2017年10月24日火曜日

西宮神社で肩すかし

   退職者会の遠足で西宮神社に行き、若い神職に説明を受けた。
 「三連春日造り」という珍しい本殿に、東に蛭児大神、西に須佐之男大神、中央に天照皇大神と大国主大神がまつられているが、その昔は蛭児大神(えびす大神)が中央であったのがいつの間にか東(第一殿)に移ったという不思議な説明であった。
 そもそも古事記によると水蛭子は伊邪那岐命と伊邪那美命の第一子である。

 古事記に曰く、『ここにその妹伊邪那美命に問ひたまはく、「汝が身は如何か成れる。」ととひたまへば、「吾が身は、成り成りて成り合はざる處一處あり。」と答へたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は、成り成りて成り餘れる處一處あり。故、この吾が身の成り餘れる處をもちて、汝が身の成り合はざる處にさし塞ぎて、國土を生み成さむと以爲ふ。・・「然らば吾と汝とこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはい爲む。」・・約り竟へて廻る時、伊邪那美命、先に「あなにやし、えをとこを。」と言ひ、』・・て生まれた第一子である。その後、国土を生み神々を生んだのである(これはポルノ小説ではなくわが国の誕生譚である)。
 生まれた水蛭子は葦船に入れて流されたが、後に西宮沖で拾われまつられるところとなった。

 あまり権威のある書物ではないが、私の持っている昭和4年に出版された『年中事物考』の「西宮大神」の章には「古く延喜式に大國主西神社と見え、之を俗に夷宮と稱し、・・傳へに依れば、夷宮はもと西神社の配祀であったが、その社が次第に有名になったので、いつの間にか之を主神として専ら夷宮と申すに到ったといふ」から、この時点(昭和初期)では天照皇大神は出ていない。
 故に想像だが、紀元2600年(昭和15年)頃の皇国史観絶頂期に蛭児大神は東に移され、中央に天照皇大神がまつられたのではないだろうか。
 つまり我々は、由緒ある神社に向かって古い歴史を見ているようで、実は一緒に近代史を見ていることになる。
 (余談になるが、神殿の左の2本の柱の色が微妙に異なっているのは阪神淡路大震災の補修であるから、そこは現代史ということになる)。

 次いで私のブログでも何回も書いてきたことだが、十日戎の際は神社の後ろに廻ってドンドンドンと叩いて名前を言って願いごとをするのが私などの常識なのだが、「えびす宮の総本社を称する西宮神社では何故そうなっていないのか」と尋ねたところ、若い神職は「つい最近、そういう参り方があることを知ったばかりです」と見事な肩すかしだった。

 昔は、医者をはじめ人の不幸に対応する仕事の人は「商売繁盛」を遠慮しなければならないから十日戎には参らないという人も多かったが、関西に住んでいて十日戎に参らずに上方文化を語ることはできなくないかと私は思うのだが、遠足参加者の多数は「参らない」というので少々驚いた。

 伝承されてきた文化を捨て去って未来社会を語っても魅力が半減するように私などは思うのだがどうだろう。

    神無月神代に潜む近代史

1 件のコメント:

  1.  「現代人が神社なんて」と見向きもされない方もおられるだろうが、こういう場所には歴史つまり先人たちの生活が凝縮されていることが多い。そして本文に書いたとおり古い歴史だけでなくそこには近代史も投影されている。興味から知識は広がるような気がする。なぜ西宮にはドンドンドンがないのだろう。ドンドンドンというお参りの仕方を始めたのはいつの時代の誰だろう。宿題はだんだん多くなる。

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