2014年2月28日金曜日

鴉(カラス)

奈良公園のハシボソカラス
  2月21日の「別世界からの使い」に、「芸術家がどうしてカラスなどに注目したのだろう」という感想を書いた。
 そんなこともあったので、奈良公園で少しじっくりと観察したが、ここのカラスは『鹿煎餅』の屑を食べたりしているせいか、我が家周辺でゴミステーションを睥睨しているハシブト(嘴太)カラス(ジャングルクロウ)よりは少し「人の好さそうな」ハシボソ(嘴細)カラスで、此方の気分のせいか可愛らしくもあった。
 ハシブトとハシボソの違いは嘴を見ても判らず、オデコが盛り上がっているかどうかでわかる。
 ただ、冷静に考えればこれはハシブトとハシボソの違いではなく、奈良公園のカラスが「観光客というのは比較的おとなしい」と学習したのだと思う。
 だから、ベンチに座った私が投げる餌を、ハト以上に近寄ってきて啄ばむし、カメラを向けても平気だった。(通常の解説書にはそんなことはないと書いてある)
 『烏合の衆』などという言葉があるがこれは全くリアルでなく、カラスは状況を判断して、人間を襲ったりもするが愛想よくもふるまう。

  すぐ目と鼻の先にある先日の美術館には、柳原義達氏の『風の中の鴉』というブロンズ彫刻があった。(ブロンズ彫刻であるから各地にもある。)
 私は形容しがたいパッションを感じた。
 その風とはどんな強風なのだろう。
 鴉は風の向こうの何を見据えて飛び立とうとしているのだろうか。
 それを作者はどのように共感してこの作品を作ったのだろう。
 ・・・・それに比べて私の足元のカラスはなんと穏やかなのだ。
 既成概念でモノを見てはならないと反省した。
 繰り返しになるが、この作品、私は気に入った。
 そして、私も日々このような姿勢で生きていきたいと、そんな風なことをザワザワと感じさせた鴉だった。
 

2014年2月27日木曜日

侘助

 
  「椿は首が落ちるように花が散るから武家が嫌った。・・・この途方もない嘘は、一体いつどのように通用し始めたのか。・・・・徳川秀忠ほか多くの武家の愛好者を持った。・・・・おそらく、椿とは逆に、潔く散らずに責任逃れをした昭和軍閥が作った謬説だろう。」は、高橋治氏の弁で可笑しい。
 その椿の一種に、茶花の代表『侘助』がある。
 その名の由来は諸説あるが、利休と同時代の堺の茶人還俗侘助がこよなく愛したからという説が美しい。
 ところで、我が家の小さな侘助がどのようにして我が家で咲くようになったのかが判らない。
 何十年も前からその植木鉢はあった。
 そして、あまり洋風の庭には向かないので庭の裏に放ったらかしにしていたし、どうでもよい地に植えたり、庭をいじる度に植替えてきた。
 名前どおり、影の薄い木だった。
  そのせいで、背も低く痩せた幹で、何十年前とほとんど変わらない。可憐といえば可憐だが、要するに成長不良だ。
 そして今回も、レインボーメイプルを伐採したことに伴い、ちょっとだけ庭の前面に移し替えたが、そういう試練にめげず寒風に花を咲かせてくれた。
 また、私も歳をとり、洋風の花もよいけれどこういう和風の花もよいなあと思うようになってきた。
 ほとんどの木々が眠っているような早春に、「猪口咲き」といわれる控え目な咲き方をしているのも風情がある。
 

2014年2月26日水曜日

小さい小さいお家

  映画「小さなお家」は、「山田監督が、忍び寄る戦争の影を見事に描いた。」という評があるが、私の感想はそうではなく、「人々は忍び寄る悲劇を想像しないまま、あるいはその不安にあえて目をつぶってあの時代を生きていた。」という事実を見せてくれたところに意味があるように思う。
 その時代の気分を、3.11の後、更なる悲劇につき進まないよう、あの白々しい政府発表でさえ、「嘘かも知れないが信じたい。」「信じたい。」と『思いたい』と思う自分がいたことと重ね合わせると、「不安をあえて封印した時代」というものが非常によく理解できる。

 今、義母が外泊で我が家にいるが、どうしても夜になると掴みどころのない不安感やうつの気分に襲われるらしい。
 その対症療法ではないが、毎日新聞社刊『1億人の昭和史』を引っ張り出して見てもらった。
 すると、嘘のようにしっかりした目になって、自分の意思でページをめくり始めた。意外であった。
 といって、過去の記憶が湧き上がりそれを語るわけでもないが・・・・、
  兄は兵隊に行きました。
  もう死んだと思っていたらひょっこり帰ってきた。
  夫(つまり義父)は結婚して3か月もしないうちに召集され、
  内地に居たので助かりました。
  国防婦人会ではバケツで消火の訓練をした。
  近所の防空壕に入れてもらった。・・・・というような事をポツリポツリと、そして同じことを何回も何回も私に話した。
 私は、小さな小さなお家の映画の我が家版を観ている気になった。

  そして、『1億人の昭和史』をめくりながら、F先輩と語ったことなどを思い出しながら『現代若者事情』を考えた。
 その問題意識は「田母神氏の得票に見る若者の右傾化」だが・・・。
 よく考えると、25歳~30歳の人たちの親は50歳~60歳代だろう。
 つまり、彼ら彼女らにとって太平洋戦争は祖父たちの話で(場合によっては曾祖父)、はるか昔の話である。その感覚がよいか悪いかは別にして・・・、
 という人々にとって、今さら従軍慰安婦の責任、A級戦犯の責任といわれても・・・という感覚ではないだろうか。
 よほど破れかぶれでないかぎり、「戦争をしてはいけない。」とは彼ら彼女らは思っている。
 また、戦後何十年も日本は戦争をしてきていないし、戦争の賠償も済んでいると考えている。
 だから、中国や韓国はいつまでも祖父たちの時代の責任を「言いがかり」にして日本の領土にちょっかいを出しているのではないかと不愉快に思い、
 それは、これまでの政治家が弱腰すぎたからで、安倍首相がはっきりものを言っているのはだからいいことだ。
 現代の礎になった先人の慰霊に靖国に行くことも含めて・・・・・、
 ・・・・・・といったところではないだろうか。
 私が言いたいことは、論理的に国家主義や全体主義というものが広がっているというよりも、いわゆるリベラルといわれる人々が、この感覚にフィットしたものの言い方ができていないというか下手なのではないだろうかという思いだ。
 「では、おまえはどう上手く語れるのだ。」といわれると辛いが、出発点はリアルに現状を見ることだと思う。
 ご批判、ご異論を乞う。

2014年2月24日月曜日

本の神様

  世の中には不思議なことがあるもので、書棚を整理し始めたら同じ本が出てきた。
 もっと本気で整理をし始めたら、さらに出てくるような気もする。
 何十年も昔、こういうことが初めてあった時には大いに驚き「ついにアルツハイマーが起こったか」とショックを受けたが、今では、本の神様がもう一冊贈呈してくれたに違いないと思うことにしている。
 なぜなら、読み始めてすぐに「あっ、これは読んだわ。」というのなら腹も立つが、2回目も最後まで読んだ本がほとんどだからである。
 確かに、「こういう言い回しは読んだことがあるなあ」と思った箇所はあるが、「同じ著者の別の本で読んだのかなあ」と納得していた。
 如何に1回目の乱読が頭に残っていなかったのかという証拠であるが、このおっちょこちょいさは昨日今日のことでないからあきらめている。
 実際、以前に読んだ昔の本を取り出して読んでみて、今頃感動することも少なくない。
 書棚は、例えば考古学関係とか中世史とか、日本語、料理、昆虫、歳時記等等々に分類はしているつもりだが、結果がこうだから偉そうな顔はできない。
 ということは、私の書棚というのは、形式的には私の読んだ本が並んでいるのだが、実質的には、何か考えるときに役に立ちそうな本を念のため並べているものと言ってもよい。
 中には、「これはそのうちに読んでおかなければ」と思って買ったがそのままというものもある。
 妻は「もったいないから図書館を活用すればいいのに」というが、私の場合は本気でモノを考えるときには図書館やネットでは上手くいかない。
 関係しそうな本を体の周りにおいて読み比べるという作業がないと考えがまとまらない。
 というほど考え込んだりはしていないが。
 内田樹氏の『書棚は僕たちの「あらまほしき知的・美的生活」を図像的に表象するもの。書棚は僕たちの「理想我」である。』という言葉で飾って、己の乱読と健忘を棚に上げている。

2014年2月23日日曜日

郷愁の味

  庭の水菜が大きくなってきたので、先日、息子ファミリーが来た時のメーンディッシュは『はりはり鍋』にした。
 合鴨と豚肉をふんだんに入れておかず風にした。
 公平に評価をすれば、クジラの赤身よりもこの方が美味しいし味も上品である。
 しかし、『はりはり』といえば『クジラのはりはり』と、記憶の彼方のもう一人の自分が異議申し立てをする声が聞こえてくる。
 美味しい美味しくないの問題ではない。
 郷愁の味の物差しは別のものである。
 鯨(ゲイ)テキなどというものも同じだろう。
 歴史の記録のために書いておくが、普通クジラの赤身は肉屋や魚屋には置いていなかった。
 乾物屋や乾物もあるような八百屋でメザシなどと一緒に売っていた。
 それを乾物屋と呼ぶか八百屋と呼ぶか、思い切って魚屋と呼ぶかは勝手だが、現代のイメージの肉屋や魚屋には置いていなかった。
 クジラとはそういうランクのものであった。
 映画『小さなお家』で、タキが「あの頃は明るく楽しかった」と言ったのに、甥の健史が「あんな時代にそんなことがあるわけないじゃん」と受け応えたが・・・・、
 そう、きっと公平に見て「あの頃のクジラの赤身が美味しいわけないじゃん」なのだろうが、今でも「はりはりは、クジラのはりはり」と、やっぱり私は思うのである。

アスパラは缶の底の方を缶切りで開ける
・・・・ということも懐かしい
  その夕食前に息子に「ホワイトアスパラも出そうか」と聞いたら「小さい時によく出されたが好きではなかった」と返ってきた。そうだったのか。
 ここでいうホワイトアスパラは近頃はやりの北海道直送のホワイトアスパラでなく、大昔からある缶詰のホワイトアスパラのことである。
 野菜と考えれば、いろいろ改良された豊富な野菜類の中で比較の土俵にもあげてもらえそうもない。
 惣菜の一種だと考えるとこれも「缶詰なんて」と議論の枠外だろう。 
 伝統の野菜でもなく、野趣というものでもなく、最新のファッショナブルな素材や料理でもなく、如何にも中途半端な彼奴のことを書くのを少々ためらったが・・・・、
 しかし、この缶詰という体裁、ちょっとムッとした香り、それは高度成長が終焉する以前は何かインターナショナルな明るく輝く体裁であり香りであったのだ。
 そういう感慨を共有する世代がリタイヤしてゆく今日、こういう印象を書き留めておくことも無意味ではなかろう。
 だから、美味しいか美味しくないかという物差しの外で私は時々買ってくるのである。

 こういう郷愁の味というのは、他人がどうもこうも言えないものだろう。
 こんなことを想うようになったということは、明らかに歳をとったということに違いない。

2014年2月21日金曜日

別世界からの使い

  先日、「近現代美術の100年」という美術展を観てきてのざっくりとした印象では、絵画にしても彫刻にしても、動物の中では群を抜いて鳥の作品が多く、イキイキしているように感じた。
 全く瞬間的で個人的な印象でしかないが、その理由は、鳥が人間世界を超えた別世界と行き来するからではないだろうか。
 と考えないと、作者があれほどまでに正確にカラスを観察し、躍動的に表現したのかという理由がわからない。日常生活の近辺にいたからだとでもいうのだろうか。そんなはずはない。
 先々日、友人の高層マンションのベランダにチョウゲンボウがやって来て、その写真がブログに載っていた。
 ベランダのバードテーブルにやってくるスズメを襲ってくるもので、ゾクゾクとするような猛禽類の勇姿だった。
 今日の私の写真は、チョウゲンボウなどに一番狙われやすい小鳥の一種で、ジョウビタキの雌である。
  この間から、窓の外に定期飛行をしてくれている。
 始終尻尾を振り、きょろきょろと辺りを警戒しながら、セイヨウカマツカの実をついばんで、バードバスで体を洗って、そして水を飲んで飛び立っていく。
 典型的な冬鳥で、ヒーッヒーッヒーッヒーとよく鳴くし、カチカチカチカチと嘴を鳴らす。冬景色にぴったりのBGMだと思っている。
 北帰行前のお別れに来てくれているのだろうか。

2014年2月20日木曜日

接客態度よし

  奈良県立美術館の、『上村松園、富本憲吉、田中一光・・・・美の世界』 を見に行ってきた。その話は置いておいて・・・・・、
 猿沢池でミドリガメを総あげにして神戸市立須磨水族園に移す作業が、寒風の中泥んこになりながら進められていた。その話は置いておいて・・・・・、
 その帰り、奈良町界隈でランチでもと思って歩いたが、ちょっとした店はすべて満員だった。奈良町は頑張っていると思う。満員で入れないのが心地いい。
 やむなく近鉄奈良駅まで帰ってきた。
 近鉄奈良駅のすぐ前の商店街は『東向き商店街』。
 その昔(明治の廃仏毀釈前)、この道の東側は興福寺の築地塀。
 だからすべての店が道の西側に『東向き』に建っていた。
 その入り口近くに『一条』という小奇麗な構えの店があったので入店した。
 結論からいうと、構えに似ずリーズナブルで、1300円のステーキ御膳とにぎり御膳を二人で注文した。
 後から思うと、その時「ステーキとにぎりの御膳が二つですね」という店員の言葉がおかしかったが、「ステーキの御膳とにぎりの御膳、合わせて二つですね」と確認したものと軽~く理解した。
 それに、観光地の駅前で、1300円でステーキとにぎり鮨が付いてくるなんて私の頭ではありえなかった。しかもコーヒー付。
 ところが、ステーキとにぎり鮨と蕎麦の乗った御膳が二つ出てきたので慌ててしまった。
 「ええっ、こんなには食べられない。」・・・で、よくメニューを見ると、ステーキ、豚カツ、にぎりずし等々から2品選んでくださいと書いてあった。
 明らかに当方のミスである。
 ところが店員さんは「それなら各800円でお出しできます。」と、さっと交換のため引き下げてくれた。
 嫌な顔一つせず、てきぱきと交換してくれた接客態度に私は心地よかった。
 けっこう大きな器の生酒をいただき、気分よく店を後にした。
 近頃めずらしく、接客態度は三ツ星である。
 で、こんな太鼓を叩くような、提灯を持つような感想を書いてみた。 

2014年2月19日水曜日

春野菜

  こんなことを言うと他人は信じないかもしれないが、こう見えても私は結構「企業戦士」だった。
 だから、振り返ってみるとその間は、ということは人生の大半は、自然とは無縁の電話やパソコンや法令集と格闘し、夜は安い飲み屋でウダウダと語っていた。若い頃は、半分バブルのような時代背景もあり、さらにキラキラ輝く夜の街でカラオケなどを重ねていた。
 今から考えると、懐かしくもあるが人生を少し損をしていたような気もする。
 その分を取り戻そうと、リタイア後は身近な自然を観察するようになったが、ちょっと大げさに言えば、初めて自然だとか四季の偉大さに驚く日々である。

  先日、chinunoumiさんが「若牛蒡を食べたぞ」とコメントに書いてくれた。故郷の「じゃこ天」と炊いたらしい。
 ご兄弟が八尾におられるひげ親父さんが、毎年届く若牛蒡を「待っているところだ」と応じていた。
 こういう些細な季節の話題を交換できるのも、お互い歳もいき、心にゆとりができたためだろう。

 そんな今日、妻が「買ってきたよ」と大きな若牛蒡を私に見せた。
 さらには、「新じゃが」と「新キャベツ」も。
 ただコープで買ってきただけのものだが、すべて春の野菜である。
 そう、和食の生命は季節感ではないかと思う。(そんなことは皆言っている)
 その上に、「八尾の若牛蒡」は春の香りであるとともに大阪・河内平野の「地野菜」でもある。
 が・・・、夕食時、妻は「この若牛蒡は高知産やった」と・・・・。
 道理で、生駒おろしではなく、も少し南国の香りだと感じていた。(そんなことある筈ないか)

2014年2月18日火曜日

橋下徹氏の6億円選挙ごっこ 1

  橋下徹氏は「大阪都構想の是非を問うものではない。」という。
 大阪市の区を再編するのに「一案に絞り込むのは時期尚早」と言った法定協議会が怪しからんから辞職したらしい。
 やくざが難癖をつけて絡んでいるように見える。
  普通の常識人にとっては、いったい何が争点の出直し選挙かさっぱり解らない。
 凋落しつつある人気を取り戻すためのテレビ向けのパフォーマンスだという論評に説得力を感じる。
 その選挙に6億円ほどの大阪市の税金が使われるという。

 結局、争点なんかどうでもいい。ただただテレビで顔と名前の売れている自分が勝てば、「俺が民意だ!」とさらに好き勝手にできると思っているのだろう。
 後援会幹部の親族を自分の秘書ということにして税金で高額の給与を払うことにしたように。

 この「逆切れ選挙ごっこ」。維新以外の政党は無視することにしたようだ。
 「そんなこともあり~?」と最初は驚いたが、「それもありや」というのが世論のような気もする。
 この春は、大いに橋下市政を語る春にしたらよい。
 

2014年2月17日月曜日

急いては事を仕損じる

  一昨日までの雪でエンドウ豆が数本折れてしまったが、雪が融けた後には嘘のようにいろんな花が咲いていたりして、植物のたくましい根性には舌を巻く。
 というような様子を眺めていると、寒風に吹き飛ばされそうになりながら結構速く飛ぶ蝶が飛んできた。

この写真はネットから
鼻が長い
  セセリチョウかとも思ったが、なんとなく大きさと飛び方が違うのでカメラを取りに家に戻った。
 そうして撮影したのが上の写真の蝶。
 ネットの図鑑で照らしてみたがなかなか解らない。で、見つけた名前がテングチョウ。
 そうか、そしたら、もう少し天狗の鼻のようなその顔にアングルとピントを合わせるのだったのに・・と思って再び飛び出したが、もちろん既にどこかに飛んで行ってしまっていた。
 秋に生まれた個体は越冬すると書いてあったから、雪に反射してまばゆい光に「春だ春だ」と冬眠から目覚めたに違いない。
 だが、気圧配置は西高東低で2~3日先にはさらに南岸低気圧と報じている。
 どちらかというとイラチ(セッカチ)な自分と似ていて情が移るが、彼の将来は明るくはなさそうだ。
 2月16日とは、・・・何がなんでも早すぎる。
 地面にとまって羽を広げるのは占有行動(ナワバリ)のひとつと書いてある文章も見つけたが、占有を主張する相手なんか全く飛んでいない。
 市長を辞職はしたものの、議会から不同意を突き付けられ、一人芝居を演じている誰かさんのようではないか。
 テングチョウよ、急いては事を仕損じるぞ。

2014年2月16日日曜日

早春

  太平洋側の地方では雪は2月や3月に降る。
 だから雪は「春直前」というイメージが私にはある。
  今日は雪に埋まった田んぼに田雲雀(タヒバリ)が群れていた。
 もしかしたらビンズイかもしれないが、ヒバリだとしたら、それは春でしょう!

 写真を撮る間もなかったが、カワセミがキラキラ輝きながら飛んでもいった。
 人間だけは「大雪だ!」と大騒ぎだが、鳥たちは「もうすぐ春だ」と悟っているようで、アオサギなどは身じろぎもせず泰然自若といった様子であった。

 夕食に息子ファミリーがやって来たので大和薯(やまといも)を擂った。
 器をひっくり返しても落ちないという「強力とろろ」、大人たちには大好評だったが、孫は「いらん」と一言だった。
 ああ!
 

2014年2月15日土曜日

正しい雪景色

  先週の大雪の日は、近畿地方の中で「山城南部」だけが注意報もなくあまり降らなかった。その日奈良市内に出かけたが、そこにはもっと雪がなかった。
 そのお返しだろうか、14日は奈良西北部と山城南部に早々と大雪警報が出た。
 義母の施設に向かうのに10数年ぶりにチェーンを装着した。
 天気予報は午後から風が強まると報じていたが、幸いなことにそれは外れた。
 風が吹けば凍結が進んでいただろう。
 雪を知らないこの地方の人々は、高をくくってチェーンも付けずスピードを出していたが、風があれば事故が多発していたに違いない。事実、事故ではないが、道路にとまっている車、坂を上がれない車が散見された。
 
  雪がやんでから散歩に出かけた。
 雪をかぶった蝋梅やコブシの蕾もちょっとした景色だったが、やはり、子供たちの雪遊びこそ正しい雪景色だと思った。近くの木のコゲラ(キツツキ)がそれを眺めていた。
 帰宅する人々のために遊歩道の除雪を少しおこなったが、汗びっしょりになった。雪国の苦労は大変だろう。

 今日、大阪の共産党が大阪市長選挙について声明を発表した。
 「共同候補擁立に努力するが、それが成らない場合には独自候補は立てない。」というものだ。
 「大阪都ストップ・維新政治打破の一点で一致するすべての政党、団体、個人と、さまざまな立場の違い、これまでの経緯をのりこえ、胸襟を開いて話し合い、全力をつくす。」という。
 これは非常に市民感情にあっている。私は賛成する。

 このブログでも、できる限り「大阪都構想」の真実をこれから探っていきたい。

2014年2月14日金曜日

単年度予算に泣く椿

  どうにかなりませんか、単年度予算。
 公会計の基本は単年度予算となっている。
 だから、どうしても予期せぬ緊急事態を心配して予算を抑え気味に執行していって、ほゞ見通しの立った年度末近くに使い切るような使い方になる。
 で、2月3月にあちらこちらの道路で工事が目立つのも、単純に無駄遣いともいえない事情がある。
 しかしである。自然界は会計年度など関係なく廻っている。そして、木偏に春は椿である・・・・・。

 我が家の前(裏)は遊歩道だが、ここの街路樹の剪定が、ご多分に漏れず今頃あった。
 落葉樹であるケヤキの剪定に異論はない。
 だが、椿の剪定を今頃するかあ?
 しかもエンジン バリカンで!
 「ええ~い、枝の先の蕾が目に入らぬか!」と言っても業者に罪はなかろう。
 そして、単年度会計では、春過ぎから均等に予算を使えない自治体の担当者だって、きっと判ってはいることだ。
 いったい誰が悪いんだ。
 
 昨年、花が終わった時に私が相当剪定した。
 その後 ヒュー、 ヒューと伸びてきた枝は夏にも秋にも何回も剪定してきた。
 そして、蕾ができるころから そうーっとしてきたのだが・・・・・、
 
 こんな時、新聞などでは「融通の利かないお役所仕事」と貶すのだが、私に言わせれば、こんな会計制度を改正できない国の政治に責任があると思う。(地方自治体だって国の予算に縛られているのだから)
 「世の中なんてこんなもんや」と皆が言ってしまえば社会は変わらない。
 「こんなことおかしくないか」ということにもっと愚直であってよい。

2014年2月13日木曜日

戦争責任に向き合ったドイツ

ドイツの第6代大統領
ヴァィツゼッカー
キリスト教民主同盟
過去に目を閉ざす者は
結局のところ現在にも盲目となります

(荒れ野の40年)
  テレビで観ていた何かの映画に、NATO軍の前線のようなシーンがあり、フランス兵とイタリア兵の様な数人が駄弁っていた。
 その軽い会話の中で、「ドイツ兵は〇時〇分にここに来るようになっている。」と腕時計を見て、「〇時〇分だ。」と言ったとたんに、ドイツ兵のジープが背後にピタッと停まるというのがあって笑った。
 監督が『糞まじめなドイツ人』をおちょくったに違いない。
 ところで、自分たちでは「日本人の生真面目さも世界で有名。」と思っている日本人が多いが、いま世界では「不真面目だ。」との評判の方が高いようだ。
 国会では、「靖国神社は太平洋戦争を自存自衛・正義の戦争と主張する施設。『正義の戦争』は間違いだと言えるか。』と共産党の笠井議員が質問したが、安倍首相は、「歴史認識は歴史家に任せるべき。政治の場で申し上げることに謙虚でなければならない。」と答弁。
 「謙虚」という言葉を使った不真面目な答弁でなかろうか。
 橋下氏や籾井氏の「戦場での慰安婦はどこの国でもあったこと。」と居直った発言と同じ質である。
 
 先日の石川康宏先生の講義では、数々の事実をもって慰安婦問題や改憲問題を学んだが、その中に、「ドイツと日本では戦争責任に向き合う姿勢に雲泥の差があった。」「ドイツの1968年の学生運動は『親や祖父母のナチ時代の行動を問い直す』という、つまり、市民一人ひとりの責任を問うという厳しい運動が広がった。」とのこと。
 同じ時代に、私は労働運動の隅っこにいたが知らなかった。自分の勉強不足にがっくりきた。
 だが、いま教えてもらったのだから今日の我が国の運動にその観点を忘れなければいいだろう。
 新しく学び、自分を変える課題に終わりはないし、近頃はスタート台の気がしている。
 ネットを繰ってみると、ドイツ在住のジャーナリスト永井潤子さんの『戦争責任に向き合うドイツと目をそむける日本』 http://www.jca.apc.org/taiwan-ianfu-support/support_group/2006/06.4nagai_junko_speech.html という講演記録があった。
 また、ヴァィツゼッカーのあの有名な演説「荒れ野の40年」 http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/areno.html もあった。
 ヴァィツゼッカー大統領は右派のキリスト教民主同盟出身であるが、「荒れ野の40年」を読み返してみると、今でもその誠実さに胸が熱くなる。
 そして、この国の与野党を問わず歴史に向き合わない少なくない政治家等の言動に、同じ年月を歩んだ国どおしなのだろうかと悲しくなる。
 ドイツ風に言わせれば、過去に学ぼうとしないことが罪なのだ。

2014年2月12日水曜日

近代史を振り返る

  2月11日、古代史の勉強ではなく近代史の勉強のために橿原神宮を訪れた。紀元祭である。
 神武天皇陵は古事記と日本書紀が異なった地を記している。
 近世幕末には3箇所が候補地であったが、文久3年(1863年)に孝明天皇の鶴の一声で現在地が指定された。
 以下・・・・、
 明治6年(1873年)に1月29日を紀元節と指定。(日本書紀が神武天皇即位の日とする辛酉(かのととり)1月1日に対応する日)
 明治7年(1874年)この年から2月11日に改定。
 明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布。学校での大規模な紀元節奉祝儀式本格化。
 明治23年(1890年)橿原神宮創建。
・・・ということであるから、これらは文字どおり近代史である。
 そして、現代からそういう近代への復古を主張する運動の中のメーン行事が橿原神宮の紀元祭ではなかろうか。
 テレビニュースで戦闘服や軍服姿の隊列行進がよく映されるあれである。
 勅使と御幣物の入場を眺めながら、多くの参列者の動機を考えてみたが私にははっきりとは解らなかった。


  早く逝った父は、そういう時代(戦前)に神職の資格か位を持っていたらしい。
 父の持っていた笏は今私が持っている。
 父は戦後の時代にそれをどう思っていたのだろう。あまりに小さかった私にはそれも全く解らない。
 戦後、何も語らなかったということは痛恨の思い出だったのだろうか。
 願わくば、この笏が、近代のあだ花の様な場所でなく、古く懐かしい神々の前で用いられていたことを祈りたい。

 というような負の近代史について語っていることしていることが支離滅裂ではないかとお叱りもあろうが、三本足の八咫烏(ヤタガラス)のお守りストラップがあまりに可愛いので求めてきた。
 孫が来たら鞄に付けてあげよう。
 彼は、戦(神武東征戦)の先導者という以前に、そもそもが道教の太陽の化身なのだから。

2014年2月11日火曜日

石川講演で気付いたこと

  10日に石川康宏先生の講演を受講して感じたこと・・・・・。
 これまで私は、自民党の潜在的な主流は、「対米従属、財界言いなり」だと考えていた。
 それに対して安部首相は、「親の心子知らず」で、そういう立ち位置と矛盾する復古主義者だと考えてきた。
 そのことについて石川先生は、実はそうではなく、2009年に政権交代が起きた後、これまでの自民党の政策と変わらない政策を民主党が進める下で埋没しないように定めた『2010年自民党新綱領』により、今の自民党は改憲を第一課題とする右翼政党になっていると、豊富な事実をいっぱい挙げての指摘だった。
 同時に先生は、そのことは、アメリカにとっても、経済第一の財界にとっても矛盾そのもので、旧来の自民党の幹部等にとっても許しがたいところとなっている。だから、一方では『田母神61万票』という憂うべき事態が生まれているし、一方で革新と真面目な保守との共闘が生まれているのだと。
 その外、示唆に富んだ講演が続いたがそれはまた後日。
 最後に先生は、若い人たちに対して「こんな正しい話がなぜ判らないのか」と言っても共感は広がらない。
 新聞だけでなく本を読むことが大切。
 「ネットは苦手」などと言っておらずSNSに努力すること・・と提起されたが、椅子に座った多くの昔青年は笑うばかりだった。
 むむむむむ。

追記
 左の写真のように、『若者よマルクスを読もう』にサインをしていただきました。

2014年2月10日月曜日

纏向遺跡現地説明会


10時開始を9時半に到着したがすでに150番だった。
50人ずつ現地に入っている。
  寒いのでどうしようかなあ~と一度は二の足を踏んだのだが、意を決して家を出た。。
 私の使ったのは近鉄天理線からJR桜井線というマイナーな路程のため、車内には一目でそれと察せられる・・・卑弥呼に取りつかれたような同輩がいっぱいだった。

 今回の現場は、新聞報道的にいえば「卑弥呼の宮殿か?」と騒がれた前回調査地からJR線を越えた東側だが、一番興味のある建物Fは、南北3間、東西2間かそれ以上(調査地が限られているため不明)で、真北に対して4~5°西に振っており、かつその中軸線が先の騒がれた3世紀中頃の建物と一致している。
 さらに、一部の柱穴が布留0式期の土坑に壊されていることから同時代のものとも考えられ、要するに3世紀中頃に、関連した居館がこれまで考えられていたものよりも大きな範囲で建てられていた可能性が出てきた。
 またこの地には、この3世紀前半~中頃の建物群の後も、3世紀後半~4世紀前半の建物と区画、4世紀後半の区画溝、5世紀末~6世紀初頭の石張り区画溝が見つかったことになり、同じ地に、他に類をみない3世紀にわたって首長居館が重複して存在してきたことになる。
 卑弥呼の居館かどうかは別にして、日本列島のクニと大王の誕生の地がこの近辺であることは間違いないと思う。
 すぐ南側は、最古の前方後円墳といわれている箸墓古墳である。

 なお、森浩一先生は、「卑弥呼卑弥呼と言わずに、記紀にいう垂仁天皇の纏向宮・珠城宮、景行天皇の纏向の日代宮、崇神天皇(御肇國天皇=初代天皇)の磯城の瑞垣宮を考えよ。」と主張されている。
 水野正好先生は、「ここは卑弥呼の居館ではない。」「卑弥呼の居館はもっともっとすごいものであった。」と主張され、「邪馬壹国(やまとこく:は上代特殊仮名遣いの乙類)の宮殿は大和神社の下にあるに決まっている。」と断言されている。(筑後の山門郡、肥後の山門郷のは甲類)
 万葉学者の上野誠先生は、「奈良大学では大和(畿内)説、故郷の福岡では北九州説を語るとみんなが喜ぶ。」と笑っておられる。
 再生医療のような現実的価値があるかどうかは知れないが、こんな話を読んだり聞いているのはとても楽しい。
 
 纏向の現地説明会が大賑わいになるのは有名なので、商魂たくましい農家が露店を出していたから大和薯(高級とろろ芋)を購入し、缶ビールをキューっとヒッカケて帰りのワンマン電車に飛び乗った。

 思い付きのようなものだが、皇国史観の主張があまりに滑稽で権力的なものであったから、戦後の良識ある多くの市民は古代史などを無視してきたきらいがないか。
 その間隙を縫って、驚くような復古的主張が歪んだ歴史観を伴っていま広がりつつあるように思う。
 戦前という時代が、如何に日本の歴史の中で突出して歪んでいたかを、理性的な歴史観で語る必要性が増していないか。

2014年2月9日日曜日

奈良瑠璃絵

  春日大社、興福寺、東大寺、三社寺の、花山院宮司、多川貫首、筒井別当による鼎談が奈良県新公会堂(能楽堂)であった。コーディネーターは朝日新聞の小滝ちひろ編集委員。
 記憶に残ったのは花山院宮司の話で、「ご神体の御蓋山は平城宮の真東で、そこは、豊穣を約束する太陽の昇る地、時をつかさどる月の昇る地、京の命を支える水源地だった。」と。
 そして3人の宗教者はそろって、「最近、心の乱れている人が多い。」と嘆いていたが・・・、
 私はその話を聞きながら、春日のご神体のすぐ横にモノレールを作ろうという人の汚れた心を想像してしまった。

  鼎談が終わって帰ろうとすると、そのロビーが「奈良瑠璃絵」の開幕式の会場であったので、予定外であったがオープニングと同時に参加することができた。
 こういう催しはあまり興味がなかったが、流れ星が飛ぶとか、予想外に美しいのに驚いた。大仏池では噴水に仏像が浮かび上がるなど、奈良らしい趣向もあった。
 一緒に、奈良県下各自治体の鍋料理やちょっとした特産品の店も出ていたので、十津川村の「鮎のうるか味噌」を購入して帰宅後すぐ味わった。
 奈良瑠璃絵の中心地に、それぞれが願いを書いた短冊を吊るす企画もあったので、「この国が戦争に向かいませんように」「原発が子や孫の世代まで残りませんように」と書いて吊るしてきた。

2014年2月8日土曜日

奈良の観光策雑感

  先日の「若草山モノレール構想」は、知事に言わせれば、「足に障害のある方にも登ってもらえるようにバリアフリーにするためだ」ということだが、障害者問題研究とバリアフリー問題の権威である大久保哲夫奈良教育大学元学長は、「障害者団体は誰も要求していない」「バリアフリーという言葉を利用(悪用?)しているだけだ」ときっぱり断言している。
 事実、奈良県障害者の生活と権利を守る連絡会はモノレールに反対する会結成総会にメッセージを送っている。
 そこには、「若草山に登りたいという高齢者や障害者には、移動支援、同行援護、外出介護の制度を手厚くすることで対応すべきで、・・・県には(日頃から)そういうことへの冷淡さを痛感させられている」と指摘している。
 なお補足すれば、今現在でも、ドライブウェイが山陰を通って若草山の頂上まで伸びており、山頂駐車場から頂上までのバリアフリーはしっかり確保されている。
 つまり、現在でも、車椅子のままで山頂から奈良市街等を広々と展望できるのだ。

  結局、勘違いかもしれないが、若草山山麓の土産物店の要望なのかと新聞報道から勝手に推測するので、そのことについて一言述べたい。
 奈良の観光政策を論じるとき、よく「大仏商法」ということが言われる。
 大仏様がある限り、遠足や修学旅行を含む観光客は必ず来るから、工夫や努力を怠っているという主旨だ。
 そして、その脱却の方向がモノレールであると考えるなら、それは違うと私は思う。
 事実、ここ15年か10年ぐらいを振り返ってみると、旧元興寺境内周辺の奈良町は大きく変わった。
 お昼頃は、大和野菜を使ったランチなどを売りにした店に行列ができている。
 そんなお店で、隣に座った東京弁のグループに話を聞くと、雑誌で紹介されていたのでこのお店に来たという。
 そう、奈良町は知恵と努力でお客を呼んでいる。もちろん、テーマパークやギンギラギンの歓楽施設を作らないまま。(奈良町のごく一部は昔の色町が残っているが)
 失礼なことを言うが、若草山山麓の土産物店も奈良町に学んでほしい。
 二月堂から春日大社に向かう(反対かもしれないが)メーンストリートなのだから、そこで、雑誌に取り上げられるような美味しいものでも提供すれば様子は違ってこないか。
 悪いけれど、うどんも丼も、イチゲンの客を相手にしているような味だと言ったら言い過ぎだろうか。
 
 若草山にモノレールを作ろうとしたり、平城宮趾をコンクリート舗装しようとしたり、奈良県知事の発想は低劣だと私は思う。
 二月堂の舞台から眺めると、奈良の観光を担う県庁舎と近鉄奈良駅の建物が目障りだ。和風建築でなくとも学校や少年刑務所の建物が景色に溶け込んでいるというのに。
 奈良には、木津川 計氏の提唱されているように、もっと都市の品格を大事にしてほしいと願っている。(木津川氏は大阪に向かって発言されているのだが)
 大阪の心斎橋や宗右衛門町の俗化の轍を踏まないよう、奈良の文化人にはもっと発言してほしいものだ。
 奈良大好き人間の外野からの独り言。

2月8日午後の写真を追加。





2014年2月7日金曜日

テロを礼賛していいのだろうか








  NHKの籾井会長が「慰安婦の問題はどこの国にもあった」「政府が右ということを左というわけにはいかない」と言ったり、百田経営委員が田母神氏の応援演説に立ち「南京大虐殺はなかった」と言ったことについて、私は非常に不愉快に思ったが、昨秋に書かれたという長谷川三千子経営委員の「野村秋介氏への追悼文」には、それらとは全くレベル(質)の違う怖さをぞぞーっと感じた。
 解釈は不要だろうが、氏は、「野村秋介氏は、『日本国憲法が何と言はうと』現御神(あきつみかみ=現人神)である天皇に、その死をささげた」と、右翼テロリストを礼賛しているのだ。
 氏はまた、日本最大の右翼団体、国粋主義者団体ともいわれる(wikipedia)日本会議の代表委員でもある。
 私は、個人が右翼思想を持とうが国粋主義を信じようが自由だと思う。
 しかし、テロを礼賛し、天皇を再び現人神に祀り上げようと主張する人が公共放送の経営委員に相応しいとは思わない。否、それは社会にとってとても危険なことだと思う。
 氏を経営委員に任命した安倍首相の責任は重い。
 よく、「安倍内閣はアメリカ言いなり財界言いなり」と言われたりするが、それに止まらず安倍首相の現憲法否定の主張と行動は、戦後保守党政治が踏み越えなかった一線を越えた全体主義指向だと見なければならない。
 私たちは、「もう今さら全体主義もないだろう」と判ったような顔をして語らない方がよいと思っている。

 * 三島事件の四十三年祭の動画を追加しました。

2014年2月6日木曜日

確定申告で大損


  昨年は予想外に医療費がかかったので、所得税の確定申告をすれば僅かだが税金が還付されるはずである。(それだけ医療費を支払ったのだから、還付と言っても嬉しいような悲しいような・・。)
 一昨年は初めて電子申告(e-tax)を行った。
 昨年はほゞ±0だったので、申告不要だった。
 今年もどうでもよいのだが、e-taxの操作を忘れないために再挑戦することにした。(還付額は雀の涙!)
 「一昨年出来たのだから」と高を括って始めたが、パソコン(WIN8に)を変えたこともあり、なかなか前に進まない。「一昨年出来たのだから」と十分に解説を読まずに進めたからである。悪い癖だ。
 そして、えっちらおっちら最終コーナーまでたどり着いたが、最後の最後の「送信」が上手くいかない。全く持って上手くいかない。
 そのため、国税庁の相談コーナーに電話をして、携帯を片手にパソコンをあれこれ操作したが、・・・少なくとも2時間ぐらいは遣り取りしたが、結果的には音を上げた。
 還付額を優に上回る電話代を費消した。途中からは意地になってやっていたのだが、ギブアップ。
 お金だけでいえば大損となった

 結論的には、e-taxのソフトで作成(印刷)した申告書を『会場』へ持参した。
 消化不良だが、八分方は満足だ。
 たいした額ではないから「申告不要」扱いしてもよいのだが、どうにか『社会に取り残されなかった感』だけが満足の理由である。
 それにしても、申告会場の混雑は半端でない。我が地方では11日間の日程なのだが、大きなホールに入る以前に長蛇の列。勘でいえば5時間は待つだろう。
 その混雑を横目に「申告のみの方」(申告書を完全に書き上げている者)という部屋で私は5分も待たされなかった。これも節分会の御利益だろうか。
 運動がてら往復2時間の会場まで歩いて行ってきた。
 私の確定申告はお金よりもアンチエージングに効果があったように思う。と、負け惜しみを言っている。

2014年2月3日月曜日

鬼も内!

1 前の記事のとおり、思案の結果、元興寺の節分行事に行ってきた。
 柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)の炎と煙、そして太鼓とほら貝と読経が非日常的でお祭り気分がいっぱいだった。
 孫とお母さんは火渡りの修行も行った。
 私は、単なる参加では面白くないので、手作りのお面をつけて参拝した。(写真のお面)
 多くのカメラマンに喜んでいただいただけで「少し良いことをした」と自己満足。
 ビデオのインタビューも受けた。
 夜、「NHKニュースで見たよ。ユニークだったよ」とメールが入った。NHKだったんだ。
 
2 『鬼とは何ぞや』という分厚い本はいくつもある。・・・というほどに鬼とは奥深~いもので単純なものではない。
 それを誤解を恐れず乱暴に言ってしまえば、a 邪気の象徴である鬼と、b 人知の及ばない力を持った神仏的な鬼がいるからややこしいのではないか。鬼瓦も後者だろうし、元興寺の元興神(がごぜ)という鬼も a の鬼を倒した b の側の鬼だろう。
 そのため、a の鬼を想定した多数の(ほとんどの)寺社では「鬼は外、福は内」と豆をまくが、b の鬼に関係する寺社では「福は内、鬼も内」となっている。今回参拝した元興寺も後者である。
 そして、このブログの2011年12月18日付『鬼の末裔』に書いたとおり、妻の曾祖父は、役行者が生駒山で捕まえた鬼族の末裔らしいから、そうなると、私の息子も孫も鬼の末裔となる。
 (伝説にある鬼取という集落近くの同じ暗峠奈良街道沿いに住んでいた曾祖父が役行者譲りの?煎じ薬を旅人に施していたことが生駒市史にあることから想像を膨らませたらこうなる。)
 と、ここまで来ると、盲目的に大勢に迎合して「鬼は外」などと言っていられない。

3 と言いながら、家でいざ豆まきをしようとすると、やっぱり「鬼は外」「福は内」がしっくりくる。「鬼も内」と孫に教えたら「福は外」と大声をあげたので少し慌てた。
 なにしろ今年は孫が「鬼は外」「福は内」「戌亥の隅にどっさりこ」と立派な大きな声を出してくれた。
 だから妻は、「毎年ご近所に、年寄り夫婦だけやのに豆まきをしている・・と、声を出すのが少し恥ずかしかったが、今年はええわ」と喜んだ。 
 戌亥の隅には孫が文字どおりどっさりことまいてくれた。
 家の中も、庭も道路も賑やかに豆だらけになった。
 お母さん手作りの恵方巻も食べ過ぎになるほどいただいた。
 こういう行事は、やる限りは徹底するのがいい。
 ちょっと好い春になりそうだ。

2014年2月2日日曜日

明日は節分

去年の手向山の神事
  明日は節分なので、お母さん(息子のお嫁さん)から(孫のために)「どこかに連れて行ってほしい」と頼まれて検討しているが少し頭を抱えている。
 というのも、鬼が出てきて孫の喜びそうな京都や奈良の行事は全て夜であるし、それぞれ相当混雑する。
 芸能史的に民俗学的に意義のある手向山八幡宮の神事は孫には退屈だろう。
 となると、昼間のシンプルな豆まき行事になってしまう。
 毎年、少し節分の話題をブログに書いているが、その結果驚いたことは、多くの家庭では豆まきはほとんどされていないようだということだった。知らなかった。
 お暇であれば昨年の2月15日付「戌亥の隅にどっさりこ 考」、2月23日付「続 戌亥の隅にどっさりこ 考」を見ていただければお判りのように、我が家では子供たちが大きくなってからも「鬼は外」「福は内」「戌亥の隅にどっさりこ」と大きな声を出している。
 そして、私が小学生の時から恵方巻をかぶりついている。
 もちろん今年も準備をしている。

 本日、大阪を無茶苦茶にしつつあるあの人士が市長再選挙を表明すると先行報道されている。
 今年の豆まきは力が入りそうだ。
 鬼は外! 鬼は外!

2014年2月1日土曜日

古代史の宿題

  小笠原好彦先生の古代史の講義を受講した。
 藤原京の『いわゆる紀寺はほんとうに紀寺か?』というテーマであった。
 藤原宮は、後の平城京や平安京と異なり、六条大路に面して藤原京の中ほどに建っている。
 発掘調査の結果、その藤原京の左京八条二坊にお寺があった。
 この地の小字が「キテラ」であったことから、紀氏の氏寺である紀寺だというのが学会の大勢だ。(紀寺は後に平城京に移転して今に奈良市内の地名として残っている)

 だが、・・・と先生は要旨次のとおり述べられた。
 1 発掘調査の結果、この寺は藤原京の条坊にぴったり当てはまっている(藤原京の南北線が0度26分偏っているが伽藍の中心線が坊間路の路心と一致している=偶然の一致はあり得ない)ことから、少なくとも藤原京の条坊施工(天武13年684年)後に建てられたものと考えられるから、日本書紀に庚午年籍(天智9年670年)に関わって紀寺の奴婢のことが出てくる(つまり670年には遅くとも造営が始まっていた)紀寺とはみなされない。
 2 軒瓦の文様からしても680年代のものである。
 3 同じ軒瓦の文様がその後山背の古代寺院や遠隔地の古代寺院から発掘されることから、その元となったこの寺は大和の一氏族の寺というよりも官寺もしくはそれに準ずる寺と考えられる。
 4 同じ軒瓦の文様が、紀氏の本貫である紀伊の国から全く出ていない。
 5 藤原京の右京八条三坊には非常に格の高い本薬師寺があったが、「左京>右京」から見て、当時特別の大豪族ではなかった紀氏の私的な氏寺がこんな一等地(左京八条二坊)に建てられたとは考え難い。
 6 本薬師寺より格上の寺で未発見の寺として高市大寺があるが、大官大寺等からみてここは『大寺』という規模ではない。よって高市大寺ではない。
 7 本薬師寺が、天武天皇が皇后の鵜野皇女(後の持統)の病気平癒のために建てた寺なら、左京>右京から見て、天武の病気平癒のために鵜野皇女と藤原不比等が建てた寺ではないか。であれば総ての辻褄が合う。
・・・・ということのようだった。(私の記憶のことだから間違っているかもしれないが)

 先生は、いろんな文献からそれらしい候補の当たりをつけておられるようであったが、それは宿題で終わった。
 で、帰ってから日本書紀を探してみたが、そんな記述(それらしいお寺)は見つけられなかった。当然と言えば当然で、そんな簡単な話なら既に学説は書き換えられているだろう。
 問題提起の刺激が楽しすぎるというか、大きな宿題に滅入ってしまいそうというか、複雑な気分を引きずった講義であった。
 
 発掘調査の結果、藤原宮の正面左京には立派なお寺があった。
 定説(多数意見)ではそれは紀寺といわれているがそれはありえない。
 考古学者や文献史学の先生が集まってもそれが何寺であるのか解らない。
 この話の何が面白いねんと言われれば身も蓋もない。