にはけっこう高度なクイズになる。
  尺貫法の使用が禁止され、メートル法に限るとされたのは昭和34年で、世間ではその前から大々的にキャンペーンが張られていた。
  戦後民主主義の申し子で小学校高学年であった私などは、そのキャンペーンを素直に受け入れ、「尺貫法などに拘っていたのでは社会の近代化ができない。」と信じていた。
  ものごとには歴史があり、建築や呉服にはその社会があって上手く回っていることなど知る由もない子供だった。
  この法律では、尺貫法の物差(ものさし)を作ることはもちろん使用することさえ違法となり、職人の世界ではそれはそれは大事件であった。
  これに怒った永六輔氏がラジオ番組で闘争宣言を発し、尺貫法の物差を販売したり、それを警察に自首するデモを組織し、ついには事実上の「復権」を勝ち取った話は書物等で有名であるが、それらの貴重な意義を理解したのは大人になってからだった。
  そして今回、実母の持ち物の整理をしていて出てきたのがこの竹の物差。
  表向きは「75cm差(さし)」だが反対側に鯨の2尺が刻まれている鯨差。いや文句なしの鯨差。
  家で和服を縫うこともないだろうからもはや我が家では出番は考えられないが、それほど邪魔になるものでもないだろうから、とりあえずはとって置いて、孫が大きくなったら見せてやろう。
  実母は99歳のときにあった地方選挙にもきっちりと投票に行ったような人だったから、これは、今般の選挙に際し、軽薄なブームなどに流されず、90年の歴史に試された物差でしっかりと選択してほしいという願いと理解することにしよう。
  それはさておき、銅鐸の絵の中に「工」字形の道具を持った人がいる。
  これは大型桛(かせ・糸巻き)で、王の身長に相当する「メートル原器」だ・・というのが宮川徏先生の説。
  この話の続きは長くなるので、いずれ日を改めて書いてみたいが、現状に即して言えば、王様やメディアの物差でなく、庶民の物差で理性的な判断を行なうことが大切だと思う。

2012年12月10日月曜日

炭の薫りと母の思い出

  脱原発のために意固地になって節電をしているのではないが、先日から火鉢を楽しんでいる。
  もう何年間も本格的な使用はなく、私の無駄遣いの典型として妻からののしられ続けてきた火鉢であるが、原発と全く無関係でかつエコであるところが気分が好い。
  地球温暖化=CO2の上でも、元々樹木が吸収したCO2が出ただけと言われている。
  我が家がよくバーベキューをするものだから、「屑炭でよかったら」と近所のお茶の先生からいただいた炭なもので、マングローブ炭なんかと全く違って好い薫りもする。
  外泊の義母も、「炭はええなあ」と喜んでくれた。
  私達の親の世代の常識を私達の世代が知らないことも多い(知っている方も少なくない)が・・・
  炭焼きもそうで、母は「炭なんか買うたことがない」という。そして・・・、
      田圃のネキに穴を掘りますねん。
      山からクヌギの木を切ってきてロの字型に組みますねん。
      それをすりぬか(籾殻)で覆って煙突を立てて土を被せますねん。
      火を点けて、後は煙の色を見て消しますねん。
      燃えすぎたり、まだやったり、炭焼きは難しかった。・・・・と述懐した。
  戦前の生駒谷の農村風景だ。
  炭はお客さんのときにだけ使う特別「高級な」ものだった。

  今、薪等を採らないために里山が荒れているのだと聞く。
  そのために猿や猪が里の田畑を荒らすのだとも。
  軟弱な私は、戦前の生活へ戻ろうなどと言う主張をする気はないが、私達はもう少しこの半世紀ほどの間に忘れてきた「忘れ物」を思い出してもいいのではないだろうか。
  それは生活習慣だけでなく・・・、
  ・・・インフレ策だ、規制緩和だ、果ては改憲だ、核武装だ的な発言がまかり通っている。
  戦後民主主義と一歩一歩積み上げられてきた福祉の思想がほんとうに「忘れ物」になろうとしている。
  偏狭なナショナリズムや右翼的思想は、未来が確信できない青年層のやけっぱち思想に支えられているようだ。
  つまるところ、今こそ労働政策の出番だと私は思っている。
  青年に職があり、真面目に働けば明日は少しずつよくなる社会であるべきだ。
  維新の最低賃金制の見直し公約などは言語道断である。

2012年12月8日土曜日

ダンドリ君のパパ(Ⅲ)杵を作る

  12月はお餅つきの季節である。
  昔、親に聞いた話では、戦前の大阪市内では「ちんつき(賃搗き?)」が普通であったらしいが、私が中学生であった昭和30年代の堺の中心街でも同様で、「もち米と賃料」を払うと家の前で道具一式を持参した数人が、そのあたり数軒分のお餅を搗いてくれるのだった。
  ただ『まだ戦後』という時代であったから、例えば1升5合のもち米が1升分のお餅になったのかも知れない。(このあたりのことは正確には知らない。)
  そして、漁師の息子など体力のある同級生はそのアルバイトに雇われて稼いでいて、なんとなく彼らが大人に見えたものだった。
  という「見ていた側」の都会の子であったから、私はお餅つきの経験を持っていなかった。
  それが祖父母世代が農家出身である妻と結婚をして、毎年妻の実家でお餅つきをするようになり、義父が亡くなってからはその道具一式を私達夫婦が預かった。
  そして、知らない間に『お餅つきを知っている貴重な古老』に分類されるようになっていた。

  地域によっては不祝儀でもお餅を搗くらしいが、ごく普通にはお餅つきは目出度い行事である。
  昨年、実母がお世話になっていた老人施設でお餅つきがあったが、「お餅つきは目出度いなあ」と実母は喜んでいたし、みんな楽しそうであった。また、はるか昔のお餅つきの思い出がよみがえったように手を動かしておられる方もいた。
  そして私が持参した子供用の杵を手に持って喜んでもらったが、正直に言って子供用の杵でも重たすぎたし、中には振り回しそうにされる方もいて大変だった。
  ~そして1年が経過した。
  そして先日、「去年は杵を持って来ていただいて写真が撮れてみんな喜んでいたなあ。」という話になり、話の勢いで「それなら今年はもっと軽いのを作りますわ。」とダンドリ君のパパは答えてしまった。
  で、ホームセンター巡りをしていろんな材料を検討したが、結局、ものすごく簡単な発泡スチロールがあったので結果としてはあっけないくらいイージーな作品(エア餅つきと撮影用の杵)になった。
  でも許してもらえるだろう。
  この杵のせいで、一瞬の大笑いと、かすかな記憶が数日残れば嬉しいのだが。

  介護の現場を見ていると「福祉のための消費税」という主張が如何に嘘っぱちかと言うことがよく判る。
  結局、日本共産党が言うように、財源の問題と言うよりは政治姿勢の問題で、税の応能負担等を徹底すれば消費税に頼らない福祉国家が可能だと思えてくる。
  良い介護とはつまるところスタッフの数と心の余裕だと思う。
  いつの間にこの国は「人件費は悪」と言うような品格を欠く国になったのだろう。

  孫がやってきて、この杵で見事なエア餅つきをしてくれた。
  この子が大きくなるまでに、原発のない暖かい福祉国家をつくりたいものだ。

2012年12月6日木曜日

四十雀寄せという農法があった

  シジュウカラというと季節感もない身近な鳥だが、実は結構美しい。
  始終ヤマガラと一緒に我が家にも水浴びにやってきてくれる。

  昔、農林省(当時)の友人に「庭木の毛虫をどうしたらよいか」と尋ねたところ、「毛虫が増えたら栄養満点で鳥が増えて毛虫が減る」と教えてもらったが、鳥が増えて毛虫が減る前に庭木が坊主になった。
  一般論と個別事案の按排は難しい。

  孫引きで恐縮ながら、川口孫治郎著「続飛騨の鳥」 に岐阜県の東美濃や付知地方の「四十雀寄せ」というのがあった。
    冬の初めにシジュウカラのオスを籠に入れて桑畑に連れて行く。
    たっぷりの餌をもらって小春日和に気分がよくなったオスは歌を歌う。
    すると歌に誘われたシジュウカラが集まってきて大合唱団が編成される。
    そして、桑畑の虫たちを片っ端から食べてしまう
・・という実際に効果のあった感動的な害虫駆除法らしい。

  こういう先人の知恵を忘れてしまった(知らなかった)私たち現代人は、いまフクシマに驚愕して反省するばかりである。
  あえて言うが、自然を畏怖しない政治が目指す社会に未来はない。
  私は本気で脱原発を実現したいので、いま本気で日本共産党に伸びてもらいたいと思っている。
  フクシマの危険性を具体的に追求してきたのは、古くは不破哲三、その後は吉井英勝前議員しかいなかった。引退が惜しまれるがその後輩達に期待しよう。

2012年12月4日火曜日

山椒は小粒でも さるぼ貝

  選挙報道が喧しい。実はあまり喜ばしいことではないのだが、テレビ等マスコミへの露出度が投票行動に大きな影響力を持っていることは事実である。
  そして、そのテレビ等マスコミが極めてアンフェアな態度をとっていることは識者によって種々指摘されている。
  だから逆説的に言えば、意図的にマスコミが排除しようとしている部分にこそ真実があるのではないだろうか。

  さて、「今日の赤貝のにぎりは安かった」と喜んでいたら実はサルボ貝(猿頬貝・さるぼう貝)だったということが多いらしい。
  と言って、サルボ貝がまがい物だということではなく、まあ小型の赤貝だと思っていただければいい。
  つまり、真の実力はあるがその名前は不当に排除されている。・・・ということで、何となく助けてやりたくなる貝なのだ。

  このサルボ貝、堺泉北コンビナートの埋立が始まる以前は、そのあたりの大阪湾の特産物の一つだった。(と言って、ほとんどの方は赤貝だと思っていただろうが・・)
  以前のブログで「堺でも紀州訛りの影響でサブロウ貝と呼んでいた」と書いたところ、同窓生から「家の前の道路上で身を剥いていた家がたくさんあった」とコメントをいただいた。
  ・・という、ただの貝ではあるが、個人的には昔懐かしい堺は大浜の思い出の貝である。

  それが、近鉄百貨店で売られていた。(残念ながら大阪湾産ではない。)
  写真の量で500円余という安さだし、もちろん早速購入した。
  先ずお刺身に取り掛かったが、ちょっと赤貝の代打というには小さすぎた。それでも夫婦二人の食卓を十分に賑わしてくれた。
  後の大多数は、酒と醤油とみりんでサッと蒸し煮にした。豪華なおかずで満足だった。
  缶詰の赤貝は実はサルボ貝だと言われている位だから味には文句がない。

  繰返すが、味は一流なのに不当に低く評価されている。
  サルボ貝よ泣くんじゃない。赤貝と詐称したりまがい物扱いしているのは人間の勝手である。
  そういう人間は今、明日の保証のない公約とやらを振りかざす「まがい物」にまたもや騙されてしまうのだろうか。
  私は北極星(ひとつ星)のようにぶれない政党を信じたいが。

2012年12月1日土曜日

白鶺鴒

  ハクセキレイは身近にいるがチョコマカ チョコマカしていて、いざと言うと写真に撮りにくい。
  それに模様も結構いろいろあり、個体によっては少しばかり薄汚く見えたりするのだが、この写真はハクセキレイらしいハクセキレイで我ながらチョット気に入っている。
  セキレイというと背中が真っ黒でそれとのコントラストで胸と腹がまっ白に輝いて見えるセグロセキレイの方が印象深く、ハクセキレイは相対的に地味な感じがするが、どうしてどうして、よく見ると気品がある。

  東京など関東では1980年代頃から都市中心街で大きな塒(ねぐら)をつくっているというのだが、私はハクセキレイの塒を見たことはない。もし、近畿圏でそんなところがあったら教えていただきたい。
  ムクドリの塒はテレビでも再三採り上げられるほど公害として認知されているが、セキレイの塒がそれほど問題にされていないのはどうしてだろう。ムクドリのような悪声でないからだろうか。それとも、「セキレイがいなければ日本民族は存在し得なかった」という日本書紀の記述のせいだろうか。
  そうだとしたら、この国のメディアの病は重症である。

  そんな私の心配性を笑い飛ばさないでほしい。
  松本サリン事件の報道があったとき、私は一時河野さんが犯人だと信じ込んだ。
  イラク戦争のとき、「アメリカもアメリカだが、実際にはフセインも大量破壊兵器を持っているだろうなあ」と思っていた。
  そして、3.11のときに繰返された「直ちに健康に影響ない」という極めて政治的な虚偽報道は記憶に新しい。(実は16万人もの方々が未だに避難生活を強いられているのだ。)
  そして今、明らかに意図的に日本共産党の動向を報じないで右翼勢力間の野合を新しい第三極のように描こうとするキャンペーンが張られている。
  小さい頃、慶応生れの私の祖母は「狐に騙されたことがある」と真顔で語っていたが、私達は現代、もっと恐ろしい魑魅魍魎に騙されているような気がする。

2012年11月29日木曜日

落葉掃き考

  カレンダーの風景写真などを見ると諸外国でも素晴らしい紅葉(こうよう)がたくさんあるが、さて彼の地にも「紅葉狩り」的な風習はあるのだろうか。
  「諸外国には素晴らしい紅葉があまりないとテレビで言っていた」と妻は言うが、カナダ楓、アメリカ楓、アメリカハンノキ、アメリカハナミズキ、ナンキン櫨等々があるのだから「ないことはない」と思う。
  もし「ない」としたら、『枯れ落ちる直前の美』を愛でる感性やそれを許す穏やかな気候(秋)がないのかもしれない。

「紅葉には鹿」が定番でしょう
  と言って、私が紅葉を愛でるようになったのも歳を重ねてからのことであるから、「日本人イコール紅葉狩りをする」的なワンパターンの理解もまた正確ではないだろう。
  同様に「紅葉イコールもみじ」という発想もちょっと薄っぺらな感じがし、諸々の「雑木もみじ」も棄てがたいのではないかと私は思っている。

  「雑木もみじ」の身近なところは街路樹だが、転居前の家の幹線道路の街路樹はプラタナスで、その名が詩的でパリを思わせる情趣があり、私の世代などは「はしだのりひことシューベルツの」と結びついてしんみりするのだが、一転これが落葉となるとどう贔屓目に見ても大量のゴミにしか見えず、幹線道路沿いの方々は毎年この季節にはタメ息をついておられた。
  そして現在の家の裏の遊歩道は中央にケヤキが植えられているのだが、この大木たちが撒き散らす大量の落葉もなんともナカナカに微妙である。
  私は溜まった落葉をザクザクと音を立てて歩いたりして楽しみたいが、ご近所の方が挨拶の際「かないませんなあ」と嘆くのも判らなくもなく、「ええ」とかなんとか当たり障りのない返事をして落葉掃きを行なっている。
  私は、どちらかというとレレレおじさんのように竹箒で落葉掃きをするのは好きであり、公道の落葉掃きが不満というようなケチなことではなく、もっといっぱい落葉を楽しんでから掃きたいと心の中で思っているのである。
  先日、老人施設の家族会として施設の庭や幹線道路の落葉掃きもしたが、ここでも内心ではもうちょっと落葉を楽しめないかなあと思ったりしたのだが、それはあまりに少数意見なので冗談めかして吐露するに止めてきた。(ただし、ここの落ち葉の量は半端じゃない。)
  このように、住宅地と言われる街で落葉を楽しむという発想はかくも論外とされているようだが、そうだろうか。きっとそうなんだろう。
  近頃の子供が『焚き火』の歌でどんなイメージを抱いているのかは、全く想像も及ばない。
  さて、家の近所の幹線道路の街路樹は銀杏(いちょう)並木で、銀杏の黄葉と落葉の季節はこの道路が周辺よりも格段に明るく輝く。これは大袈裟ではなくほんとうにそうである。
  で、歩道橋の上からそれを見ると、決まりごとのように『公園の手品師』を口ずさみたくなってくる。
  フランク永井が歌った『公園の手品師』は名曲だと私は思う。
  「歌は世につれ」と言われるが、近頃はこんな名曲が出てこないということについては妻も同感だと言っている。
  それは、時代が殺伐としてきたためだろうか、それとも現代の名曲にヒットしなくなったほど私の感受性が衰えたためなのだろうか。

  だが、そんな風に達観を装ってもいられそうもない。
  自民党や維新の公約を新聞で読む限り、憲法や民主主義を巡って歴史が大きく逆流する危険が高まっているように私は感じる。
  感覚を研ぎ澄まして、それらに待ったをかける理性的な世論が広がるよう、日本共産党の前進に期待したい。
  「愛情の反対は無関心だ」とは元宇宙飛行士で今フクシマ難民の秋山さんの言葉である。
  ある種の怒りもまたこの時代の大事な感受性であろう。

2012年11月26日月曜日

秋グミは大人の味

  妻がポケットからグミの実をたくさん取り出した。
  家からすぐ近くの、毎日のように歩いているいつもの道で採ったのだという。
  ということは、私も毎日眺めていたはずで、何を「ちょっと秋を撮りにいってくる」だ・・・と、己が観察眼の曇り具合を大いに大いに反省している。

  これは秋グミで、夏グミや、もちろんビックリグミと比べると相当小さくて丸い。
  植え込みの中に生えているのだが、どう見ても人が植えたというよりは野鳥が運んできて自生したものと思われる。(もしかしたら植栽されたものかもしれない。)
  昔、庭にビックリグミを植えたことがあったが原因不明で枯れてしまった。
  その一方でこのように自生し大きくなって実をつけているのだから、自然界は偉大である。
  去年の秋は楝(おうち・せんだん)の有毒の実を食べて失敗したが、これならそういう心配はない。
  タンニンの渋みが後に残るが、渋みは大人の味である。
  そう、甘いだけの果物は面白くない。こういう酸味や渋味という雑味を好まないお方とは友達になれない気がする。

  さて、「大人の味」とは言ってみたが、やってきた孫の夏ちゃんは秋グミが気に入ったらしく、茎だけ器用にむしり取ってパクパクと口に放り込んだ。なかなか渋い趣味である。
  アッアッと言って私が口の中から取り出そうとする前に・・・、実の中の小さな種は出さずにすべて食べてしまった。
  まあ考えてみるとトマトも種を出したりしないから、「これもありか!」とその後は全部見過ごすことにした。
  秋グミはなかなかに楽しく味わい深い草木である。

  余談ながら、私より少し上の世代が歌声喫茶全盛の世代になる。
  そして、ダークダックスなどによって私達の世代も何となくそれを知っている。
  その中に「ウラルのグミの木」という歌もあったが、原詞はナナカマドだったらしい。
  こんな訳(やく)ってあり? と、いつか新進気鋭のロシア文学翻訳者に尋ねてみたいと思っている。

2012年11月23日金曜日

ダンドリ君のパパ (Ⅱ)

  私は現役時代、業務をマニュアル化するのに努力してきた。
  それは、頻繁に行なわれる人事異動でどんなアクシデントがあっても、最低限の業務の水準を維持し次に継承したいという気持ちからだった。だから、私はマニュアル全般について否定しているものではない。
  だがしかし、一旦マニュアル化されてしまうと、制度の主旨や精神を考えることを止め、改善の意欲が停止してしまうかのようなこともあり悩ましかった。
  そして現役を卒業し、間髪を入れず老朗介護に突入したのだが・・・・・・・、
      (以下の問題意識は過去のブログと重複する)

  先日、音楽療法の勉強会を行なった。
  近頃の講演はほとんどがパワーポイントを使ったプロジェクターとスクリーンで行なうものだから、レジュメもなく、正確な理解が記録できない・・・・と、機械のせいにして己の不真面目さを責任逃れする。あはは
  つまり、私の非常に不正確な理解であるのだが、それは、音楽はもちろん心理学などを修めた音楽療法学科卒的な音楽療法士による、極めて計画的な非薬物的療法であるらしい。
  確かに、その実践は非常に巧みで参加者全員が心地よく会場を後にした。
  しかし私は思うのである。
  歌といっても千差万別、被治療者も千差万別、いろんなアレンジがあるはずのものを「音楽療法」という定義が幅を狭めていることは実際にないのかと。
  現に、これまで幾らかの音楽療法を見てきたが、その歌は圧倒的に唱歌のようなものだった。
  高齢者の想い出の歌はほんとうに唱歌なのか。わらべ歌なのか。
  現在80歳の方が38歳の時は1970年(昭和45年)。「知床旅情」も「女ひとり」も私の訪れていた部屋の皆さんは大好きだった。唱歌よりも恋の歌の方が顔が輝いた。
  かくして、「音楽療法」と“構えたもの”に、私は若干違和感を覚えるのである。

  高齢者介護の中には「回想(療)法」というものがある。
  これも基本的には私は門外漢である。
  だから六車由実氏が「驚きの介護民俗学」で批判的に書かれている部分を孫引きすると・・・、
  1クール8回の場合、1回目「ふるさと」、2回目以降「昔の遊び」「学校」「結婚」「子育て」「仕事」「お正月」「今、やりたいこと」というテーマに沿って、メモをとらずに計画どおりに傾聴していくものらしい。
  だから、私が実母や義母とやってきたものは全くの別物なのだろうが、私は「あんなん教えて、こんなん教えて」とメモをとり、少し面白かった話はブログに書いて、「おばあちゃんの話を全世界の人が見やはるねんで」と見せてきた。
  あるときは、実母がそれを見てワーっと泣き出したのでスタッフの皆さんが驚いて駆け寄ってきたことがあったが、それは感動のうれし泣きだった。
  私流の回想法で介護してきた・・などとおこがましく言うつもりは毛頭ないが、マニュアルの外にも素晴らしい介護があるのではないかと思ったりするのである。

  と、ダンドリ君のパパは偉そうに悩んでいる。

2012年11月21日水曜日

ダンドリ君のパパ (Ⅰ)

  息子は「ダンドリ君」という漫画を揃えて持っている。
  そんな本を持っているぐらいであるから、息子も結構ダンドリ君のようだ。
  娘も同窓会などの準備を見るともなく見ていると、結構いろんな趣向を準備している。
  妻は「二人ともお父さんの背中を見て育ったんや」と言う。
  例えば、同じ行事をするなら、つい、ありきたりのものでなく楽しんで喜んでもらえるものを!と考えてしまうのは大阪商人の血なのかもしれない。
  だから反対に、一参加者としてダンドリの悪い行事やズボラな企画を目の当たりにすると、少しイラついてしまうのがよくない・・これは良くないことだとは重々承知している。

  ところで、巷間では、ダンドリ君とマニュアル人間が混同されている向きもあるが、臨機応変に判断できないダンドリ君は失格であるし、誤差や「遊び」を読み込まないダンドリは失敗する。ダンドリ君はマニュアル人間ではできないものである。

  さて、寒気の天気予報とともに自治会の餅つき大会の準備が始まったが、私はその「大会顧問?」に招聘されている。
 そこでのやりとりは・・・・・、
    〇「もち米2升は2.8kgとあるが、去年の実績と計算が合わないが?」
    私「多すぎたら臼からはみ出るし少なすぎたら搗きにくい。ただそれだけだ。2升でよいのだ。」
    〇「蒸し時間用のタイマーは購入すべきか?」
    私「美味しい匂いがしてきたらチョット摘まんで食べたら解る。日本人なら必ず解る。」
    〇「薪コンロに着火材が必要では?」
    私「頭と斧を使えばすぐに点く。」
    〇「大根おろしのためにフードプロセッサーが要る?」
    私「おろし器を持ち寄って子供たちに卸させよう。」
    〇「綺麗な舗装で傾斜した土地に薪コンロをどう据える?」
    私「レンガの数でレベルをとり鉄板を置いてマサ土を乗せて微調整をする。そんなことはどんな本にも書いていない。私が考えただけ。」
    〇「危険だから子供達をどう離れさせようか?」
    私「危険と隣り合わせの大人の行事の中で子供達は成長するのだ。(そして大人も)」
・・・・・・と、言ったところで、これが私のダンドリの程度である。
  誤解しないでほしいが、他の役員がマニュアル人間だなんて言っているのではない。
  それだけ「餅つき」が一般市民には遠い存在になっただけのこと。
  でも、この国の未来を少し心配している。

2012年11月19日月曜日

猿石は嗤っている

明日香村
  私の散歩先である「石のカラト古墳(奈良市と木津川市の府県境にある)」と、明日香のキトラ古墳、マルコ山古墳、高松塚古墳の横口式石槨が極めて似ていることから、その各古墳の出土品や史料と照らし合わせて高松塚古墳の被葬者を特定しようとする研究がある。
  その内容を書き始めると一冊の本になるので書かないが、私などはA先生の講義を聴くとナルホドと思い、B先生の説を読むとナルホドと思ってしまう。
  著名な学者の見解だけでも、天武天皇、蚊屋皇子、百済王善光、高市皇子、弓削皇子、忍壁皇子、紀麻呂、葛野王、石上麻呂・・・と言ったところである。
  そんな折、明日香村、保存財団、関西大学、朝日新聞社の主催による「高松塚古墳壁画発見40周年記念講演会」が明日香村で開催されたので、40年の研究の成果が聞けるぞと、非常な興味を持って参加した。
  内容は朝日新聞25日朝刊に掲載されるはずであるが、今回の私の関心事であった被葬者の部分だけを言うと、猪熊兼勝大先生が記念講演で「忍壁(刑部)皇子」と発言されたため、二部のパネラーの田辺征夫、米田文孝、森岡秀人各先生が、先の4古墳の石槨の変化や土器や史料を挙げて異説もあるというようなないようなムニャムニャムニャという言い方だったので大いに失望した。がっかり・・・・。
  これでは学問というよりも、古くは親分子分、新しくは物言わぬヒラメ社員ではなかろうか。
  40年というと、当時20歳で網干善教先生の手伝いをしていた森岡秀人大学生がその後就職をしてすでに定年退職したという長さである。
  問題は見解の適否ではなく、大先生であろうが誰であろうが「私はこう考える」と言わない現役先生方の姿勢である。
  だけど・・・胸に手を当てて考えてみると、何事によらず堂々と理性的な議論を行なうことを避ける内向き傾向は、私を含め現代日本の世間一般に蔓延しているように見える。
  そして、そんなうちに東西の品のない「(元)首長」等の弱肉強食の声高な主張だけがマスコミによって拡散していっている。これでいいのだろうか。
  あの明日香の猿石は、そんな現代人を嗤っているのではないだろうか。

2012年11月17日土曜日

まっちゃまちの買い物

  まっちゃまち(松屋町)は大阪の人形と玩具の問屋街で、「ぶらり散歩」が楽しい街である。
  どちらかと言うと、夜店(屋台)の景品用の安物の玩具をウィンドウショッピングするのが懐かしくて楽しい。
  紙風船と吹き戻しセットなら10円か20円。
  そんな中に野菜を包丁で二つに切ることのできる「ままごとセット」のようなものがあったので買ってみた。税込み200円。
  帰ってから孫にもできるだろうかと思ってテストをしてみると、野菜の切れ目がマジックテープのようになっていて、それが結構強力なものだから「これはチョット失敗した」と後悔した。
  しかし、やって来た夏ちゃんは天才で、教えもしないうちから野菜を包丁で力いっぱい切り始めた。包丁は横に倒れていたが、少なくとも「爺ばか」にはそう見えた。
  どうしてこれが包丁で、そして切るものだと判ったのだろう。
  「まなぶ」とは「真似ぶ」からきた・・・というのが語源学的に正しいかどうかは知らないが、教育学的にはよく使われる例え話である。
  大人の真似をするというのが楽しくて、それが知恵の始まりであるというのは納得できる。
  夏ちゃんは食事の時に何回も「・ぱ~い」と言って乾杯を繰り返し、お茶を飲んでは「ぷはぁ~」と言って「爺ばか」の真似をしてくれる。「真似んでいる」のだ。
  そう・・・チョット洒落た言葉を選んだ乾杯の音頭って結構難しいものなのだ・・・。
  だから、そういう夏ちゃんの乾杯を見ながら、「この子はきっと好い社会人になって洒落た乾杯の音頭をとるに違いない」と夢見てニンマリしている。

2012年11月14日水曜日

木雲雀

  ビンズイは『タヒバリそっくりさん』のため、木の枝に留まることもある習性からタヒバリに対して木雲雀(キヒバリ)とも言われている。
  識別は目の後ろの白い斑と、Olive backed Pipit(背中がオリーブ色のセキレイ)という英名のとおりのオリーブ色だから写真はビンズイに100%間違いない。
  和名の由来は「ビンビンズイズイと鳴くから」と本にあった。「ほんまでっか」と言いたいがそれ以上に説得力のある説にお目にかかっていない。
  ビンズイは夏は高地にいて冬には平地に降りてくる。
  こういう鳥の場合季語はどうなるのかと思ったら、歳時記では『夏』に載っていた。
  私の感覚では『冬』なのだが、粋な俳人は避暑地の夏にビンズイを一句読んだのだろうか。
  「それはチョット庶民感覚とズレてまっせ」と感じたが、土地によってそれぞれだから、全くの誤解かもしれない。
  まあ、私(わたし)的には「秋の使者到来」と思っている。
  こんな秋も見つけました。

2012年11月10日土曜日

こんな秋も見つけました

  ならまちでビハーラ僧の講演とシンポジュウムがあったついでに秋を探しに奈良公園を散策した。
  すると、春日奥山への入口でシロハラが集団で食事をしているのに出くわした。
  今冬初の出会いだと思ってシャッターを押したが、帰ってからよく見ると胸が赤いので驚いた。きっとアカハラだと思う。(背中の感じや大きさからマミチャジナイではなさそうだ。もし間違っていたら指摘してください。)
  私としてはシロハラよりも出会う機会の少ないアカハラだったので「得をした」気分になった。
  そのすぐ先でクサギの花(??正確には実)が満開で、モミジの紅葉と競っていた。(花は夏に白い花らしい花が堂々と咲くのだが、この実の美しさはどうだろう!)
  この木、「臭木」などと言われるものだから 不当に低い評価をされているように思われるが、星型のガクの先っちょに貴石にも似た藍色の実がとても美しい。
ちなみにクサギの花(ネットから)
  もっともっと晩秋の風情として讃えられてもいいのにと、彼女の薄幸に同情する。

  ムクロジの老大木の前の、・・・土産物屋というほどのこともない小さな小さな店の夫婦が人懐かしげに出てこられたので、「ここに昔はアオバズクがいましたね」と話しかけると、その昔は白いフクロウなどいろんなミミズクが来たと言う。
  「それはそれは可愛い声やった」と目を細められた。
  私の経験からも、アオバズク、アカショウビン、サンコウチョウ、オオルリ等々は近年奈良公園でほとんど見なくなった。これは奈良公園の方ではなく渡り先の東南アジア等の乱開発のせいだろうが、そこにはきっと日本人と日系企業が介在しているのだろうなあと想像すると胸が痛む。
  「ムササビもいるのでしょ」と聞くと、「毎晩眠ろうかなという時間になると天井裏を走り回りますねん」とのこと。
  聞いている私は大いに微笑ましく笑ったが、当事者はどうだろう?(まあ、それほど深刻そうでもなかったのでホッとした。)
  家の前の道路上のムクロジの老大木も近々伐採され道が広げられるらしい。
  まったく幹線でもないこんな道を広げる必要もないのにと思ったが、「そろそろ何時倒れてくるかも判らない」という夫婦の心配も判らなくはない。
  しかし、「若草山にケーブルカーまがいの施設を造りたい」という、まったく古都に似つかわしくない非文化的な知事のことだから、そこへのアプローチの道路拡幅なのかも知れない。そんなことを考えると背筋が寒くなるがそれは立冬のせいかもしれない。

2012年11月6日火曜日

蛙は止揚する

  ゲーム時代の若者は、現実問題にチョット躓くと、青春や人生(というほどの年月でもないが)をリセットしたいと願望するらしい。(その辛さが解らないわけでもない。)
  しかし、それが「その後に身に着けたノウハウでもう少し上手い生き方をしたい」ということだとしたら少し寂しい。
  若者達には、リセットではなく「無駄」な失敗を重ねて「螺旋状の発展」をしてほしい。
  ということを「縄文の世界像」の展示を見ながら考えた。

  さて、縄文土器には蛙の絵がしばしば登場する。
  それは何故かという解釈には百家争鳴の感がある。ほんとうに百家争鳴だ。
  私は、・・・卵からオタマジャクシになって蛙になって土の上に上がってくる。・・・縄文人は、そこに、ある種のアウフヘーベンを感得したのだと思っている。
  これは、博物館の縄文土器のエネルギッシュな文様に圧倒されながら見学する中で、学術的・論理的ではなく、感覚的に感じとった我が珍説である。
  古代人も、変身願望があったんや。己がレベルアップを目指していたんや・・と。
  とすると、アスナロがスギになるよりも、オタマジャクシがカエルになるのは目前の驚異的出来事で、そこに、及びもつかない、信じられない力を感じ畏怖したのだと思う。
  それをカミだとかアニミズムだとか精霊だとかに分類したがるのは後世の人間で、古代人は素直にそんな蛙にアヤカリタイと念じたような気がする。
  それぐらいの感動がなければ、あんなエネルギッシュな(カエルの)文様は誕生するはずがない。
  縄文の展示には、弥生にない“わくわく感”があり、岡本太郎が乗り移ってきたような昂揚を感じる。
  こういう感情は、本やテレビからは湧いてこない。

2012年11月3日土曜日

グレイトグランマ コレクション

  再生可能エネルギーが脚光を浴びているが、『再生可能衣服』の王様なら毛糸だろう。
  その上に、今冬などは節電、省エネということで、『ワコール男性用毛糸パンツ「ふわふわ」』が注目されているらしい。
  テレビの初期のCMに「カンカン鐘紡 カンカン鐘紡 赤ちゃんの時から鐘紡毛糸」というのがあって耳に残っているが、半世紀を経た今も、このように堂々と毛糸が闊歩しているのには脱帽する。

  義母は一時期などはほとんど寝たきりだったが、老人保健施設に入所してから確実に改善されている。
  それは、施設のリハビリもあるが、少し心に余裕のできた妻や私などが、昔の縄ない等の農作業のことを聞いたり、あやとりを教えてもらったりという、いわば「試行錯誤の家族介護」もプラスに働いた結果だと思っている。
  そして今回、「曾孫にマフラーを編んでくれたら嬉しいけど・・」と言ってみたところ、「そうか」と言って動き始めた手は自動運転のように進んでいった。
  「雀百まで」というか、こういう能力は全体的な要介護度とはまったく別の箇所で不滅らしい。
  で、これまで妻と私が編んで貰った作品の一部を上の方にアップした次第。

   ブログの下書きを見せて、 「お祖母ちゃんの作品を世界中の人が見るねんで」と言ったら、「そら、えらいこっちゃな」と嬉しそうにまた少し元気になった。そして、すぐに「疲れた」と言って寝転んでしまった。写真は一瞬の元気を捉えたもの。

2012年10月30日火曜日

明日咲くつぼみに

  テレビを見ていて驚いた。
  あの舟木一夫が「明日咲くつぼみに」を歌っていた。
  あの永遠の高校三年生が「明日咲くつぼみに」を歌っていたのだ。
  実母が元気だった頃、老人クラブで習ってきたのだろうか、三波春夫の「明日咲くつぼみに」のカセットをかけて練習をしていた。
  三波春夫にしてはわりあい単純な節回しなので、老人クラブ推薦曲なのだろうかと思っていた。(「唱歌」ではないけれど目標を老人クラブに特化した唱歌的な歌??)
  しかし、聞くともなく聞いていると、~明日咲くつぼみよ~今日散る花びらよ~いつか別れの言葉 さようなら・・・で、ええっと驚いた。
  若い恋人が死んじゃったというような歌謡曲とは違った、絶対的真理に迫るインパクトのある歌詞だった。~明日咲くつぼみに~今日の命を こんな歌詞の歌を老人クラブで歌うのは辛すぎないか。(いくら永さんがお坊さんだとしても・・・)

  その後、作詞者の永六輔著「上を向いて歌おう」等々を読むと・・・・・・、
  三波春夫は癌と余命を知っていてこの歌を吹き込んだのだが永は知らなかった。永がそれを知っていたらこんな歌詞は使えなかったと語っていた。
  録音の際、三波春夫はいつもの張りのある声で歌ったが、永が「そうではなくぼそぼそと歌ってくれ」と言ったら、奥さん(三波さんの三味線方) から「三波には三波の歌い方があります」と怒られたこと。しかし、奥さんは三波に「永さんの言うことが解らないの」と叱りつけたこと。
  さらには、あの三波さんが、永さん達の「戦争体験を子供たちに伝えよう」という活動に積極的に参加してくれたこと。
  二人が老人ホームのボランティアに行ったところ、勝手に歌い始めたおばあちゃんと一緒にわらべ歌や数え歌を歌って、結局自分の歌を一曲も歌わなかったこと。などなどなど・・・・・・・。

  そんな、この歌の誕生秘話や三波春夫の知らなかった人柄を知るうちに、何となく思い入れのこもった曲として記憶の底に収まっていた曲だった。
  それを、あの舟木一夫がテレビで歌っていたのである。
  ~時は還らず世は移りゆく
  ・・・孫が生まれ、実母を見送った今、こんな歌詞に共鳴したならば、底なしの老化の沼に引きずり込まれてしまいそうな怖さがあるが、ええい、大きなマナコで老いの現実を直視して、カラオケの『持ち歌』にしてしまうのも悪くはないかと思うことにした。

2012年10月26日金曜日

まんなをし

  先週の話で恐縮ながら、17日18日はほぼ1日中雨が続いた。
  直前の天気予報では17日の夜に降って翌朝には止んでいるはずだった。
  「夜だけやったんちゃうん」と妻は洗濯物を出したり入れたりしながら、雨の原因が天気予報にあると言わんばかりにテレビに向って怒っていた。
  満開の金木犀からの芳香も消されてしまっていた。

  娘婿は友人たちから気象協会公認レベルの雨男と言われているらしい。
  1年前の結婚式も、披露宴前のガーデンパーティーでシャンパンを開けた途端に台風から押し出されてきた大粒の雨が降ってきて、後で聞くと風船を飛ばす予定だったらしいが当然中止になった。

  こういうとき関西では「まんがわるい」と言う。
  「まん」は「間の転」(広辞苑)らしいが、「間が悪い」ではなく「運が悪い」「まわりあわせが・・」「ついてない」という感じで、伊丹十三監督作品の映画「あげまん」の題名は俗語と重ねて面白がりながらつけたのだろうが、元々はこの「間(まん)」である。

  世の中には原発であろうが経済であろうが外交であろうが全て思い通りに制御できると豪語する方々もおられるが、人生にしても、ささいな日常生活にしても、そして空模様にしても、ママにならないこと、「まんがわるいとき」は多々あるもので、それは今も昔も変らない。
  それを「色即是空」「諸行無常」とは達観できないのが衆生の凡夫である。
  で、先人はどうしたかというと・・・・・、

  東大寺二月堂北東の隅(例のお水取りの時に「おタイマツ」が登ってくる階段(回廊)の突き当たり)に、結構大きな自然石の道標に「まんなおし地蔵尊 是より(合字)一丁」と書いてあるが、あんまり読んでいる人は見かけない。(上の写真)
  そこから北へ山の中を歩いて行くと、行き止まりに近いあたりに右の写真のお地蔵さんが現れる。石柱にも判りやすく「まんなをし地蔵尊」とある。
  顔(右の方の黒い石)は、欠けたのか風化したのか判らないが・・どういうまんのわるいことがあったか知らないが、・・原型はなく、稚拙な線刻になっている。
  要するに古くから「まんのわるいことが続いたから、まんを直して」と庶民が切にお願いをしにきたお地蔵様なのだろう。
  (なお、大仏殿裏から二月堂に向う「写生小道?」にも道標がある。)
  一般に東大寺というと国家のお寺で学問のお寺と言われているが、こんな俗っぽい信仰も併せ呑んできて1300年の歴史があるに違いない。
  私は一般に「ご利益がある」とか「罰があたる」という宗教はあまり好きでないが、こういうアッケラカンとした先人の願いが形に残っているのは微笑ましい。
  鰯の頭も信心から。近頃まんがわるいとお嘆きの諸兄はこのブログの写真に向って手を合わせておくと「まんがなおる」こと疑いなし。

2012年10月24日水曜日

山雀金魚で煮ても焼いても食えぬ

  国松俊英氏の著書で「山雀(ヤマガラ)金魚で煮ても焼いても食えぬ」という『ことわざ』のあるのを知った。
  その意は「手に負えん奴」と言ったところだろう。
  しかし、このことわざが通用するためには「いろんな野鳥がいるが山雀だけは(金魚同様)不味くて食べられたものでない」という共通認識が広く世間になければならない。残念ながら寡聞にして私は知らなかったし、現代社会では実食をして確かめることも既に叶わない。


  窓際のエゴノキの実が目当てらしく、先日来山雀の家庭訪問が賑やかだ。
  貯食行動と言って、エゴの実を、今は食べなくても木の裂け目等に隠すらしく、そのためか何んとも忙しく窓の外を右に左に飛び回る。
  多くの場合は四十雀(シジュウカラ)と一緒に行動し、ツツピー ツツピー ジュクジュクジュクと賑やかな中に、ジージージーというか、ニャーニャーニャーというか、子猫のような独特の甘え声を出すのもまた楽しい。
  おまけに木の実を割って食べる時などはコツコツコツと相当大きな音を立てるので、コゲラどころか、近所で日曜大工をされているのではと勘違いしてしまうほどだ。
  鳥の種類によって人に対する警戒心に大きな差があるのは何故だろう。鳩を除くとウチにやってくる野鳥の中では山雀が一番人懐っこい感じがして、今風に言えば癒される鳥である。
  写真は野鳥用の水呑み場に来たところ。ここで水を呑んで、ひとっ風呂浴びて飛び立ってゆく。

  以前のブログに書いたことだが、私が小さい頃は夜店などで見事な「山雀のおみくじ」芸があった。(以前のブログに書いた)
  平安時代か鎌倉時代から伝えられ、時代とともに内容が向上されてきたものらしいが1980年代に野鳥の捕獲禁止が浸透する中で、この芸も絶滅したらしい。
  そのことを妻と子供たちに説明して「こういう文化は自然保護と二律背反だ・両立し得ないと断定せずに残すべきだ」と熱く語ったところ、「お父さんが復活させて夜店を出したらええやん!・・」と冷たく言い放たれた。
  山雀金魚で煮ても焼いても食えぬ家族である。

2012年10月21日日曜日

笠の蕎麦畑

  あくまでも「日本書紀に書いてある」というだけのものだが、最初、天照大神は宮中に祀られていたが、第10代崇神天皇の時に『笠縫邑(かさぬいのむら)』に移され、第11代垂仁天皇の時に菟田(うだ)や近江や美濃を経て伊勢に落ち着いた。
  この記述の意味するところは何か? 如何なる歴史的事実の反映か? というのも興味は尽きないが、今日の話はその『笠縫邑』に行って一面の蕎麦畑を見てきたというだけのこと。
  そこ(桜井市笠)は、相当な山深い里ではあるが、初期ヤマト王権(人によると邪馬台国)の所在地、この列島の最初の首都と考えられている纏向遺跡や箸墓古墳の裏山といえなくもなく、文献だけの時には「何故そんな笠縫などという大田舎に???」と思っていたが、実際に来て見ると「ああ、とりあえず裏山に祀ったのか」と何となく書紀の話もチョットうなずける。
  国営総合農地開発事業で標高500㍍あたりの農地一面が蕎麦畑に変り、JA?女性部が中心のそば処(笠そば)が賑わっていた。美味しく満足した。
  余所の事業は知らないが、もしかしたら、この種の事業では珍しく貴重で見事な成功例ではないだろうか。(あちこちで成功しているのならごめんなさい)
  そば処の前が日本第一・笠山三宝荒神の参道入口になっており、以前に参った以降「竃の事故」のないことのお礼を言っておいた。

  蛇足ながら、私は日本三大荒神??の笠山荒神、清荒神、立里(たてり)荒神に参拝した。
  その中の立里荒神は、百を越えた実母が「もういっぺん登ってみたい」と何度も何度も言っていた山で、高野山の東の奥、奈良県野迫川村荒神岳にある。
  自動車道路が開通していなかった頃、そこは霊気に満ち溢れていたのだろうが、今では笠山荒神同様、普通のお社になっていた。
  という話を実母にするのは酷だから、実母の語るお籠もりの朝の雲海、御来光、鳥の声等々の思い出に「うんうん」とうなずいておいた。
  来夏あたり、そんな報告を立里のお山にしに行かなくてはならない。

2012年10月19日金曜日

衿を切って街に出よう

  シニアのお洒落は難しい。
  私などは旅行に行くわけでもなし、半径数キロの中で、いつもの知った顔の人と顔を合わせるだけ(顔を合わせない日も多い)の毎日であるから、ついナマクラな格好に流れている。
  そして、長いサラリーマン生活のほとんどが地味な背広とネクタイ姿であったものだから、ラフな格好がどうも板につかない。
  そのようにして今に至っている。
  そこで悩むのである。
  (1) 「今日はフォーマルだ」という特別の時を除いては、いまさら背広にネクタイは着たくない。特にネクタイは面白くない。
  (2) ループタイは上等の凝ったものにすればするほど、何故か年寄り臭く感じてしまう。ラフさと固さが中途半端なのだろうか。若々しいループタイがあればよいのだが。
  (3) 「ラフでお洒落なスタイル」・・あたりを狙いたいが、どうも板につかず座り心地が悪い。そこを突き抜けた作務衣と雪駄で大阪市内を闊歩する友人が羨ましい。
  (4) 特にシニアがラフに過ぎると、一歩間違えば貧相になる。日除けハット・サファリハットも「お洒落」と「ルンペン帽」と紙一重で私の場合は後者になる。キャップにブルゾンだとスポーティーというよりも「予想屋」の出来損ないに・・・・。
  そういう中で度々選択しているのが「立衿のシャツ」であり、わりあい気に入って愛用している。
  ところが、わが街が基本的に田舎のせいだろうか、この立衿のシャツがお店にあまり置かれていない。
  街着のためにシャツを誂えるのも躊躇する・・・・・し。
  かくして秋を迎えた。
  とすると、話は簡単である。
  サラリーマン時代のワイシャツの衿を切ればいいのではないか。
  切った痕をどのようにしまつするかは後にして、と、・・・・・とりあえずリフォームに取り掛かった。
  カッターナイフと小さな鋏でジョキジョキするのは2分もかからなかった。そして、切り痕のしまつは・・・・まったく必要なかった。
  要するに、ワイシャツの衿をジョキジョキと切れば2分で立派な立衿になったのだ。
  発想の転換と言うか、案ずるより産むが易しというか、
  シニアの皆さん。ラフなおしゃれは難しい。そう、衿を切って街に出よう。
  しかし、この話・・・お洒落な話というよりもチョット貧乏くさい話かも。

2012年10月17日水曜日

鄙の おかげ踊り

  「夕べ(15日)NHK京都で“岩船寺で踊りがある”って言うてたよ」と言うので、念仏踊りの一種かなと思いながら、そう遠くない当尾(とおのお)の里に車を向けた。(16日)
  正しくは、岩船寺の入口横の白山神社での“おかげ踊り”で、京都府登録無形民俗文化財。
  そして、京都市内の観光寺院と違って、NHK京都放送局のアナウンスにも拘わらず見物客は20人程度。何んとも鄙(ひな)びた伝統行事だった。
  “おかげ”とはもちろん、お伊勢さんのおかげ参り。
  だが少子高齢化のせいだけでもないだろう、刺激に溢れた現代社会ではお伊勢さんに向って「ええじゃないか ええじゃないか」と踊り狂うようなパッションは既になく、鄙の山里にふさわしいほどほどの・・・わりあい静かな“おかげ踊り”だった。それでいいのだ。
  ただ、当事者は意識していないのだが、だからこそ、年老いた神主(役?)二人が御幣を単調に上げ下げするのが返って滑稽で、その昔の余韻のようにも感じられた。
  そして、音頭の文句のところどころに伊勢音頭の文句が聞き取れ、わずかにそのあたりに、かすかな“おかげ参り”の残照を見た。

  “おかげ参り”と言えば、私が小学生の頃、私の祖母は「朝に戸を開けたら空からお札が降ってきたのや」と話していた。
  私は「あっそう」と言う程度に聞き流してきたが、今にして思えば、もっと聞いておきたかった。人生というものは常にこういうものなのだろう。
  私が子供たちに思い出を語ったりすると、子供たちは「あっそう」と受け流す。

2012年10月15日月曜日

どこか懐かしい郵便受

  妻が私に「我が家の郵便受が小さくて不満だ」「もっと大きいのを作れ」というので製作した。
  確かに、自治会の役員として広報関係の冊子を配ったり回覧板を回したりしたときに、何軒かの余所のお家の郵便受が小さくて困ったことがあった。
  アメリカ型のメールボックスは、彼の地では新聞は投函せずに別途投げ入れるというのが前提なのだからだろうか、これもあまり使い勝手が良くなかった。
  それに比べると我が家の郵便受はどちらかというと大きいほうであるが、新聞を複数とっているし、折り込み広告いっぱいの新聞が重なったり大判の書籍などの大型郵便が重なった時には不満を感じていた。
  そんなときに雨でも降ると、はみ出していた部分から雨が入り込んで嫌だった。
  なら、いっそう少々の大型郵便も新聞も意に介さないような大きな郵便受を作ってやれと挑戦した次第。
  もちろん妻の注文は「超格安で!」である。
  雨対策だけは台風にも耐えられるよう慎重に行なった(蓋の微妙な重さに苦労した)が、それ以外はできるだけ手造り感を出すようにした。
  一辺50センチ弱、これならチラシいっぱいの新聞を二つ折りでかつ何部重なっても心配ないし大型封筒も怖くない。
  デザインも何か昔懐かしい感じがして、妻にも合格点をいただいた。
  ただし、図面も作らず感覚的に作っていったものだから、途中で手直し・やり直しが重なって、目に見えない部分はボロボロである。
  それでも、この町で唯一の個性的でレトロな郵便受ではないかと気に入っている。

  その昔、小学校の夏休みの工作の宿題に郵便受を作った子供は多かった。だから、当時は手づくりの郵便受もたくさんあったが、今は我が町にそんなものは一つとして見当たらない。
  近頃の社会は少数意見や個性に対して不寛容な風潮があり、それ故に既製品まみれの生活に意識が縛られた既製品のような人生が生み出されているように見え、それはあまりに悲しくないかと言いたいが、世間は反対に「あんな無様な郵便受を手づくりしなければならないなんて可哀相に」と思っているに違いない。あ~あ。

2012年10月13日土曜日

空振りの鷹ウォッチング

  秋風が吹くとサシバやハチクマという「夏鳥である鷹の一種」がインドネシアや中国大陸南方目指して集団で大旅行を開始する。
  その旅行コースは例年ほとんど決まっていて、そういう「待ち伏せ」ポイントで待っていると感動的な大旅行を目撃できる。
  その一つが中央構造線上で、東吉野村と松阪市の奈良・三重県境にある関西のマッターホルン高見山(標高1248㍍)は中でも一番のポイントだったから、過去に何回も行ったことがあったが、我が家からは少し遠い感じがしてここ10年ほどは行っていない。
  そんな折「この京阪奈のごく近所にもポイントがある」と知って行ってみたのが交野市(かたのし)の交野山(こうのさん)。
  結論を言えばこの日は風向きが悪く(穏やかな南風のため)鷹にはお目にかかれなかったが、びっくりしたのはその眺望。北河内から大阪市内はもちろん、京都、北摂、明石大橋、淡路島まで眼下に見下ろす標高341㍍。
  東京スカイツリーの天望デッキはほぼ同じ標高だが、ここ交野山には窓ガラスはなく爽快感は比ではない。高見山の4分の1とも思えない。
  大阪北部の方々には「何をいまさら」ということなのだろうが、灯台下暗しとはこういうことを言うのだろう。私は知らなかった。
  頂上の観音岩で双眼鏡を覗いてみると、かつて勤めていた枚方の職場もすぐそこで、私にとっては感動的なひと時だった。

  さて、交野山の麓には七夕姫を祀る機物(はたもの)神社があり、室町時代創建との社伝よりも実際にはもっともっと古く、元々のご神体はここ交野山であっただろうというのが中国思想史及び我が国の古代史で著名な福永光司、千田稔、高橋徹先生等の指摘。
  そして、桓武天皇(生母の高野新笠は百済の武寧王の子孫)や文徳天皇が中国の天子に倣って道教に基づくと思われる「天神の祭り」を執行した対象の山も交野山をおいて外にないと・・・。
  さらに、ここは幻の長岡京の真南の聖地にも当たる・・ということは、つまり、交野山があるからこそ長岡京が彼の地に計画されたということになる。
  寄り道の話は尽きないが、機物神社、天野川、百済寺、星田妙見、磐船神社・・・ズバリ、ここは千年を越えるパワースポットで、交野山はその中心であったのだ。
  で、観音岩に七夕姫を見たのは古代史を読み過ぎたゆえの白昼の幻覚か。

2012年10月9日火曜日

秋の使者

  眩しさが勝ってかえって彩りの少なかった夏が終わり、どことなく秋らしさを感じさせる生き物が目につくようになった。

  瑠璃立羽蝶(ルリタテハ)は市街地で見られる蝶の中では一番美しいように私は思う。
  ただ、立羽蝶の名のとおり止まっているときは羽の表を閉じて立てている。
  このときに見える羽、つまり羽の裏は見事に地味な樹木のような保護色で、その差は正に「あっぱれ」と言いたい。

  褄黒豹紋蝶(ツマグロヒョウモン)は虫や鳥には珍しく♂よりも♀のほうが美しい。
  ただその理由が「毒蝶に擬態」と言われているから、チョット驚きつつ何となく納得したりする。
  「綺麗な蝶には毒があるわよ」と美魔女が鼻で笑っている感じがする。
  強烈な個性の彼岸花の横で藤袴(フジバカマ)が咲き始めた。
  山上憶良の秋の七草の歌のおかげで、そして源氏物語のおかげで秋の野草の代表選手というイメージが定着しているし、おまけにレッドリストにまで登場しているものだから、「はかなく」「可憐な」等の常套句を目にするが、現実にはほんとうに「どうと言うことのない」花である。
  それでも、毎年の開花を楽しみに待っているのは、そういう既成概念に乗っかる楽しさとでも言おうか、「今年の花もどうと言う事はなかったなあ」というマゾヒズムだろうか。

2012年10月6日土曜日

秋鮭の季節

  男というものは女の何十分の一しか値打ちがない。
  それが証拠に、あの筋子やイクラに比べると鮭(大阪弁ならシャケ)の白子は可哀相なくらいの捨値で売られている。
  こういう、需要が少ないというか、実はメディアで採り上げられていないという理由だけで不当に低い評価(価格)しか受けていない鮭の白子は可哀相ではあるが、これは我が家にとっては大歓迎なことで、メジャーな河豚や鱈の白子の値札を横目で笑いながらしばしば購入している。
  だからこういうブログで鮭の白子を礼賛すると、需要が増えて値段が上がらないかと卑しい心配をしながら書いている。

  先日の十五夜に、妻がこだわりのお店で「美味しそうなのが出ていた」と言って購入してきた。・・この地の大型ショッピングモールにはほとんど登場してこない。
  料理方法はいろいろあるが、シンプル イズ ベスト、今回はボイルをして生姜醤油をチョットだけ付けていただいた。
  まあ「箸休め」ではあるが皆に好評で、1歳半にも届かない孫が喜んで食べたので全員が驚いた。
  何回も指で摘まんで口に運ぶ仕草は心から美味しそうで、皆がその度に歓声を挙げたのだった。
  しかし考えてみるとこれは何も驚くことではなく、柔らかくて美味しいお魚を食べただけのことで、「メジャーでないもの・・・つまりは下手物(ゲテモノ)を食べた」と思うのはつまらぬ情報社会に毒された大人の偏った感覚でしかない。
  「世間の垢に汚されていない赤子」というのをしみじみと実感した。「うん、この子は素直にグルマンになるに違いない」と呟いて、お爺ちゃんのお酒の相手をしてくれる日を夢(妄想)見た。

  しつこいようだが、鮭の白子は不当に低い価格で、庶民の・・つまりは我が家の・・好評の一品である。
  故に、小人(私)は正当な評価が世間に広まることを極端に怖れている。
  よって、ブログ読者の皆さんがこのブログに触発されて「私も買ってみよう」などと「改心」されないことを心から願っている。

  ただし、このブログのラベルは爺ばか日誌である。

2012年9月30日日曜日

仲秋の嵐月

  少し本を齧っただけのことなのだが、月そのものを(男の神ではない)女神としたり、そこに女神が住んでいるとする神話・民話は世界中のあちこちで共通しているそうである。世界的な普遍性なんてチョット感動的で何処か可笑しい。
  思うに、月の満ち欠けは古人に生と死と再生を悟らせたのではないだろうか。そして、この世での再生のドラマ・・つまり妊娠と出産の主人公である女性・・つまり女神を想像したのでは・・・・。
  東欧の狼男は満月の夜に変身するが、この列島では満月の夜に狸ですらが踊りだす。この感覚も好きである。
  仲秋の名月・・・・であったはずが、見事に台風に直撃され、無月、雨月どころか、嵐月という造語がふさわしいような稀有な経験をした。旧暦8月15日の宵に台風が直撃するなんて統計的には『すごい』ことではないだろうか。猿沢池の采女祭も当然中止だ。ただ、ブログ掲載の21時段階では「台風って何のこと?」というような『台風一過』であるが月は見えない。
  それでも写真のとおり我が家には満月を顔を出し、楽しくお月見を行なった。
  月は、私が撮影した満月を印刷したものなのだが、印刷をしてみたらまったく兎の影がとんでしまって「私の作品(写真)だ」というのを家族に信じてもらえなかった。
  月見団子は「衣被き(きぬかつぎ)に似せた」とか「月に群雲」とか諸説はあるが、関西の月見団子はラグビーボールの胴を餡で包んだ形である。
  近所の大型ショッピングモールの和菓子屋は関西系ではないのでこの形の月見団子は置いていなかった。同じショッピングモールの中華料理店で「月餅(げっぺい)はありますか」と尋ねたら若い女性店員が「ゲッペイ?%$#?それ何?」という顔をした。
  日本を代表するような・・先ごろの中国の「暴動」のニュースで度々映し出された巨大スーパーだが、いつの間にかこの国は私の常識が通じない社会へと遠ざかってしまっているようだ。
  それでも良い、・・誰がなんと言おうと、少なくとも孫にはこの豊穣と再生の行事を引継ごう。
  庭の紫式部に再生のシンボルでもある空蝉を見つけた。
  蝉や蝶や蛇の脱皮に再生の力を信じた古人の発想が近頃いやに良く判る。思考方法が即物的になったのだろうか。自分の感性が変ってきたその理由は解らない。まさか「老い」ゆえだとは思いたくない。