2025年3月9日日曜日

富雄丸山古墳を臨む

    わが家から電動アシスト自転車でならサイクリングに行ける近さに五社神(ごさし)古墳がある。宮内庁によって仲哀天皇の皇后である神功皇后陵に治定(じじょう)されている。
 日本書紀は異例のことに巻第九を神功皇后だけに充てている。いうならば天皇扱いしている。
 倭の五王の時代、百舌鳥・古市の巨大古墳時代のシンボル的な天皇である応神天皇のその母である。
 ところが戦前の「神功皇后による三韓征伐」なる軍国神話の反省によるものか、「神功皇后は実在しなかった」「推古天皇をモデルにした伝説である」「斉明天皇の九州での急死と草壁皇子がモデルである」との説が現代の学会の主流というか大勢を占めている。
 だが、潤色が濃いことと「実在しなかった」こととは全く異なるのではないか。
 日本書紀の応神天皇は認めるが、その母である神功皇后の記述は全てが「架空の物語」である・・・だろうか。
 神功皇后が各地の風土記にも登場している事実もある。
 神功皇后の母は豪族葛城氏の出身である。葛城氏に想定されている大古墳も大和南部に少なくない。
 その神功皇后が武内宿祢とともに、先に急死した仲哀天皇と大中姫との間に生まれていた皇子である麛坂皇子(かごさか王)忍熊皇子(おしくま王)と対決し、麛坂皇子は戦の前に死亡、忍熊皇子は戦で亡くなったと記紀には記されている。4世紀末葉のことになる。
 それらのことから、4世紀末葉に、最有力な次期天皇候補でありながら、神功・応神に反旗を翻し戦になる以前に死亡した麛坂皇子とその皇后こそ、前方後円墳を許されなかった富雄丸山古墳の被葬者その人ではないだろうか。
 先日、粉雪の舞う寒い日に富雄丸山古墳を見ながらそんなことなどを思い浮かべてきた。
 ただ、造出しの埋葬施設とはいえ、皇后の埋葬に超巨大な剣と盾というのはなぜだろうか。多分に装飾的ではあるが。
 記紀には、難波宮などで天皇の宮の玄関に大きな剣と大きな盾を立てたという記述があるが、だとすると、富雄丸山古墳を築造した一族は、「本来の天皇の宮」あるいは「黄泉の国での天皇の宮」と言いたかったのかもしれない。謎はまだまだ尽きない。
 以上の論旨は、小笠原好彦先生の講義を踏まえて記述している。

2025年3月8日土曜日

人面墨書土器

    鬼は外、厄は外! ・・節分はとうに過ぎたが大声でそう叫びたいニュースが多い。

 先日は佐紀池ノ尻古墳のことを書いたが、その発掘調査を担当した奈良市埋蔵文化財調査センターの展示室には、平城京で出土した『人面墨守土器』が展示されている。写真撮影可なので撮影してきた。

 奈良時代には、土器に墨で人の顔を描き、何かのまじないをおこなってから川などに流すという風習があったといわれている。
 このときに用いた土器が「人面墨書(じんめんぼくしょ)土器」と呼ばれていて、元々は煮炊き用に使われていた土師器(はじき)の甕(かめ)が多い。
 奈良文化財研究所のレポートなどでは、「ところが、ここでひとつの疑問が生じてくる。人面墨書土器にはいったい誰の顔が描かれているのでしょうか」として、「中には目をつり上げた恐ろしげな顔を描いたものもある。一説によれば、それは疫病神(やくびょうがみ)や鬼神であると考えられる。奈良時代には、しばしば天然痘などの疫病が流行し、人々を苦しめましたが、それは疫病神や鬼神がもたらす病気と考えられていた。人面墨書土器はそうした迷惑な神々を追い払うまつり・まじないに使われたと考えられている」とある。 
 奈良時代の京(みやこ)平城京では、道路の側溝や運河の跡などから人面墨書土器が数多く出土する。疫病の流行をしずめるために、土器に疫病神や鬼神の顔を描き、それを水に流すことで、京から疫病神や鬼神を追い出すまつりがおこなわれただろう。

 そういえば近頃、太平洋の向こうあたりに描いて流してしまいたい顔がある。
 「関税はアメリカを豊かにする」とか何とか、恐ろしい独りよがりと分断と悪態。それに熱狂する信者・・・。
 あまりの無茶さ加減に開いた口が塞がらないが、みんなで甕に決意の息を吹き込めて、流すか埋め込むかしてみたい。人面墨書土器を使った疫病よけのまつりは、京の外でも広くおこなわれていたというから・・・・・

2025年3月7日金曜日

住民の要求

    先日、地元の共産党の町会議員の懇談会に参加した。
 いろんな話題に花が咲いたが、一番盛り上がったのは私が提起した「ゴミの戸別収集の実現」だった。
 私は、理想論でいえば現状のゴミステーション方式は悪くないが、街全体が高齢化していっている現実では、ゴミステーションの数が限られており、つまりは遠くまで出しに行かなければならない人もいて、高齢でかつ足の悪い人、急峻な階段を通らなければならない人など、住民の努力の限界を超えているのではないかと提起した。
 全員近くが、現実に自分が困っている実情、困っておられる方の実情に問題意識を持っておられた。
 主催者側の方々も、これほど話が盛り上がるとは予想外だったのではなかったか。
 
 その外の話題では、わが町を地図で見るとH駅が中心になるが、我々の区域は町の端っこで、二つ隣の自治体のT駅やT駅周辺の商業施設などが生活圏になっているので、「町の中心H駅」というなんとない「常識」みたいな町の都市計画とのズレもいろいろと具体的な要求として出されながら話になった。
 で結局、まだまだ語り合いたいという顔、顔、顔を残して散会になったのだが、主催者側に、懇談会の企画段階で住民要求のマグマを過小評価というか、読み間違っていたのではないだろうかと思われた。時間が足りない。
 ただ感想としては大いに値打ちのある懇談会だった。

 たしかに、世の中ともすれば閉塞感に覆われている感じもするが、「答と出口は現場にある」と再確認した次第。

2025年3月6日木曜日

ミサイルを描くつもり?

    テレビでマンホールカードなるものが報道されていた。
 各自治体が作ったユニークなデザインのマンホールの蓋を撮影するという趣味のことは知っていたが、マンホールカードというのは初めて知った。各自治体が作っている。私の趣味ではないが面白いものだ。
 隣の木津川市の旧木津町のは木津川の上荷舟(うわにぶね)で美しい。

 別にこんなところにお金をかける必要もないが、とりあえず精華町も作るとすればどんなデザイン?・・あまりこれといった特徴が思い浮かばない。
 で「何がいい?」と妻に尋ねたら「弾薬庫しかないな」と即答した。
 京阪奈学術研究都市に隣接する弾薬庫。
 後世の史家に嘲笑される話題提供のためには「それもいいか」。

冗談はそれぐらいにして、政府はこの「祝園(ほうその)弾薬庫」を増強することを決定した。
そのことについて、共産党の山添拓議員が参院外交防衛委員会で、■ 自衛隊祝園弾薬庫は、1960年に米軍から自衛隊に移管された際、当時の防衛庁・自衛隊と分屯地が所在する精華町との間で、「貯蔵施設の拡張はしない」など23項目の「確認書」を交わしている・・と追及したところ、木原稔防衛相は「要望と回答を確認したもので、契約的な意味を持つものでなく、必ずしも事前協議は必要ない」などと拒否。言語道断。

 住民が必死につくらせた確認書を簡単に反故(ほご)にして、まともな説明もなく危険な弾薬庫の増設に走ることは許されない。

2025年3月5日水曜日

抹殺された佐紀池ノ尻古墳

    私の住居表示は京都だが、文化圏でいえば奈良文化圏となる。ヨーロッパでいえば、例えばフィンランド人だがスエ―デン語(文化)の地域があったり、現在はややこしいことだがウクライナ東部でロシア語(文化)が現実にあるのに似ている。
 その奈良の北部では近ごろ古墳時代の新発見が続いていて、私のような素人も頭の中が忙しい。
 
 今般奈良市埋蔵文化財調査センターが発表し新聞等でも報道されたのは「平城宮跡の北の端に全長約200mの巨大前方後円墳が見つかった」「平城京造営の際にきれいにつぶされた」という。(仮称:佐紀池ノ尻古墳)(写真のコナベ古墳の下(南))
    場所は、伝天皇陵古墳を含む佐紀盾列古墳群の一角。大きさは天皇陵古墳と言っても遜色がない大きさ。
 平城京造営の際、中小規模の古墳がいくつも壊されたのは知られているが、平城京造営の主導者藤原不比等が、どうしてこんな巨大前方後円墳を壊せと命じたかが不思議である。
 佐紀盾列古墳群には天皇家や皇族の墓と称されている古墳もある中で、不比等はいかなる確信をもってこの古墳の抹殺を命じたのか。反対に言えば、不比等はこの古墳を誰の墓だと認識していたのだろうか。

 天皇陵ではないとしたら、ここの古墳群を作った豪族は誰か。和邇氏?春日氏?あるいは葛城氏?
 今もこの一角には葛木神社があるし、五社神古墳は葛城出身の神功皇后陵と伝えられている。
 また、話は富雄丸山古墳に繋がるが、麛坂皇子(かごさか王)忍熊皇子(おしくま王)を輩出した反逆者の地との認識などもあったか?
 次の写真はコナベ古墳。ここの南にあったが、今は住宅地になっている。

2025年3月4日火曜日

おお ひばり

    国松俊英氏の著書には「関東平野でヒバリが鳴きだすのは3月1日ぐらい」とあるが、ピッタリ3月2日にわが家近くでも鳴き始めた。
 何もかもが「東京標準」に誘導されている昨今、😡ヒバリよ、お前もか!と言うべきか・・・
 乱視のせいでもないだろうが、大音量で鳴いているのに目視できない。で、代わりに庭のカワラヒワの写真で勘弁していただこう。
 『ヒバリが空高く上がると晴天』と同じ著書にあるが、3月2日の天気は小雨に近い曇天。よって、この「ことわざ」の真偽は保留にしておく。

 ヒバリは、天の恵み 地の栄えを讃えて歌っている。


2025年3月3日月曜日

旧暦の絵暦

    空を見上げれば新月(朔)が1日、満月が15日(十五夜)だから、暦(カレンダー)が読めなくても旧暦はその限りでは便利だった。
 
 あとは閏月を知る必要があったが、そのためには絵暦(めくら暦)があり、大刀、小刀で大の月、小の月。人間の股で また→閏月。さらには、半裸の男が涼んでいて土用は年に4回だが典型的な夏の土用の入り。荷を奪う盗賊→荷奪い→入梅。禿げ頭で 禿げ生ず→半夏生となると、読み解くのも難しい。

 長沢工著『はい こちら国立天文台』では、原則として公的には存在しない明治5年改暦以後の旧暦(の換算)についての質問には答えないとあった。(市販の私的な出版物ではこう書かれているという扱い)
 ただし、在日韓国人は自分の誕生日を太陰太陽暦で記憶しているので換算をして回答したという。

 これに関係するともう一つ元号の問題がある。
 その著者は例えばこれまで「1968年十勝沖地震」などとしていたが、政府の指示で「昭和57年浦河沖地震」「平成6年北海道東方沖地震」というように変わっことを「科学の世界に無用なものを持ち込んだ」と批判している。科学的には途切れない年月が良いに決まっている。
 未来になって、今の私が例えば「天平13年、行基、狭山池というのは西暦なら何年?」と迷うように、「平成と令和はどっちが古い?」と迷う未来人も出てくるだろう。(AIが解決するとしても)

    元に戻って「絵文字」だが、これは暦だけでなく絵文字の「お経」なども実際に存在した。下の写真は「摩訶般若波羅蜜多心経」と読む。
 上の写真の暦の左下の、三重塔+琴柱(じ)で「冬至」のような「絵文字の暗号文」はみんな小学生のころよく作ったのではなかろうか。
 この文化の上に各種メールの「絵文字」が日本で発明され、今や世界標準になっているのはナルホドだ。
 ピクトグラムも含めるとすれば、絵文字こそ世界言語にならないだろうか。(しかし釜をひっくり返して魔訶というのは無理だろうね)

2025年3月2日日曜日

水に流す

    3月3日はひな祭り。由来は上巳の節句で、災いを人形(ひとがた)に移して水に流し去る素朴な行事。
 昨日は「陰陽道は平安時代」と書いたが、そもそもは中国の道教で、古墳時代からすでにこの地にも伝播していた。
 飛鳥が世界歴史遺産登録に向けて推薦されているが、飛鳥の石の遺跡は言い換えれば水の文化。
 それらのことごとを「古臭い迷信」と捨て去ると面白くない。
 コロナパンデミックを経験して思うのだが、村の出入り口に勧請縄や道祖神を設置するのは「人的交流の抑制」だろうし、水の祭祀は「手洗い励行」だったかもしれない。
 疫病の大感染は重大な脅威だっただろう。
 写真は平城京出土の人形で、いうならば「流しびな」のルーツのひとつ。

    もう「流しびな」に適する小川などはないから、庭のバードバスに浮かべることにした。
 災いは鳥が「根の国」あたりに運び去ってくれるだろう。

2025年3月1日土曜日

南都陰陽師

    奈良市で以前から気になっていたことの一つは、奈良町の「からくりおもちゃ館」の隣に鎮宅霊符神社があり、そのあたりの地名が「陰陽町」であることだった。
 奈良は古い都であるから当たり前のようにも見えるが、陰陽道(おんみょうどう)は平安期、つまりは京の都で発達したものだから、それがどのように古都(南都)に及んだのか、勉強不足のまま放っておいていた。

 さて、奈良市高畑にある奈良労働基準監督署などと道路を挟んで西側は紀寺という地名であるが、そこにバス停「幸(さいわい)町」がある。(幸町という地名は奈良市にはない)
 先日そのあたりにお住いの先生からそのいわれを聞いたところ、そのあたり(の一部)は、旧町名が幸町であるだけでなく、現代でも普通に幸町と呼ばれているらしい。まるでタイムスリップしたアンダーグラウンドだ。

 そもそも陰陽道・陰陽師のヒーローは安倍晴明だが、その師は賀茂忠行で、安倍晴明の家系は後に土御門家として隆盛を誇ったが、賀茂家の方は少し後方に下がり、その庶流の「幸徳井家」は南都にて南都陰陽師となった。
 そのため、その居所が「幸徳井町」と呼ばれ、その後、その簡素化された町名が幸町となって残っていたということだ。(今は紀寺という町名に吸収された)
 冒頭に言った陰陽町(いんようちょう)はそこから少し西に行った場所になる。
 そういえば、その近くで、中世の庶民信仰の遺物が豊富に残されている元興寺にも、道教・陰陽道の護符等の遺物が多いから、ナルホドと理解が進んだ。
 蛇足ながら、賀茂家の祖先は吉備真備と伝えられている。
 南都図絵にも吉備塚の前で祈る(南都)陰陽師が描かれている。
 それにしても奈良は面白い。古代や中世があちらこちらに顔を出している。