2024年7月2日火曜日

八角形の思想

   6月12日の『謎の八角堂』の続きである。(写真は大阪歴史博物館の復元展示)
 (スマホなどの場合、一番下の「ウエブバージョンを表示」にして、その下の「前の投稿」をタッチすると幾らでも以前の古い記事が読める) 

 記紀によると、舒明天皇のあと即位したのが皇后宝皇女(皇極天皇)で、皇極天皇の下で、中大兄皇子と中臣の鎌子が蘇我蝦夷、入鹿親子を葬った皇極3年(645年)6月の乙巳の変(俗にいう大化の改新)というクーデターを起こした。(次の写真は遺跡上の藤棚で、八角堂の柱に基づいている)
 
   クーデターの翌日、皇極天皇は譲位の意思を発表し、中大兄皇子(後の天智天皇)は一旦身をひそめ、皇極天皇の同母弟が即位した。孝徳天皇である。
 この孝徳天皇が、日本で初めて天皇の住居を宮とするのを取りやめ、中国に倣って日本で初めての首都を大阪に築いたのが、難波長柄豊碕宮で、現在法円坂に史跡公園とされているいわゆる前期難波宮である。白雉3年(652年)。
 しかし翌年には孝徳天皇と中大兄皇子が対立し、先帝皇極、中大兄、皇后である先帝の妹間人皇后など群臣が飛鳥に戻ってしまい、一人残された孝徳は翌654年に憤死した。
 こうして、絶大な力を持っていた皇極が重祚して斉明天皇となった。
 元天皇であり、中大兄の母であり先帝の皇后の母である斉明天皇は、後に「狂心(たぶれごころ)」と記録される大工事を次々と行い、多武峰に道教の楼観と考えられる両槻宮を造ったり、水の祭祀場と考えられる亀型石造物などなどを造った。飛鳥の謎の石造物なども斉明の工事によるものかもしれない。
 そして百済の滅亡を受けて朝鮮半島へ出陣する途中、九州で死亡し、遺体は飛鳥に運ばれた。最終的に葬られたのは飛鳥の牽牛子塚古墳で、見事な八角形の古墳である。(3枚目の写真は牽牛子塚古墳)


   戦前の軍国主義の中心的なスローガンに「八紘一宇」というものがあった。全世界をひとつの家とするというもので、八紘とは、四方と四隅でこの世界全部となる。
 八角形古墳はこの時期の天皇に許された王の中の王の古墳にふさわしい。
 いわゆる三種の神器の八咫鏡も八角形の銅鏡と言われているし、天皇即位の重大行事、大嘗祭も八角形の高御座(たかみくら)で行われる。
 大嘗祭の際は、その前方に幡が並ぶが、太陽には三本足の烏、月には蛙が描かれている。つまり、これらは全て古代中国の道教の思想である。

 これ以上続けると「本」になってしまうからこれぐらいで置くが、言いたいことはこの時代に中国の思想、特に道教の思想が日本の朝廷に大きな影響をもたらしたということが言える。
 そこで、前期難波宮の謎の八角堂だが、性格は鼓楼、鐘楼というのが有力であるが、それが八角堂であるのは道教に基づく思想であろう。
 いろんな歴史書を読んでも、古代日本史における道教の思想をあまり本格的に論じているものに出会わないのが不満でこの記事を書いた。

1 件のコメント:

  1.  記事とは関係ないが7月2日、キリギリスが一斉に鳴き始めた。記録のために書いておく。

    返信削除