2025年8月8日金曜日

長屋王の祟り

    冤罪事件やそれの国賠訴訟のニュースが少なくない昨今だが・・・、724年(神亀元)首皇太子は天皇に即位した。聖武天皇である。
 727年(神亀4)夫人の光明子が皇子を出産。2か月を待たず皇太子に立てられたが、728年(神亀5)幼い皇太子は亡くなった。
 そうした翌729年(神亀6)長屋王が皇太子?を呪詛したと密告があり、藤原4兄弟追及の下、長屋王、妻の吉備内親王、4人の息子たち(膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王)は自殺した。
 この事件は長屋王の変と呼ばれたりするが、藤原兄弟の陰謀であったとするのが定説である。

 平城京の発掘調査で長屋王邸が見つかった際、貴重な木簡等が大量に発見されたので遺跡保存の声が大きく燃え上がったが実現せず、そこには「そごう」が建てられた。
 が、「そごう」は後に撤退し、後を継いだ「イトーヨーカドー」も撤退し、奈良スズメはいろんな場で「長屋王の祟り」だと言いあった。

    この悲劇の主人公、長屋王と吉備内親王の墓が奈良県の平群町にあるので、過日見学してきた。
 表向きは謀反人・犯罪者の墓であるから「御陵」とは程遠いが、予想以上に清美されたものだった。陰謀による弾圧であっただけに「怨霊」を鎮めておきたいという気持ちが天皇側にあったのかもしれない。
 後に聖武天皇は平城京からの遷都を繰り返すが、そこには長屋王の怨霊から逃げたいという感情があったのではないかしらん。

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