ただ世襲制でいえば、本家の中国では各地の王や封建領主などは当然のように世襲が当たり前だった。
さて「チベットの歴史」を読んだが、ダライ・ラマについて少し新鮮な印象を受けた。
チベット仏教でもっとも影響力を持つのはダライ・ラマで、現在のダライ・ラマは14世である。
14世であるから、先のダライ・ラマが死去すれば次のダライ・ラマが就任してきたのだが、そこには世襲という概念が入る隙間がなかった。
そもそも仏教の輪廻転生の根本教義に基づくと、先のダライ・ラマは何処かで生まれ変わったのである。
だから、高僧たちが生まれ変わったダライ・ラマ少年を見つけるのである。そしていわば頭脳明晰な候補者を生まれ変わり・転生僧と認めるのであるから、どこかの国の政治家のように家柄だけのバカ息子がダライ・ラマになることはないのである。どこかの国の私にはそれが極めて近代的にも見えた。
政教一致のこういう制度が現代的ではないにしても、各国で為政者が世襲されてきた事実を思えば、これはなかなか実力本位の合理的なシステムであったように思えた。
奇しくもローマ教皇も世襲ではない。
この本の主要テーマはそんなところではなかったが、妙に感心した。
あえて主要テーマをいえば、チベットは歴史的にも文化的にも明らかに漢とは違う独立した民族であり国である。現状は漢である中国が明らかに征服した状態だ。
確かに各国の内政不可侵の原則はあるが、大きな権力による人権侵害は目をつぶっていてよいものではない。
0 件のコメント:
コメントを投稿