1 明日香は基本的に蘇我氏の土地であった(配下の東漢氏を含む)。故に大王(天皇)といえども他人の土地に墓は造れなかった。
2 藤原京築造のデザインの時代以降は中国の思想に学んで、京内に墓は造れなかった。
3 終末期の大王(天皇)陵は、主に河内の磯長等であった。
4 明日香には、一時、舒明や推古の陵が築造されたが、蘇我入鹿は後に明日香の外へ改葬した。
5 天武は東漢氏を強く叱責したが、後に東漢氏を率先して連にした。この過程で東漢氏の土地である明日香の檜隈が天武に献上されたと考えられる。以降、明日香(檜隈)に天皇陵の土地が寄贈された。例天武・持統合葬墓。
7 五条野にある植山古墳は、後に河内の磯長の山田陵に改葬された推古・竹田皇子の陵である。
8 高松塚古墳は、天武の皇子(四男)の忍壁皇子の陵である。
9 キトラ古墳は、弓削皇子(九男?)の陵である。
10 中尾山古墳は、草壁の子の文武天皇陵である。
11 伝文武陵は、近江朝大友皇子(天皇)の子であるが、草壁皇子擁立に功績のあった葛野王の陵である。
12 マルコ山古墳は、天武の子の河島皇子の陵である。
13 束明神は、天武の第二子で持統との間に生まれた草壁皇子の陵である。
14 天武の長子の高市皇子の母は地方豪族の出自であるからとりあえず陵の論外となる。
15 大津皇子は、持統の姉の大田皇女と天武の子であるが、謀反との事件で死を賜り二上山に葬られた。
以上の結論がなぜそのように考えられるかについてはブログ容量が足りない。機会があれば個別に書いてみたいが今日はここまで。


丁度1月前の11月15日に「万葉ウオーキングクラブ第10回例会」に誘われて近鉄飛鳥駅を出発して好天の秋の日、半日ウオーキングを楽しみました。50人以上の参加者数で大学の先生の解説もほとんど理解できず、それでも欽明天皇量から天武、持統合葬陵、亀石、川原寺跡、飛鳥京、伝板葺宮跡、万葉文化館まで歩きました。主に万葉集の歌、日本書紀を題材に解説が有ったと思いますがほとんどわかりませんでした。でも小春日和で気持ち良かったです。
返信削除欽明天皇陵でした。一言訂正。
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