2013年2月23日土曜日

続 戌亥の隅にどっさりこ考

 2月15日に「戌亥の隅にどっさりこ考」で陰陽道の神門の思想に由来がありそうだと書いたが、何か中途半端な感情が残ったので国立国会図書館関西館や各地の図書館に数日遊んだ。
四天王寺のいぬゐのやしろ

 すると、民俗学者柳田國男の「風位考資料」の中に、「元来、支那から輸入せられた方位説では、艮を鬼門として居る為に、書物の上では此方角の避くべきことを説きながら、我々の実際の生活では、乾を恐れて来た。 これも長い歴史をもった事柄で、屋敷の中でも乾の隅が怖い為に今でも鎮守を祀ったり、榎を植えたりなどしてゐる。 ・・・・・大体西北が日本に於ては一番恐るべき方角だったのである。 これを支那風に言へば鬼門といふことになるが、此方角の恐るべきものとの理由は、鬼が住む、害敵が住む処と言ふのではなかったろうと思はれる。 十万億土と言って西方を指す以前に、兎に角霊魂の帰り行く方角を西北と考へて居たのである。」とあった。

 そして、その弟子筋にあたる三谷榮一の「日本文学に於ける戌亥の隅の信仰」や「古事記神話の構成と本質:戌亥隅の信仰に関連して」という分厚な著作に辿り着いた。
 その分厚な内容を誤解を恐れず要約すれば・・・・、
 記紀の時代から、大和の朝廷にとって西北の出雲は「根の国」「食国(おすくに)」、つまり穀霊の居ます地、祖霊神の来向される方角と認識されてきた
  その思想は、その上に特別の名前を冠されてその害を怖れられ、その恵みを期待された、西北からの風、雨、「神ナリ」の素朴な信仰とあいまって、朝廷祭祀、出雲国造神賀詞、風土記、三代実録、宇津保物語、源氏物語、今昔物語、宇治拾遺物語、平家物語、お伽草紙、日本永代蔵まで脈々と繋がり、宴曲、謡曲、中世歌謡、説教、俳諧、山伏神楽、花祭等々にも広がった。
 つまり、戌亥(西北)の隅は、朝廷から各家まで、最も神聖な場所であり福徳や祝福がもたらされる尊い方角、神のいます場所という、祖先人の並々ならぬ深い信仰があった。・・・・と、詳細に論述されていた。

 実際には、その思想が陰陽道の「神門の思想」と習合して「発展」したのだろう。
 この陰陽道で盛んになった「神門」とは、道教の教える太白星=金星=大将軍の方角であり、平城宮の西北の秋篠の八所御霊神社の大将軍社、難波宮西北の明神池・大阪天満宮の大将軍社、平安宮西北の大将軍八神社の存在が示すように、非常に重視された方角の信仰であった。(当時の公家の生活は方違(カタタガエ)と物忌みに明け暮れていたと言って良いほどに重視されていた。)
 蛇足ながら、なぜ陰陽道=道教は西北に大将軍を求めたか。ズバリそこが隋唐の都長安にとってシルクロードの出入口であることを想像すれば思考の必要もない。

 また、柳田國男の限界をもっと遡れば、福永光司が「記紀神話は道教の思想で書かれた」と喝破したように、皇極天皇が行ない、その後記録の残っている平安の宮廷祭祀では特別に重要な祭祀のひとつであった「四方拝」(これ自身が100%道教の祭祀)では、古くは北に向いて天(皇天上帝)を拝み、西北(戌亥)に向いて地(国土神・地祇)を拝みそののち四方と皇祖の山陵を再拝したものであった。(内裏儀式)(江家次第)
 
 約めて言えば、それは隋唐時代に再編・集大成されたアジアの思想であり、大和の朝廷が抱いた前政権ともいえる出雲勢力への特別な意識であり、この列島では多く西北方向から変化し到来する雨、風、雷に対する素朴な畏怖と期待が習合した信仰、故に、祖霊や国土神の来訪若しくは帰去する、そして福徳をもたらす神聖な方角という信仰ではあるまいか。とまで言うと、誇大妄想と人は笑うだろうか。
 
 こうして、妻が「戌亥の方角は蔵を建てる大事な方角で清浄に保つべき方角」と思い込んできたことも、私が『節分の豆撒きの最後に「戌亥の隅にどっさりこ」と叫んでガシャンと戸を閉める』と伝え聞いてきたことも、なかなかどうして厚い厚い歴史の積み重ねに裏打ちされていたのだと我ながら感心して何となく喜んでいる。

 方角に吉凶があるというのも不合理な迷信だし、現代そのまま再現すれば差別や倫理の逸脱と思われる儀礼等もあるにはあるが、巷間「自国の文化を語ることのできない人間に国際的な交流はできない」と言われることなどに注目すれば、各種習俗に引き継がれてきた前時代の歴史全般を陳腐なものと考えるのも如何なものだろう。そういう接点に「しきたり」や「ならわし」があるのではなかろうか。
 世の中を見ていると、商業主義に支えられた形式主義やつまらぬ占いが濃厚にはびこる一方、千数百年の歴史つまり先人の生活力や思考の積み重ねが顧みられずに、いま次々と消滅していっているというそういう『歴史の瞬間』に立ち会っているような気がしてならない。

 と、偉そうなことを言えたものでなく、実は亡母は出雲大社の大黒様の信仰を持っていたが、私はそういうリアルな信仰が嫌で近寄らずにきた。そして今頃、豆撒きの掛け声の奥底に、大和の朝廷に抗い屈した遠い出雲の声を聞いて驚いているありさまである。
 「ただの豆撒きの掛声からそこまで言うか」とお笑いください。
 写真は四天王寺の乾社(いぬゐのやしろ)=現大江神社。愛染さんの隣。となると、実は思想史的にはすごい神社だったのでは・・・・。

2 件のコメント:

  1. そんな畏れ多い神社とは!実はタイガース党の隠れ聖地なのです。境内には「狛犬」ならぬ「狛虎」があり、誰云うとなく「優勝祈願所」になっています。お守りの「狛虎」、今はタンスの奥底に眠っています。今年こそ!

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  2.  そう言えば「狛虎」ですね。
     信貴山朝護孫子寺や狸谷山不動院にも大きな「阪神虎」がありますね。
     あれを見るたびに「ここの神仏は神通力というかご利益がないねんな」と笑ってしまいます。

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