2021年7月31日土曜日

哀悼 益川敏英氏

   益川敏英氏のご逝去の報に接し著書『科学者は戦争で何をしたか』を読み直した。

 タイトルから受ける印象みたいに紋切型ではなく、当然のことだが、理論物理学者らしく実証的で論理的なその内容に再び感心した。

 それは科学者だけのことではなく、ハンナ・アーレントが指摘したアドルフ・アイヒマンの「悪の凡庸さ」に通じる、ということは、すべての庶民の「生き方」を問う内容なので、未読の方は蔵書に加えられるとよいだろう。

 今般は、多く語られている氏の諸論とは少し異なる小論を紹介してみたい。『原子力研究継続の必要性』というテーマである。私の紹介で変に誤解が広がると困るが、反対にあくまでも真理に向けてのみ誠実に追求する氏の面目躍如だと私は感じた。その内容は次のようなものである。

 ■ 私は原発反対派の中で少しスタンスが違います。そんな危険なものは使いものにならんから今すぐやめろと言えばかっこいいのですが、原発の問題はそれ程単純ではないと思っているからです。

  福島の事故を見るまでもなく、原発が安全に使える代物ではないということは分りました。けれど、今のような勢いで電気を使っていたら、地下資源は後300年でなくなってしまいます。代替エネルギーとして風力や太陽光があるじゃないかと言いますが、今の段階では電機は貯められないので安定供給が非常に難しいわけです。風力発電にしても、台風などで、設備が壊れやすく、やはり安定供給と言うには程遠いものです。

  今までの話と矛盾するようですが、だからこそ私はすでにある原発の安全性を担保する研究に十分にお金をかけてほしいと思っているのです。廃炉にするにも一流の技術が必要です。これは国のプロジェクトとしてやらなければいけないとも考えています。

  一方、原発に反対する人でも、ロケット打ち上げには手放しで喜ぶのではないでしょうか。宇宙開発でロケットを打ち上げ、太陽系の惑星のギリギリのところまで飛ばして、いろいろな未知のデータを取ってくる。実は惑星探査機には放射性物質が使われているものがあります。科学者の目から見れば、その仕組みに関してはなかなかうまい方法だと思うのですが、一般の人々はそういうことは知りません。もっとも、打ち上げる方もそんなことはあまり大きな声では言いませんから、反対運動も起りませんでした。

  しかし、その構造を知っている人間から見れば、打ち上げにはかなりのリスクを抱えています。もしその打ち上げが失敗して、上空で爆発したらどうなるんだという見方もできるわけです。宇宙開発に真剣に取り組むのなら、そうした問題もクリアしなければならない。そのためにも、原子力の研究は継続しなければいけないということです。

  当面の問題は今ある50数基の原発をどうするのかという課題です。使うにしても止めるにしても、まずは安全確保の研究が必須です。使用済み核燃料をどう始末するか、それも大きな課題として残っています。

  ・・・そうした問題をクリアするためにも、原子力の研究は必要なのです。原発事故を収束させるにしても、廃炉作業や廃棄物処理を進めるにしても、二流、三流の研究者しかいなくていいんですかと、私は今言っておきたいのです。いい加減な廃炉作業をされたら、それこそ恐ろしいことになります。

  ・・・これは人間の手に負えないぞと、最終的に原発を断念するにしても、原子力研究には資金と優秀な人材を投入してほしいと思っています。■

 どうだろうか。誤解を生みやすいテーマであるが、学者としては単純な「原発反対」だけでは済まないという主張は、氏の豊富な「原発反対」の行動に裏打ちされながら、我々に真剣な学習と思考を問うている。氏のご逝去は早すぎる。

2021年7月30日金曜日

油蝉

   ミンミンゼミ、ツクツクホウシ、ニイニイゼミ、チッチゼミ、カナカナ(ヒグラシ)などセミの名前はその鳴声からきているものが多い。そして少なくない書物には、アブラゼミは油で料理を炒めているようなジリジリジリという鳴声に由来していると書かれている。実際、あの鳴き声をフライパンで何かを炒めているような、あるいは天ぷらを揚げているような音と連想するのは的を射ている気がする。

 しかしながら、揚げ物や炒め物の料理の音が庶民の共通認識になったのは少なくとも江戸時代になってからだろう。一方、アブラゼミは何時頃からアブラゼミと呼ばれたのだろう。それが戦国時代より前であるならその論は成り立たない。(奈良時代に油で揚げた唐菓子はあったが、その製造現場を知る者はごく少数だったのではないだろうか)

 ところが、持っている本をあちこちひっくり返したが、アブラゼミがどの時代からアブラゼミと言われたのかという叙述に到達できないでいる。ヒグラシに比べて情趣が少ないからか、温暖化以前の古い日本列島(京や江戸)には居なかったのか、それとも明治の生物分類学登場以前はひっくるめて「セミ」だったのだろうか。

 名前の由来の少数意見には「油紙」に似た色や模様だから」というのもある。慶応生まれの祖母は髪を染める際必ず油紙を敷いていた。外にも防水の包装紙などにも油紙があった。もう死語辞典入りかもしれない。しかし考えると、傘や合羽のような用途に使用した油紙の歴史は炒め物、揚げ物の歴史よりもはるかに古そうだから、案外、「油紙みたいな翅のセミ」というのが名前の由来という方が当たりかも・・。

 写真のセミは少し乾いた感じに写っているが、油紙みたいな油蝉は多く納得できる。さて、ほんとうのところはどうだろう。

2021年7月29日木曜日

アジール

   「無縁」「公界(くがい)」のことは網野善彦氏に多くを学んだ。自治都市堺が無縁、公界の原理に支えられていたという論は刺激的だった。そして、無縁、公界の原理による『避難所(アジール)』のことは、別途古代史を学ぶ中で、允恭天皇が葛城玉田宿祢を捕えようとした折に玉田宿祢が武内宿祢の墓域に逃げ込んだが、それは武内宿祢の墓域がアジールであるという観念が共有されていたからだという説に接して、大いに納得したことがあった。

 孫の夏ちゃんが夏休みに入って、お母さんの仕事の日にわが家にやってきた。カバンの中にはきっと夏休みの宿題も入っているのだろうが、来たときから帰るまでカバンから取り出したのはゲーム機だけだった。要するに、食事以外はズーッとゲームをしていた。

 わが家は夏ちゃんのアジールなんだ。

 祖父、祖母の家は孫にとってのアジールでよい。どこにもアジールがなければ孫も辛いだろう。そんなことを思いながら、私は私で読書に耽った。

2021年7月28日水曜日

近世と近代

   私の『乱読積んどく』は読書感想文でも書評でもない。あえて言えば読後の印象のようなものである。

 今日の『江戸問答』は敬称略で書かしていただくと、田中優子と松岡正剛の対談、文字どおり「問答」を外野席から勉強しているような本であった。

 この本以前に、私は松岡正剛の『日本文化の核心』を読んでいる。しかし正直、その折はあまり刺激を受けなかった。それが今回の本では、「明治は江戸から何を受け取って何を拒絶したのか」、大いに勉強したくなった。

 私は小さい頃から本が好きで、しかしそれを読みすぎると夕方には片頭痛というか目の奥が痛くて眠るのも辛かった。それが今では視力の低下で同じような症状を抱えている。

 しかし、読みたい本、勉強したい課題は山のようにある。寿命とは競争だ。そんな中に、また勉強したい課題が割り込んできたというのが、この本の読後の印象だ。そして松岡正剛の『日本文化の核心』ももう一度読み直してみるかと思い直している。


2021年7月27日火曜日

幕の内土俵入り

   歴史というものは残酷なもので、その始めはそれぞれ深い意味があったものであっても、その後どこかで魂が抜け落ちて些か陳腐に見えるもの(所作)もある。

 相撲の幕の内土俵入りは、土俵に上がる前に「シィー」と声を出す「警蹕(けいひつ)」を行い、最後の力士が上がると共に全力士が内側に向き直し、拍手を一回して、右手を挙げて、化粧まわしをひょいとつまぎあげて、そして両手をあげて終わりである。それが場所中毎日行われるわけである。

 これを陳腐というか重厚と思うかは個人の感性であろう。

 この幕の内土俵入り、孫の凜ちゃんはどこか琴線に触れたようで、なので、祖父ちゃん祖母ちゃんは写真のとおり『化粧まわし』を凜ちゃん山に贈呈した次第。

 そういう凜ちゃんのためにも、相撲は単なる勝負でなく、横綱には横綱の風格を求めたいが、そんな意見は古すぎるだろうか。スポーツ(格闘技)か神事かというような単純な二者択一でなく、21世紀に通用するスポーツでありかつ神事であるというように常に現代人に問われているように思えてならない。私は外国人力士に賛成である。その上で相撲の歴史も押さえておいてほしい。(綺麗な歴史だけではないが、そこは現代社会と調和させるとして)  なお、天皇制の話は別途。

2021年7月26日月曜日

不如帰

 動画といっても 近所の早朝の小山が映っているだけ。

 ただ耳をすませば、不如帰(ほととぎす)の声がしている。

 不如帰は、『帰るに如しかず(かえりたい)』という意味。

  古代中国、蜀の望帝・杜宇が、家来の妻と不貞を働いたために退位させられ、 望帝は不徳を恥じ国を逃れたものの、その後復位を望むが叶わずに亡くなり、ホトトギスに姿を変えて『不如帰(かえりたい)』と泣いたという。

 ネットの翻訳機能で不如帰という文字の中国語の音声を聞いたが、現代中国語ではどうもホトトギスの声には聞こえない。古代蜀の言葉ではどう発音したのだろう。疑問は連鎖・拡大するがそれもまた楽しい。

2021年7月25日日曜日

羽化登仙

   午前中庭に出ると五月の蠅のようにクマゼミが顔の前を飛び回る。「うるさい(五月蠅い)」は「七月蝉」の方が似つかわしい。

 ヨーロッパの北の方にはセミがいないらしく、彼の地の人々は日本映画の蝉しぐれをただただ不思議な雑音と感じるらしい。

   東大寺ミュージアムに行くと「銀製蝉形鏁子」という国宝東大寺金堂鎮壇具が展示されている。錠前、鍵である。これがなぜ蝉形なのか、考えると不思議だ。

 どこかに「玉蝉(ぎょくせん)」の思想が辿り着いた気がする。古代中国では死者の口の中に翡翠(ひすい)製のセミを含ませて納棺している。玉蝉である。蝉の羽化に「再生」を見て、死者に羽が生えて仙界に登るのを祈ったようだ。

 仙人や天女(飛天)のルーツも中国よりも遥か西方と考えられるから、飛び回るセミを見ながら心はユーラシアに飛んでいく。

 

2021年7月24日土曜日

大暑

   孫の凜ちゃんのためにビニールプールに水を張っておいて、あまり冷たくないようにと気遣ったのだが、風呂並みのお湯になってしまってプールらしくなく、妻に馬鹿にされた。過ぎたるは猶及ばざるが如しなり。

 近頃はコロナも熱中症も怖いから外出は控え家の中で歳時記をパラパラ読んでいる。季語は印象としては『死語辞典』のような感じがする。私の歳でかろうじて知っているがもう世の中では骨董屋にもないようなものもゴロゴロしている。

 「定斎売(じょうさいうり)」なんかは本で知っているだけで私も見たことがない。高度成長期に日本人は大きな忘れ物をしてきたが、このパンデミックは振り返ってみたときに同じように忘れ物の「大きな曲がり角」だったと呼ばれるに違いない。

 「暑気払い」もコロナ下で御法度だろうから、気がつけば死語になりそうだ。

   昼は炎暑が怖いから早朝に遠くない農村を軽く散歩している。蛙が鳴いている。鶏が鳴き始める。コウモリが帰るとツバメがやってくる。そこには未だ歳時記の世界がある。

2021年7月23日金曜日

レジスタンス

    「五輪中止の緊急ネット署名」呼びかけ人の一人、飯村豊氏が赤旗の一面のインタビューに登場された。元外務省官房長、在フランス大使などを歴任された人で、「私は穏健保守です。赤旗に登場すれば友人たちはびっくりするでしょう」と言うが、違う角度から好意的に見て私も驚いた。

 登場された理由を元在フランス大使らしく、「第2次世界大戦でナチス・ドイツに占領された時、ドゴール将軍やフランス共産党がレジスタンスで共闘した」と例え、これまで社会運動とは縁がなかったが、「いわば統一戦線です」と言い切っておられた。

 フランスのレジスタンスでは、「神を信じる者も信じない者も」という有名な詩のように、キリスト教会と共産党もナチのファシズム(全体主義)に対して統一戦線を結成して闘った。

 さて今日、腐敗し切った自公政権を目前にして市民と野党の共闘が本気で求められている現代、一部の野党と労働団体の中で「左右の全体主義を排す」とか言って、「左の全体主義とは共産党だ」というような時代錯誤の発言があった。

 先にあげたような、歴史上もっとも熾烈な反ファシズム統一戦線の勉強ぐらいしていてほしいし、真摯な元大使の姿勢を見習ってほしい。

 フランスレジスタンスの歴史を知らなくても、中学の社会では「御用組合」というのを学んだはずだ。労働組合の役職が企業内の出世コースに組み込まれていて、企業の代弁をして労働者の団結と要求行動を押しつぶすのが「御用組合」で無かったか。

 飯村氏曰く「たとえ開催が強行されても、最後の最後まで中止を訴えますと・・。

2021年7月22日木曜日

稲の葉露

   早朝に田圃道を散歩していたら稲の葉先にキラキラと水玉が光っていた。農村や稲作を知らない私はただ単純に美しいなあと感動した。

 夜露ではなく稲が吐き出した水分であろうと想像したが、調べてみると間違っていなかった上に、「稲の葉露」という名前もあることが分った。

 この水玉は日が暮れると発生し、さらに稲の葉を下から上へと登っていく現象もあり、それ(登っていく水玉)を「猿子」というらしい。「猿子」の観察は私にはほぼ無理だろうが、何となく頭の中でシュミレーションをして楽しんだ。
 写真はスマホで撮ったものを順に拡大してみた。





2021年7月21日水曜日

マイクロキュウリ(胡瓜)

   毎年家庭菜園には、普通にスーパーに並んでいるのでは面白くないから、「黒イボ白胡瓜(半白)」と、強いイボと皺が特徴の四葉(スーヨー)系の「四川胡瓜」(どちらも味が濃く気に入っている) を植えているが、今年は梅雨が酷かったせいか、(実際は対応が拙かったので)あまり出来は良くなかった。

 その反面、今年初めて植えてみたマイクロキュウリが、あまり期待していなかった分、予想外に健闘した。

   写真のとおり、大きさは2センチ程度で、珍しいので投稿したところ、20日付赤旗に掲載された。
 少し果物っぽい(ライムっぽい)胡瓜なので専らサラダの色どりに使っている。
 風情が可愛いので「花」として植えてもよいかもしれない。
   20日の朝は、友人たちから「読んだよ」というメールが続いた。ありがとう。



2021年7月20日火曜日

暑さ指数(WBGT)

   テレビの天気予報に『暑さ指数』という言葉が登場している。    気温とよく似た 数字(例えば「31以上」とか)のため、「温度のことではありません」とはいうものの詳細はわかりにくい。

 環境省のHPに解説があった。一番わかりやすい『今日の暑さ指数』という予測値(予報)についてみると、暑さ指数(WBGT)の予測値=0.735×Ta0.0374×RH0.00292×Ta×RH7.619×SR4.557×SR20.0572×WS4.064 【Taは気温()、RHは相対湿度(%)、SRは全天日射量(kW/m2)WSは平均風速(m/s)】として算出しているらしい。同HPにはそれぞれの詳細な観測方法も掲載されている。単純にいえば、気温と湿度と日射・輻射を勘案した指数のようだ。

 厚労省は「熱中症予防のため、屋外で人と2m以上離れている場合はマスクをはずすよう」訴えているが、『世間の同調圧力』の方が怖くて着けたままの人がほとんどだ。マッカーサー曰く「日本人は12歳だ」が悔しいが、否定しきれない。

 大阪管区気象台は大阪市中央区大手前の第4合同庁舎にあるが、その東の第2合同庁舎の東隣の広場(NHK大阪放送局の南側)にアメダス等の観測設備がある。昔は百葉箱があったが今はもうない。元になるデータはここで計測されている。

 さて、現在の自公政権は科学や統計に対する酷い軽視がある。科学や統計に対する嫌悪と言ってもよい。少し古臭い話にまで話を膨らませると、敗戦時に軍部や政権は膨大な資料を焼却(証拠隠滅)したが、その折、中央気象台(現気象庁)の科学者たちは忖度せず、データを死守してその後の気象予報に貢献した。こういう話は公務労働運動でも語り継いでほしい。(そのことは2019年6月16日の記事に書いた)

2021年7月19日月曜日

花茗荷

   ほんとうは花が咲く前が良いのだが、写真のように咲いた後でも構わない。夏の重宝な薬味である。放ったらかしの庭の一角に次から次へと生まれてくる。

 私の慶応生まれの祖母は小学生の私に、本気で「よし坊は食べたらアカン。物忘れするよって」と言っていた。

 言われなくても小学生が好む食材ではないが、長じて大好きな薬味になった。蒸し暑くて食欲が減退したときも口の中に清涼感が生まれる。素麺の場合など欠かせない。

 以前にスーパーで茗荷を買っていたら、「それはどういう風に食べるものですか?」と尋ねられて驚いたことがある。そういえば、テレビのクッキング番組でも、見たこともない新種の西洋野菜などはよく登場するが、その割に茗荷が登場することは少ないような気がする。

 もしかして、調理師がレシピを忘れてしまったのかもしれない。

 

2021年7月18日日曜日

生きることは演じること

   鴻上尚史著『演劇入門』を読んだ。演劇関係者でない方々の書評などがあったので、「その理由は何か」という興味で購入した。

 ところが最初の方はやはり演劇論のような文章が多く結構読むのに苦労した。

 表紙に「生きることは演じること」とのサブタイトルがあるが、私たちの人生は演劇そのものでないかという指摘は否定のしようがない。

 演劇とは「他人になる」ことだから、演劇を深めると、「シンパシー」他人に同情する気持ち、「エンパシー」他人の気持ちを想像できる能力が高まる。そしてそれこそが現代日本人に欠けていることではないかと私は読んだ。

 ほんとうの意味で「日本人はコミュニケーション能力」が劣っているという文脈で著者は、「それは、人に迷惑をかけるなという呪い」だと指摘しているところも面白い。そこではこういう言い方もしている。「誰が正しくて誰が間違っている、ということではありません」「何が迷惑になるかは曖昧で人によって違い、話してみないと分からない」「それだけのことなのです」。

 そういう話しがあちこちにあり、社会の歪みや現代人の生き方にも関係しているところが頭書の書評の疑問への回答だったかも。

 芸能は「あなたの人生はそれでいいのですよ」と肯定するものであるが、優れた芸術にはその要素を含みながらも「あなたの人生はそれでいいのか?」と挑発するものだという見解も刺激的だ。

 「どうしたら演技が上達しますか?」とよく聞かれます。僕は「場数(ばかず)です」と答えます。・・というのも納得だ。「演技」のところを何かに入れ替えても真理に違いない。

2021年7月17日土曜日

芸術と政治

   16日に『表現の不自由展かんさい』を観てきた。アートとしてはそれほど感動はしなかったが、これらの作品に対して加えられた抑圧や妨害によって、妨害者には皮肉だろうが、芸術(表現)と政治について考える機会になった。それはきっと私だけのことではないだろう。

 「アートに政治的主張を込めてはならない」とは誰一人考えてはいないだろう。問題は不愉快に思う人の気持ちである。そしてそれは単純明快である。言論で反論すべきである。間違っても、暴力や脅し、あるいはそれに屈して公職にあるものが公権力の行使としてそれを抑圧、抹殺しないことである。

 私は、帝國憲法下の従軍慰安婦、昭和天皇の戦争責任、それらがアートになっていても何の不思議もない。ナチスヒットラーのユダヤ人強制収容・ホローコーストを告発する立場でアートにして圧倒的な現代ドイツ人はそれを自虐だ、ドイツ人を貶めているとは言わないだろう。同じ性格のことを堂々と自虐だなどと発言する方がおかしくないか。

 18日まで開催されているから、誰もが自分の目で見て自分の頭で考えることが大切なように思う。維新の吉村大阪府知事が後押しした施設側の特別抗告は最高裁でも棄却され、大阪府立労働センター(エルおおさか)の会場使用は維持された。多くの人々が観に行くことが暴力や脅迫反対の理性的な社会を守ることになる。

2021年7月16日金曜日

驚きの最低賃金

   2013年6月のアベノミクスの発表から丸8年が経過した。NHKの『あさイチ』で山口もえさんがコメンテーターの解説を受けて「アベノミクス万歳!」と大声で叫んだ場面を昨日のように思い出す。山口もえさんに問う気はないが、マスコミは賛美した数々の解説と同量の内容でアベノミクスの到達点を解説すべきでないか。ひとつの指標を見てみたい。

 14日に厚労省に設置されている中央最低賃金審議会小委員会は最賃の『目安』を加重平均で時給28円引き上げるのが妥当とまとめたと報道されている。使用者側委員2名は異例の反対を表明したから各都道府県労働局にある地方最賃審議会が『目安』どおり決定するかどうかはわからないが、仮に一律28円引き上げた場合の地域最賃でアベノミクスを考えてみる。

 安倍前首相らが大嫌いであった韓国の最低賃金委員会は2022年の最賃を時給9160ウォンと決定した。日本円にして約885円という。これに対して8年間のアベノミクスが到達した日本国の最賃は『目安』どおり過去最大の引き上げを実現したとして、47都道府県中、東京、神奈川、大阪、埼玉、愛知等13都道府県は889円以上になるが、あとの34件は820円や821円など韓国なら『最賃法違反』となる水準となる。なお、国家公務員の初任給は11都府県では地域最賃を下回るがその話は後日に譲る。

 「韓国企業が低賃金労働力を求めて日本に進出してくれるかもしれない」と喜ぶなら勝手に喜べばよいが、そして国際的な低賃金競争、劣悪労働条件競争が緩和されるなら評価する面もあるが、素直に見てこれは、日本の労働者がこの間の自公政権によって貧しくなった。生活改善はストップしたままだったということであろう。「韓国に抜かれたのが恥ずかしい」というような傲慢さの裏返しのような話をしているのではない。

 目前の総選挙では、投票前にこの現実を思い出す必要がある。思い出さないなら、浜矩子さんが安倍政権に向けて「アホノミクス」と痛罵したけれど、日本の労働者が同じような・よく似た形容で嗤われる。

2021年7月15日木曜日

完全防備だが

   記録のために・・・7月14日早朝5時前、今年初めてヒグラシの声を聴いた。テレビは梅雨明けを報じていないし、にわか雨(それも雷雨・豪雨)は2~3日続くようだが、『自然暦』は確実に梅雨明け、夏本番幕開けだ。

 十分なお湿りのせいで庭中にドクダミその他の雑草が我が世の春を謳歌している。その葉の裏でヤブ蚊大隊も戦闘態勢。

 ということで、虫よけスプレーをふんだんにかけた上に写真のような出で立ちで立ち向かうのだが、シャツの上、靴下の上から刺してくる剛の者も少なくない。

 で何時も、4分の1、5分の1も作業できないうちに弱音を吐いて退散している。恥ずかしいので「夏の風物詩だ」「明日の楽しみにとっておく」と痩せ我慢を言っている。

2021年7月14日水曜日

緊急事態法を思う

   「歴史的な意義」というものは文字どおり歴史が明らかにしてくれる。

   2015年9月に集団的自衛権行使を是とするいわゆる戦争法が強行成立された。安倍首相を担ぐ日本会議等は余勢をかって20167月の参議院選挙で憲法改正を成し遂げようと意気込んだ。

これに対して、国会内外で立憲主義を守れという広範な市民と野党の連帯した運動が発展し、2016年参議院選挙では共産党が「捨て身の戦術」をとり、一人区32選挙区の候補者1本化(無所属16人、民進党15人、共産党1人)のため31選挙区の候補者を取り下げ、その後の市民と野党の共闘はいろんな妨害の影響を受けながらも発展し、今日現在憲法改正は阻止されている。

安倍一強などと揶揄される状況の下で乱暴な国会運営が重ねられてきたが、文字どおり「非力ではあるが無力ではない」ことを押さえつつ、目前の総選挙を取り組む必要がある。

古い話で恐縮だが、ドイツのルター派のマルティン・ニーメラー牧師の言葉の持つ意味はますます現実課題になっている。

■ ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。  それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。  それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。  さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。■

ここからが本文である。 西村担当相が飲食店の休業要請のために、応じない店舗の情報を金融機関に提供し、融資等の恫喝で従わせる旨を発言した。菅首相は「発言を承知していない」と述べ、西村大臣は「撤回」したが、コロナ対策本部の本部長は菅首相で、西村大臣は副本部長である。また、単に西村大臣が考えを述べたというものでなく、内閣府から関係省庁には文書が出され、それを受けた酒類販売の許認可権をもつ国税庁が酒類販売業者の団体に「・・取引停止を求める」事務連絡を出している。

法律に基づかない強権発動を、それぞれの法律の趣旨(金融機関の優越的地位の乱用禁止等)に反して、立法府にもかけずに強行しようとしたことは、単に西村大臣の資質の問題ではなく、この政権の反民主主義的で危険な姿勢を露わにした。

翻って自民党の憲法改正案である。そこには第9章『緊急事態』が創設されている。内閣総理大臣は・・緊急事態の宣言を発することができる。 ・・内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる。 ・・何人も、‥発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。などというものである。

もし、些細な異論を蒸し返して2016年以降の市民と野党の共闘がなかったとしたら、恐ろしい相互監視(自粛警察)社会が実力を伴って実現していたことだろう。憲法改正、非常事態法を阻止して来ていてほんとうに良かった。

改憲について、菅内閣は安倍首相ほどには声高ではないが、その体質は1ミリも変わっていない。

目前の総選挙は、コロナワクチンだオリンピックだという課題の奥にそういう大問題が潜んでいることを改めて再確認しておきたい。

先日来の地方選挙をみても、気を抜いたら負けるし、諦めなければ勝利に近づいた様子も見て取れる。一昨日、9回裏2アウトで私はチャンネルを変えたが大いに反省している。諦めたら負けである。冷笑主義(シニシズム)は弱虫の小唄である。ハイ。

2021年7月13日火曜日

ひと仕事

   昨日、清水ただし議員にインタビューを行った。限られた時間であったが意見交換的なやり取りもできて私(わたくし)的には非常に楽しかった。勉強にもなった。もっと読者の皆さんに呼びかけて参加してもらえばよかったと反省!

 「来てくれへんか」と誘うと迷惑ではないかなどという変な遠慮をしてしまった。間違いなくほんとうに楽しかった。

 夕方までに、非常に雑駁なメモ(原稿のたたき台)も編集長に送信した。一仕事やり終えて清々しい。「この程度のインタビューか」とお叱りを受けるかもしれないが、次号「ひとつ星」乞うご期待。

 清水さんらしく、話の中では国民生活無視の自公の強行採決を「貧血の人を無理やり採血で大量の血を抜くようで、強行採血だ」とか、アベノマスクでは「小さくて、眼帯か」とか、政府の的外れなキャッシュレス政策を「財布の中身がキャッシュレス」とかのユーモアがふんだんにあったが、原稿では紙数の関係上すべてカットした。清水さん怒ってくるだろうか。ハッハッハ

 一昨日はひとつ星の原稿が3本届いた。みなさんありがとう。編集者の方が力を戴いている。

2021年7月12日月曜日

ヤラセと報道管制

   政府が東京都に4回目の緊急事態宣言を決めた7月8日夜の首相記者会見の質疑応答は、小野日子内閣広報官の「再質問なし」「質問したい記者は挙手で」との説明から始まったが、写真1のとおり多数の記者の挙手にも拘らず、なぜか挙手していない記者(写真2)が指名され、さらに、その記者が質問を始める前に菅首相が答弁原稿を探し始めるという“珍事”がみられたと報道されている。

   会見現場に同席した記者によると、「後ろの席に座っていたから分かるのですが、小野広報官に指名された記者は、呼び掛けられた時点で明らかに挙手はしていなかった。おそるおそる挙げていたとも思えません。というよりも、下を向いてスマホらしきものをいじっていたのです。ところが、小野広報官から名前を呼ばれると何事もなかったかのように立ち上がって質問し、それを菅首相が待ってました、とばかりに用意した原稿を読みながら答えていた。もう何が何だか……」

   また、翌9日の丸川五輪相の記者会見では、10分間、挙手を続けたTBS金平茂紀キャスターを指名せず、「何故当てないんですか?もう一問だけ」「大臣!」と呼び掛けるも、逃げるように会見場を後にした(写真3)。

首相も五輪相も、用意された原稿上は「丁寧に説明していく」という言葉を乱発するが、民主主義とは程遠い立ち居振る舞いだ。

香港のリンゴ日報弾圧みたいに露骨ではないが、いや、けっこう露骨に菅自公政権は言論、報道の自由を蹂躙している。政権やマスコミに是正を求めつつ、ミニコミやSNSでこういう事実を広げることが大切だろう。

2021年7月11日日曜日

命か金か

   コロナとオリンピックという問題は、約めて言うと「命か拝金か」ということだと思う。そういう中で、0か100かという単純な議論ではなく、東京、埼玉、千葉、神奈川で『学校連携観戦』が中止になったのは、子どもたちを危険にさらす愚を押し止めたという面で、確かな一歩前進だと思う。

 私は我田引水、牽強付会の議論は好きではないが、問答無用の菅政権下で組織委員会が判断に至った理由は、東京都議会議員選挙の結果であったことは間違いない。事実上の自民党の敗北と、共産、立民の前進という結果のことである。このまま強行すれば衆議院選挙の大敗北は間違いないと震えあがった人たちの判断であろう。

 各種選挙の際、よく「私一人が投票したって」と言って棄権を正当化する議論があるが、前記のとおり、「投票した世論」が子どもたちを守ったわけである。このことはもっと強調されてよい。

 いわゆる「無観客」という決定には、4都県以外の問題や「大会関係者」というあいまいさが残っている。開会式の1万人議論の際の「観客以外のスポンサー関係者(別に1万人?)」が「大会関係者」に呼び名が変わるだけという欺瞞の余地はないだろうか?

 そういう欺瞞の余地を疑うのは、真面目な議論に下世話な話で恐縮だが、IOCの感染予防ガイドラインでは選手にソーシャルディスタンスを求め、ハグやハイタッチも禁止するなど選手同士の接触は最小限にすることを推進し「競技場では選手同士2メートルの間隔を空け、応援の際に声を出したりしないようにいいながら、選手村には単純に一人14個、計16万個のコンドームが配布されるという。故に、政府や都や組織委員会の公式発表を信じるのはまともな社会人とは言えないだろう。引き続く監視と要求行動が大切である。

2021年7月10日土曜日

嘘も方便

   「嘘も方便」ということわざがある。「嘘をつくことはいけないことだが、時と場合によっては必要なときもある」という意味で、確かに、病院へお見舞いに行って正直に「深刻なご様子で快復は無理でしょう」と言うバカはいない。

 語源(由来)のひとつは仏教の「法華経譬喩品(ひゆまたぼん)」の「三車火宅(さんしゃかたく)」と言われている。ネットで検索したところ次のような文章があった。

■ 長者の家で子供たちが遊んでいました。 家が火事になっても子供たちは遊びに夢中で火事に気付いていません。長者が子供たちに逃げるように伝えても言うことを聞きませんでした。 そこで、長者は子供たちに「お前たちが欲しがっている車が家の外にある」と言い、子供たちを外に連れ出すことに成功しました。 引用元:創価学会公式サイト ■

しかし、ほとんどの辞典に付記されているように、「嘘も方便」を、自分の嘘を肯定する使い方は間違っているし、目的のためには手段を選ばないとの理解(曲解)は言語道断。もちろん仏の道にも反している。

大阪の街中に掲載したようなポスターが氾濫している。「全国民にワクチン確保」が実現したらしい。テレビ新聞の「供給停止」「新規予約中止」報道は何なのだろう。私の知り合いの大阪の高齢者にはまだ予約もできていない人がいるのはどうしてだろう。なむ~。

内閣府の発表した6日時点の都道府県別ワクチン接種率(供給量に対する接種率)では、1位が宮崎県の67.8%、ワースト1が大阪府の45.5%。そんな大阪の知事や市長が他県の選挙の応援に行って「大阪は進んでいるぞ」と演説する醜悪。

2021年7月9日金曜日

甘酢購入

   先日半夏生で『たこきゅう』のことを書いたが、一連の『胡瓜もみ』に私は『甘酢(あまず)』を使うのが好きである。私の場合は醤油は入れない。その方が料理が美しい。酢と砂糖と塩を合わせるだけでよいのだが、あれば小瓶のミツカン『甘酢』が手ごろでよい。

 ところが近所の大型スーパーにはほとんどおかれていない。それならとネット通販で購入した。

 私の知っている小瓶よりも一回り大きいが十分許せる。送料のこともあり1ダース購入したが妻からは「どこに保管しておく気か」と叱られている。息子や娘のファミリーにもあげたいが、かえって迷惑がられるだろうか。読者の皆さんは『胡瓜もみ』に何をお使い?

2021年7月8日木曜日

埴輪は語る

   この本を書店で手に取って買おうと思ったのは、著者が関東の古墳に詳しそうだったからで、反対にいうと、大和や河内の古墳中心ではなさそうだったからである。結論をいうと私の感は当たって新鮮な情報が多かった。

 どんな学問でも同じだと思うが、先行した学説を最新の発見で検証して、納得しがたい部分について事実に即して新説を考えるところに意味がある。読者から言えばそこが一番楽しい。

 そういう場面は第一章から登場し、次のような記述に出くわした。

 ■ 八幡塚古墳の調査から約50年後、「埴輪芸能論」という論文が発表された(1971年)。書いたのは水野正好という当時新進の研究者であった。・・水野37歳のときの論文である。■

 多くの批判的見解を持ちながらも、縦横無尽に古代を語る故水野正好の話は面白かった。奈良や大阪でどこかの講座が受講生を集めようと思えば、水野正好を講師にすれば常に満員であったように思う。かく言う私もそういうファンの一人だった。

 今城塚古墳発掘の責任者でもあった水野正好は、■ 人物埴輪群像の意味を「葬られた死せる族長の霊を、新たな族長が墳墓の地で引き継ぐ祭式が埴輪祭式である」■(首長権継承儀礼説)と述べ、その頃は、葬列説(後藤守一ほか)、殯説(和歌森太郎ほか)、顕彰説(大場磐雄ほか)などが提唱されていた。

 で、著者若狭徹は何と考えたか。それは読んでのお楽しみ。非常に内容豊かで納得できる説である。ひとことヒントを言えば、形象埴輪の意味も時代と共に変化したというのは非常に大切な指摘である。

2021年7月7日水曜日

那覇市議選挙

   那覇市議会議員選挙が11日投開票で争われている。古い話で恐縮だが、この時期に沖縄地上戦を振り返ってみておきたい。

 沖縄での地上戦の戦没者は20万人とされ、その内、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、うち94,000人が民間人である。当時の沖縄の人口は約49万人であるから県民の4人に1人以上が死亡した。想像してほしい。自分の身の回りの4人に1人が死んだのである。

 この事実を直視すれば、本来なら日本で一番償われなければならない県、平和な県とすべきところを、歴代政権は、アメリカの太平洋戦略上の位置からこれを事実上治外法権の米軍基地に差し出してきた。新型コロナ肺炎の感染拡大も、出入り自由の米軍基地、そしてGoToキャンペーンの結果であろう。安倍・菅自公政権には沖縄に対する差別感があると私は考えている。

 さて、東京都議会議員選挙が終わった。改選時比でいうと、自民・公明・都ファ・維新で△6。共産・立民が+8というのが大きな流れだと思われる。

 立民安住国対委員長の言葉、「野党の共闘は如実に成果が出た。野党が一つになって固まれば、政権交代が現実味を増した」というのは的を射ている。共産、立民、社民、新社、都民ネットなどが共闘して、立民候補に一本化したところで7人、共産候補に一本化したところで5人が当選した。

 ただ同時に、定数127のうち、共産が19、立民が15という段階であることもリアルに見ておく必要がある。もっと強固な市民と野党の共闘を望みたい。

 評論家みたいな発言で申し訳ないが、目黒区の星見定子氏が6票差で惜敗、北多摩3区、墨田区も惜しい結果になっている。『死んだ子の歳を数える』ではないがあと数十人がSNSでフォローしたり発信したらなどと反省する。この悔いを那覇市議選で繰り返さないようにしたいものだ。皆さんの支援をお願いしたい。

2021年7月6日火曜日

半夏生

   他の記事の都合でアップするのが遅れたが、72日は夏至から数えて11日目で、七十二候の「半夏生(はんげしょう)」であった。この日までに田植えを済ませた上での休息の日とされている。消極的な意味での「休息の日」というよりも、「この日に田畑に入ると田畑が枯れる」的な禁忌(タブー)のある強力な「休息」の日とされている。非常に近い風習に「さなぶり」というのもある。

 わが実父母はどちらかというと商家の出であったから私はこの種の行事とは無縁であったが、妻の方は育った環境がどちらかというと農村に近く、義母などは文字どおり大和の農家(地主)の娘であったので、私が民俗行事の興味から度々尋ねたが「半夏生」も「さなぶり」も「知らない」ということだった。ものの本には「大和に定着している習慣」と書かれているが、定説というものはえてしてこういうものであろう。

 なお、近畿などでは「半夏生」には蛸を食べる習慣があるともいう。「蛸の本足のように稲の根が旺盛に張ってほしいから」と書かれているが、その説は後付けかもしれない。だいたい「麦わら蛸」という言葉があるくらいこの時期は蛸の旬である。

 そんなことで、先人の知恵をリスペクトするわが家では、家庭菜園の野菜の根が張るようにとこじつけながら「半夏生」に蛸をいただいた。モロッコ産の蛸もよいが北海道産の蛸にした。何も書かれていないが「水だこ」のようで、まるで生のような感触がある。イクジイで来ていた凜ちゃんもパクパクと蛸を食べた。

 昔は、夏の胡瓜料理といえば「うざく」が定番であったが、鰻が高騰してからは「胡瓜もみ」にするのは惜しくなった。味でいうとアナゴのザクザクも全く遜色はない。さらには美味しそうな「鱧の皮」もイチオシだ。よい「鱧の皮」の「胡瓜もみ」は上品である。そして、時々は蛸がそれに代わる。「たこきゅう」は夏の食卓の立派なバイプレーヤーとなっている。胡瓜をザクザク食べると夏の毒素が体から抜けていく感じがする。

2021年7月5日月曜日

継続は力

   どんな格言でもそうであるが物事にはいろんな側面がある。「継続は力」という言葉も、創意工夫をネグレクトする根性で使うとなると真逆になるが、真正面から受け止めれば真理だと私は思う。

 原水爆禁止国民平和行進。コロナ下でソーシャルディスタンスをとってサイレントでという困難な制約だが、かろうじてその一端を担わせていただいた。

   砂粒にも満たない貢献だが、だいたいが運動の原点というものはそういうものであろう。重ねて言うが、効果的な運動の模索を否定するものではない。しかし、やはり愚直に継続する力は尊いと私は思う。

 コロナも怖いが熱中症も怖い。高齢者は短時間の参加でよい。それが尊い。

2021年7月4日日曜日

デルタ

   コロナの変異株であるところのインド株のことをWHOがデルタ株というようになった。スペイン風邪ではないが特定の国名をつけると誤解や差別を生むのでインド株というのを止めたのかと思った(基本的に間違いではない)。

 もしそうなら、それにしてもインド半島の形(三角形)の渾名(あだな)に換えただけでなんとなく姑息だと思ったが、実はそれは誤解で、デルタというのはそうではなく、ギリシャ文字の第4文字(アルファ、ベータ、ガンマ、デルタのデルタ)で、イギリス株などから4番目に特定されたという意味らしい(納得)。

 アルファベットやキリル文字など現在使われている多くの表音文字の元はギリシャ文字に由来しているらしいが、そのさらに元はフェニキア文字といわれている。紀元前11世紀頃、地中海世界、現在のレバノンあたりにいたフェニキア商人の創造だといわれている。その第4文字(アルファベットでいうとD)が『ダレト』で大文字が三角形である。

 先日来、ウラルアルタイ語やユーラシア、シルクロードのことを書いてきたが、フェニキア文字由来の表音文字は、東に伝搬してソグド文字、ウイグル文字、モンゴル文字、満州文字にまでなったというと感慨深い。ただ満州と目と鼻の先の日本には伝搬せず、日本は漢字の上にひらがなカタカナをつくって訓読みを発展させた。日本はユーラシアの諸民族の文字から見ても孤児であるし、中華の漢字文化の文法から見ても孤児である。面白い、面白い。

2021年7月3日土曜日

電気トンボのパトロール

   私が少年時代を過ごした堺の旧市はその頃から町割りが碁盤目状の都会であり、私の小学校区には水田などなかった。それでもいわゆる「戦後」のその当時は、日本国全体が自然のままだったのだろう。夏には、街の十字路に赤とんぼが何時も群れて飛んでいたし、ヤンマ(オニヤンマ、ギンヤンマ)は街の十字路から十字路まで、ちょうど町や丁をわきまえたように道路上をパトロールしていた。思い出すだけで懐かしい。

   今現在私は、そういう少年時代とは比べ物にならないくらい自然にあふれた街に住んでいる。早い話が田舎である。にもかかわらず、トンボを見かけるのはぐんと減っている。街中が「清潔」になり、蚊などが減ったせいだろうか。ヤゴが育つような川や池が減ったのだろうか。

   そんな中、先日からわが家に「麦わら蜻蛉」が定時にやってくるようになった。麦わら蜻蛉とはシオカラトンボの♀である。

 そこは狭い狭い庭である。それでも数メートルの楕円形の平地があって周りに木が茂っている。その空間を丸く丸くパトロールに廻ってくれる。それがガラス戸越しに観察できる。

   コロナの話題や政治の腐敗など不愉快な情報で気が塞ぐ日々だが、この麦わら蜻蛉のパトロールを見ているだけで心はふーッと明るくなる。いつまでこのシーンが繰り返され続くだろうか。

   ところで、ようやく写真を撮って驚いた。麦わら蜻蛉とばかり思っていたが写真で確認するとそれは電気トンボ、正式名はコシアキトンボだった。とすると・・・と去年の7月の記事を探してみると、2020年7月9日に電気トンボがやって来た記事を書いている。もしかして去年のトンボの子どもかと‥なんて思うと一層可愛いい。

 最後の写真は妻がスマホで撮ったもの。結局これが一番美しい。

2021年7月2日金曜日

政教一体

   政教一致というとイスラム原理主義の国を思うが、そういう国では権威ある聖職者の意見によって政治・制度が決定されている。その結果、女性に参政権がなかったり、女性が自動車の運転やサッカーの観戦をしただけで罰せられたりしている国もある。

 戦前の日本では、戦死したら靖国神社で神になるからと、父や夫が浄土に行くとか天国に行くと声に出すと、つまり基本的に仏教徒やキリスト教徒は非国民だとされた。

 このように政教一致というか、政教混淆、政教混濁は民主主義や人権尊重と対立するが、都議会議員選挙まっただ中で、写真のとおり、公明新聞と聖教新聞がウリ二つの紙面で一体化、混淆、混濁しているのが明らかになっている。

 昔、創価学会を批判した本の出版妨害事件があったが、著者の藤原弘達氏が亡くなった夜、夜中じゅう「おめでとうございます」という電話が続いたと充子夫人が語り、警察が子供に警備をつけなければならないほど脅迫が相次いだとも語っている。ずばり、このように両者は、仏教の一宗派と誤解をすると大間違いだろう。

 なお、写真の二つの新聞記事は、今でも両者がウリ二つであるという異常さと共に、その候補者の写真の異様さも際立っている。

 この異様さについては622日の『変顔の信仰』という記事で触れたところだが、両紙に一貫して掲載されている『変顔』は信仰によるもので「この選挙で死に物狂いに活動しないなら地獄に落ちるぞ」と信者を「恐れ従わせよう」としているものである。創価学会の教科書では『獅子吼』というらしい。

 公明党・創価学会は東京へ大動員をかけて都議選を取り組んでいるが、こんな非常識というか異様な政教一致政党には、「知り合いから頼まれたから・・」などと言うことで「お付き合い」をすると大変なことになる。

2021年7月1日木曜日

くちなしの花

   散歩道にクチナシが咲き始めた。沈丁花、金木犀と並んで三大香木と呼ばれたりするが、そういう定義どおり芳い香りを放っている。

 以前には庭に植えていたこともあったが、巨大な芋虫(青虫)が付くので捨ててしまった。その巨大な芋虫は、あの私の大好きなオオスカシバの幼虫なのだが、心の狭い私は、クチナシを丸坊主にしてしまうこの幼虫と、毎年そういう風に食い荒らされるクチナシを嫌になってしまった。

 花そのものの話になると、〽くちなしの花 のように美しく感じるのはほんのひと時で、木としては順に花が咲くのだが、一つの花でいうと、柔らかく綺麗な白色は直ぐに茶色く腐ったようになる。で、散歩道で香りを嗅いだりして楽しむのが一番だろう。

 〽くちなしの花 は、1973年というから、大ナツメロである。というか私が歌える歌はナツメロばかりで、近頃の歌はいくら聞いても歌詞が分からない。こういうのを歳と言うのだろうか。

 老人ホームのボランティアで思うのは、音楽療法などのスタッフがやたら童謡などを歌わそうとすることである。人間は歳はいっても「自分は枯れはてた」などとは思わないと思う。もっと恋の歌を歌う方がよい。