この寺は京の都から南都に入る入口にある。
南都の興福寺などは単なる寺院というよりも、僧兵などの兵力も持つ大荘園主というか、後の大名のようなものであったから、都から逃げる者、それを追いかける者がここを通り、その結果度々の戦で数度となく炎に包まれたお寺である。
それゆえ正規の史料はもちろん、平家物語、太平記、宮本武蔵など歴史文学にも登場している。
今はかつての七堂伽藍は想像もできない規模になったが、近年は「花の寺」として復興しつつある。私が最初に訪れた40年ほど前の本堂は隙間風どころか壁の隙間から外部が見えていたが今はそれほどのわびしさはない。否、この季節は咲き誇る秋桜を求めて拝観客が絶えない。
よく鎌倉仏教が庶民の仏教を始めたというような言葉があるが、正確には旧仏教宗派内でも大きな改革の動きがあって、当寺の真言律宗などは北山十八間戸というライ病患者の福祉施設をつくるなど積極的だった。
その伝統かも知れないが、当寺には「平和の塔」も建立されていて、原爆の火が今も灯され、原水禁平和行進などの中継地にもなっている。
古い歴史に安住していない仏教寺院として私は敬服している。
体調がすぐれず外出を控えられている友人たちの快復を祈ってきた。
それは本尊文殊菩薩の管轄外かもしれないが、「そこはよろしく」と・・
文殊菩薩のご真言 オン・アラハシャ・ノウ
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