私は現役時代、業務をマニュアル化するのに努力してきた。
それは、頻繁に行なわれる人事異動でどんなアクシデントがあっても、最低限の業務の水準を維持し次に継承したいという気持ちからだった。だから、私はマニュアル全般について否定しているものではない。
だがしかし、一旦マニュアル化されてしまうと、制度の主旨や精神を考えることを止め、改善の意欲が停止してしまうかのようなこともあり悩ましかった。
そして現役を卒業し、間髪を入れず老朗介護に突入したのだが・・・・・・・、
(以下の問題意識は過去のブログと重複する)
先日、音楽療法の勉強会を行なった。
近頃の講演はほとんどがパワーポイントを使ったプロジェクターとスクリーンで行なうものだから、レジュメもなく、正確な理解が記録できない・・・・と、機械のせいにして己の不真面目さを責任逃れする。あはは
つまり、私の非常に不正確な理解であるのだが、それは、音楽はもちろん心理学などを修めた音楽療法学科卒的な音楽療法士による、極めて計画的な非薬物的療法であるらしい。
確かに、その実践は非常に巧みで参加者全員が心地よく会場を後にした。
しかし私は思うのである。
歌といっても千差万別、被治療者も千差万別、いろんなアレンジがあるはずのものを「音楽療法」という定義が幅を狭めていることは実際にないのかと。
現に、これまで幾らかの音楽療法を見てきたが、その歌は圧倒的に唱歌のようなものだった。
高齢者の想い出の歌はほんとうに唱歌なのか。わらべ歌なのか。
現在80歳の方が38歳の時は1970年(昭和45年)。「知床旅情」も「女ひとり」も私の訪れていた部屋の皆さんは大好きだった。唱歌よりも恋の歌の方が顔が輝いた。
かくして、「音楽療法」と“構えたもの”に、私は若干違和感を覚えるのである。
高齢者介護の中には「回想(療)法」というものがある。
これも基本的には私は門外漢である。
だから六車由実氏が「驚きの介護民俗学」で批判的に書かれている部分を孫引きすると・・・、
1クール8回の場合、1回目「ふるさと」、2回目以降「昔の遊び」「学校」「結婚」「子育て」「仕事」「お正月」「今、やりたいこと」というテーマに沿って、メモをとらずに計画どおりに傾聴していくものらしい。
だから、私が実母や義母とやってきたものは全くの別物なのだろうが、私は「あんなん教えて、こんなん教えて」とメモをとり、少し面白かった話はブログに書いて、「おばあちゃんの話を全世界の人が見やはるねんで」と見せてきた。
あるときは、実母がそれを見てワーっと泣き出したのでスタッフの皆さんが驚いて駆け寄ってきたことがあったが、それは感動のうれし泣きだった。
私流の回想法で介護してきた・・などとおこがましく言うつもりは毛頭ないが、マニュアルの外にも素晴らしい介護があるのではないかと思ったりするのである。
と、ダンドリ君のパパは偉そうに悩んでいる。
ただ、感涙!です。
返信削除母が通所していた頃時々歌詞帳を持ち帰ることがありました、今思えばΓ音楽療法」を受けていたのかも知れません歌は歌謡曲、民謡,童謡と10曲程印刷されていましたが歌謡曲は古いものが多かったときおくしています。
返信削除Γ精神疾患や認知症」の患者の症状は千差万別で全ての患者に一様に効果があるものとも思いません少なくとも多数の患者に効果があると認められたものの一つにΓ音楽療法」があるのではないでしょうか?全ての人に一様に効果があると考えて実施しているのではないと思いますがいかがでしょう?
今後研究が進みより効果のある治療法が見つかることをへがうばかりです。
!茅渟の海さん コメントありがとうございます。
返信削除介護の問題を自分の身に引寄せて考えたとき、脳梗塞かなんかで私がまるで幼児の様な発音になっても、「おじいちゃん むすんでひらいて を うたいましょう」なんて言われたくないなあと思ったりするのです。あっはっは