私の住居表示は京都だが、文化圏でいえば奈良文化圏となる。ヨーロッパでいえば、例えばフィンランド人だがスエ―デン語(文化)の地域があったり、現在はややこしいことだがウクライナ東部でロシア語(文化)が現実にあるのに似ている。
その奈良の北部では近ごろ古墳時代の新発見が続いていて、私のような素人も頭の中が忙しい。
今般奈良市埋蔵文化財調査センターが発表し新聞等でも報道されたのは「平城宮跡の北の端に全長約200mの巨大前方後円墳が見つかった」「平城京造営の際にきれいにつぶされた」という。(仮称:佐紀池ノ尻古墳)(写真のコナベ古墳の下(南))
平城京造営の際、中小規模の古墳がいくつも壊されたのは知られているが、平城京造営の主導者藤原不比等が、どうしてこんな巨大前方後円墳を壊せと命じたかが不思議である。
佐紀盾列古墳群には天皇家や皇族の墓と称されている古墳もある中で、不比等はいかなる確信をもってこの古墳の抹殺を命じたのか。反対に言えば、不比等はこの古墳を誰の墓だと認識していたのだろうか。
天皇陵ではないとしたら、ここの古墳群を作った豪族は誰か。和邇氏?春日氏?あるいは葛城氏?
今もこの一角には葛木神社があるし、五社神古墳は葛城出身の神功皇后陵と伝えられている。
また、話は富雄丸山古墳に繋がるが、麛坂皇子(かごさか王)忍熊皇子(おしくま王)を輩出した反逆者の地との認識などもあったか?
次の写真はコナベ古墳。ここの南にあったが、今は住宅地になっている。
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