2012年10月30日火曜日

明日咲くつぼみに

  テレビを見ていて驚いた。
  あの舟木一夫が「明日咲くつぼみに」を歌っていた。
  あの永遠の高校三年生が「明日咲くつぼみに」を歌っていたのだ。
  実母が元気だった頃、老人クラブで習ってきたのだろうか、三波春夫の「明日咲くつぼみに」のカセットをかけて練習をしていた。
  三波春夫にしてはわりあい単純な節回しなので、老人クラブ推薦曲なのだろうかと思っていた。(「唱歌」ではないけれど目標を老人クラブに特化した唱歌的な歌??)
  しかし、聞くともなく聞いていると、~明日咲くつぼみよ~今日散る花びらよ~いつか別れの言葉 さようなら・・・で、ええっと驚いた。
  若い恋人が死んじゃったというような歌謡曲とは違った、絶対的真理に迫るインパクトのある歌詞だった。~明日咲くつぼみに~今日の命を こんな歌詞の歌を老人クラブで歌うのは辛すぎないか。(いくら永さんがお坊さんだとしても・・・)

  その後、作詞者の永六輔著「上を向いて歌おう」等々を読むと・・・・・・、
  三波春夫は癌と余命を知っていてこの歌を吹き込んだのだが永は知らなかった。永がそれを知っていたらこんな歌詞は使えなかったと語っていた。
  録音の際、三波春夫はいつもの張りのある声で歌ったが、永が「そうではなくぼそぼそと歌ってくれ」と言ったら、奥さん(三波さんの三味線方) から「三波には三波の歌い方があります」と怒られたこと。しかし、奥さんは三波に「永さんの言うことが解らないの」と叱りつけたこと。
  さらには、あの三波さんが、永さん達の「戦争体験を子供たちに伝えよう」という活動に積極的に参加してくれたこと。
  二人が老人ホームのボランティアに行ったところ、勝手に歌い始めたおばあちゃんと一緒にわらべ歌や数え歌を歌って、結局自分の歌を一曲も歌わなかったこと。などなどなど・・・・・・・。

  そんな、この歌の誕生秘話や三波春夫の知らなかった人柄を知るうちに、何となく思い入れのこもった曲として記憶の底に収まっていた曲だった。
  それを、あの舟木一夫がテレビで歌っていたのである。
  ~時は還らず世は移りゆく
  ・・・孫が生まれ、実母を見送った今、こんな歌詞に共鳴したならば、底なしの老化の沼に引きずり込まれてしまいそうな怖さがあるが、ええい、大きなマナコで老いの現実を直視して、カラオケの『持ち歌』にしてしまうのも悪くはないかと思うことにした。

2012年10月26日金曜日

まんなをし

  先週の話で恐縮ながら、17日18日はほぼ1日中雨が続いた。
  直前の天気予報では17日の夜に降って翌朝には止んでいるはずだった。
  「夜だけやったんちゃうん」と妻は洗濯物を出したり入れたりしながら、雨の原因が天気予報にあると言わんばかりにテレビに向って怒っていた。
  満開の金木犀からの芳香も消されてしまっていた。

  娘婿は友人たちから気象協会公認レベルの雨男と言われているらしい。
  1年前の結婚式も、披露宴前のガーデンパーティーでシャンパンを開けた途端に台風から押し出されてきた大粒の雨が降ってきて、後で聞くと風船を飛ばす予定だったらしいが当然中止になった。

  こういうとき関西では「まんがわるい」と言う。
  「まん」は「間の転」(広辞苑)らしいが、「間が悪い」ではなく「運が悪い」「まわりあわせが・・」「ついてない」という感じで、伊丹十三監督作品の映画「あげまん」の題名は俗語と重ねて面白がりながらつけたのだろうが、元々はこの「間(まん)」である。

  世の中には原発であろうが経済であろうが外交であろうが全て思い通りに制御できると豪語する方々もおられるが、人生にしても、ささいな日常生活にしても、そして空模様にしても、ママにならないこと、「まんがわるいとき」は多々あるもので、それは今も昔も変らない。
  それを「色即是空」「諸行無常」とは達観できないのが衆生の凡夫である。
  で、先人はどうしたかというと・・・・・、

  東大寺二月堂北東の隅(例のお水取りの時に「おタイマツ」が登ってくる階段(回廊)の突き当たり)に、結構大きな自然石の道標に「まんなおし地蔵尊 是より(合字)一丁」と書いてあるが、あんまり読んでいる人は見かけない。(上の写真)
  そこから北へ山の中を歩いて行くと、行き止まりに近いあたりに右の写真のお地蔵さんが現れる。石柱にも判りやすく「まんなをし地蔵尊」とある。
  顔(右の方の黒い石)は、欠けたのか風化したのか判らないが・・どういうまんのわるいことがあったか知らないが、・・原型はなく、稚拙な線刻になっている。
  要するに古くから「まんのわるいことが続いたから、まんを直して」と庶民が切にお願いをしにきたお地蔵様なのだろう。
  (なお、大仏殿裏から二月堂に向う「写生小道?」にも道標がある。)
  一般に東大寺というと国家のお寺で学問のお寺と言われているが、こんな俗っぽい信仰も併せ呑んできて1300年の歴史があるに違いない。
  私は一般に「ご利益がある」とか「罰があたる」という宗教はあまり好きでないが、こういうアッケラカンとした先人の願いが形に残っているのは微笑ましい。
  鰯の頭も信心から。近頃まんがわるいとお嘆きの諸兄はこのブログの写真に向って手を合わせておくと「まんがなおる」こと疑いなし。

2012年10月24日水曜日

山雀金魚で煮ても焼いても食えぬ

  国松俊英氏の著書で「山雀(ヤマガラ)金魚で煮ても焼いても食えぬ」という『ことわざ』のあるのを知った。
  その意は「手に負えん奴」と言ったところだろう。
  しかし、このことわざが通用するためには「いろんな野鳥がいるが山雀だけは(金魚同様)不味くて食べられたものでない」という共通認識が広く世間になければならない。残念ながら寡聞にして私は知らなかったし、現代社会では実食をして確かめることも既に叶わない。


  窓際のエゴノキの実が目当てらしく、先日来山雀の家庭訪問が賑やかだ。
  貯食行動と言って、エゴの実を、今は食べなくても木の裂け目等に隠すらしく、そのためか何んとも忙しく窓の外を右に左に飛び回る。
  多くの場合は四十雀(シジュウカラ)と一緒に行動し、ツツピー ツツピー ジュクジュクジュクと賑やかな中に、ジージージーというか、ニャーニャーニャーというか、子猫のような独特の甘え声を出すのもまた楽しい。
  おまけに木の実を割って食べる時などはコツコツコツと相当大きな音を立てるので、コゲラどころか、近所で日曜大工をされているのではと勘違いしてしまうほどだ。
  鳥の種類によって人に対する警戒心に大きな差があるのは何故だろう。鳩を除くとウチにやってくる野鳥の中では山雀が一番人懐っこい感じがして、今風に言えば癒される鳥である。
  写真は野鳥用の水呑み場に来たところ。ここで水を呑んで、ひとっ風呂浴びて飛び立ってゆく。

  以前のブログに書いたことだが、私が小さい頃は夜店などで見事な「山雀のおみくじ」芸があった。(以前のブログに書いた)
  平安時代か鎌倉時代から伝えられ、時代とともに内容が向上されてきたものらしいが1980年代に野鳥の捕獲禁止が浸透する中で、この芸も絶滅したらしい。
  そのことを妻と子供たちに説明して「こういう文化は自然保護と二律背反だ・両立し得ないと断定せずに残すべきだ」と熱く語ったところ、「お父さんが復活させて夜店を出したらええやん!・・」と冷たく言い放たれた。
  山雀金魚で煮ても焼いても食えぬ家族である。

2012年10月21日日曜日

笠の蕎麦畑

  あくまでも「日本書紀に書いてある」というだけのものだが、最初、天照大神は宮中に祀られていたが、第10代崇神天皇の時に『笠縫邑(かさぬいのむら)』に移され、第11代垂仁天皇の時に菟田(うだ)や近江や美濃を経て伊勢に落ち着いた。
  この記述の意味するところは何か? 如何なる歴史的事実の反映か? というのも興味は尽きないが、今日の話はその『笠縫邑』に行って一面の蕎麦畑を見てきたというだけのこと。
  そこ(桜井市笠)は、相当な山深い里ではあるが、初期ヤマト王権(人によると邪馬台国)の所在地、この列島の最初の首都と考えられている纏向遺跡や箸墓古墳の裏山といえなくもなく、文献だけの時には「何故そんな笠縫などという大田舎に???」と思っていたが、実際に来て見ると「ああ、とりあえず裏山に祀ったのか」と何となく書紀の話もチョットうなずける。
  国営総合農地開発事業で標高500㍍あたりの農地一面が蕎麦畑に変り、JA?女性部が中心のそば処(笠そば)が賑わっていた。美味しく満足した。
  余所の事業は知らないが、もしかしたら、この種の事業では珍しく貴重で見事な成功例ではないだろうか。(あちこちで成功しているのならごめんなさい)
  そば処の前が日本第一・笠山三宝荒神の参道入口になっており、以前に参った以降「竃の事故」のないことのお礼を言っておいた。

  蛇足ながら、私は日本三大荒神??の笠山荒神、清荒神、立里(たてり)荒神に参拝した。
  その中の立里荒神は、百を越えた実母が「もういっぺん登ってみたい」と何度も何度も言っていた山で、高野山の東の奥、奈良県野迫川村荒神岳にある。
  自動車道路が開通していなかった頃、そこは霊気に満ち溢れていたのだろうが、今では笠山荒神同様、普通のお社になっていた。
  という話を実母にするのは酷だから、実母の語るお籠もりの朝の雲海、御来光、鳥の声等々の思い出に「うんうん」とうなずいておいた。
  来夏あたり、そんな報告を立里のお山にしに行かなくてはならない。

2012年10月19日金曜日

衿を切って街に出よう

  シニアのお洒落は難しい。
  私などは旅行に行くわけでもなし、半径数キロの中で、いつもの知った顔の人と顔を合わせるだけ(顔を合わせない日も多い)の毎日であるから、ついナマクラな格好に流れている。
  そして、長いサラリーマン生活のほとんどが地味な背広とネクタイ姿であったものだから、ラフな格好がどうも板につかない。
  そのようにして今に至っている。
  そこで悩むのである。
  (1) 「今日はフォーマルだ」という特別の時を除いては、いまさら背広にネクタイは着たくない。特にネクタイは面白くない。
  (2) ループタイは上等の凝ったものにすればするほど、何故か年寄り臭く感じてしまう。ラフさと固さが中途半端なのだろうか。若々しいループタイがあればよいのだが。
  (3) 「ラフでお洒落なスタイル」・・あたりを狙いたいが、どうも板につかず座り心地が悪い。そこを突き抜けた作務衣と雪駄で大阪市内を闊歩する友人が羨ましい。
  (4) 特にシニアがラフに過ぎると、一歩間違えば貧相になる。日除けハット・サファリハットも「お洒落」と「ルンペン帽」と紙一重で私の場合は後者になる。キャップにブルゾンだとスポーティーというよりも「予想屋」の出来損ないに・・・・。
  そういう中で度々選択しているのが「立衿のシャツ」であり、わりあい気に入って愛用している。
  ところが、わが街が基本的に田舎のせいだろうか、この立衿のシャツがお店にあまり置かれていない。
  街着のためにシャツを誂えるのも躊躇する・・・・・し。
  かくして秋を迎えた。
  とすると、話は簡単である。
  サラリーマン時代のワイシャツの衿を切ればいいのではないか。
  切った痕をどのようにしまつするかは後にして、と、・・・・・とりあえずリフォームに取り掛かった。
  カッターナイフと小さな鋏でジョキジョキするのは2分もかからなかった。そして、切り痕のしまつは・・・・まったく必要なかった。
  要するに、ワイシャツの衿をジョキジョキと切れば2分で立派な立衿になったのだ。
  発想の転換と言うか、案ずるより産むが易しというか、
  シニアの皆さん。ラフなおしゃれは難しい。そう、衿を切って街に出よう。
  しかし、この話・・・お洒落な話というよりもチョット貧乏くさい話かも。

2012年10月17日水曜日

鄙の おかげ踊り

  「夕べ(15日)NHK京都で“岩船寺で踊りがある”って言うてたよ」と言うので、念仏踊りの一種かなと思いながら、そう遠くない当尾(とおのお)の里に車を向けた。(16日)
  正しくは、岩船寺の入口横の白山神社での“おかげ踊り”で、京都府登録無形民俗文化財。
  そして、京都市内の観光寺院と違って、NHK京都放送局のアナウンスにも拘わらず見物客は20人程度。何んとも鄙(ひな)びた伝統行事だった。
  “おかげ”とはもちろん、お伊勢さんのおかげ参り。
  だが少子高齢化のせいだけでもないだろう、刺激に溢れた現代社会ではお伊勢さんに向って「ええじゃないか ええじゃないか」と踊り狂うようなパッションは既になく、鄙の山里にふさわしいほどほどの・・・わりあい静かな“おかげ踊り”だった。それでいいのだ。
  ただ、当事者は意識していないのだが、だからこそ、年老いた神主(役?)二人が御幣を単調に上げ下げするのが返って滑稽で、その昔の余韻のようにも感じられた。
  そして、音頭の文句のところどころに伊勢音頭の文句が聞き取れ、わずかにそのあたりに、かすかな“おかげ参り”の残照を見た。

  “おかげ参り”と言えば、私が小学生の頃、私の祖母は「朝に戸を開けたら空からお札が降ってきたのや」と話していた。
  私は「あっそう」と言う程度に聞き流してきたが、今にして思えば、もっと聞いておきたかった。人生というものは常にこういうものなのだろう。
  私が子供たちに思い出を語ったりすると、子供たちは「あっそう」と受け流す。

2012年10月15日月曜日

どこか懐かしい郵便受

  妻が私に「我が家の郵便受が小さくて不満だ」「もっと大きいのを作れ」というので製作した。
  確かに、自治会の役員として広報関係の冊子を配ったり回覧板を回したりしたときに、何軒かの余所のお家の郵便受が小さくて困ったことがあった。
  アメリカ型のメールボックスは、彼の地では新聞は投函せずに別途投げ入れるというのが前提なのだからだろうか、これもあまり使い勝手が良くなかった。
  それに比べると我が家の郵便受はどちらかというと大きいほうであるが、新聞を複数とっているし、折り込み広告いっぱいの新聞が重なったり大判の書籍などの大型郵便が重なった時には不満を感じていた。
  そんなときに雨でも降ると、はみ出していた部分から雨が入り込んで嫌だった。
  なら、いっそう少々の大型郵便も新聞も意に介さないような大きな郵便受を作ってやれと挑戦した次第。
  もちろん妻の注文は「超格安で!」である。
  雨対策だけは台風にも耐えられるよう慎重に行なった(蓋の微妙な重さに苦労した)が、それ以外はできるだけ手造り感を出すようにした。
  一辺50センチ弱、これならチラシいっぱいの新聞を二つ折りでかつ何部重なっても心配ないし大型封筒も怖くない。
  デザインも何か昔懐かしい感じがして、妻にも合格点をいただいた。
  ただし、図面も作らず感覚的に作っていったものだから、途中で手直し・やり直しが重なって、目に見えない部分はボロボロである。
  それでも、この町で唯一の個性的でレトロな郵便受ではないかと気に入っている。

  その昔、小学校の夏休みの工作の宿題に郵便受を作った子供は多かった。だから、当時は手づくりの郵便受もたくさんあったが、今は我が町にそんなものは一つとして見当たらない。
  近頃の社会は少数意見や個性に対して不寛容な風潮があり、それ故に既製品まみれの生活に意識が縛られた既製品のような人生が生み出されているように見え、それはあまりに悲しくないかと言いたいが、世間は反対に「あんな無様な郵便受を手づくりしなければならないなんて可哀相に」と思っているに違いない。あ~あ。

2012年10月13日土曜日

空振りの鷹ウォッチング

  秋風が吹くとサシバやハチクマという「夏鳥である鷹の一種」がインドネシアや中国大陸南方目指して集団で大旅行を開始する。
  その旅行コースは例年ほとんど決まっていて、そういう「待ち伏せ」ポイントで待っていると感動的な大旅行を目撃できる。
  その一つが中央構造線上で、東吉野村と松阪市の奈良・三重県境にある関西のマッターホルン高見山(標高1248㍍)は中でも一番のポイントだったから、過去に何回も行ったことがあったが、我が家からは少し遠い感じがしてここ10年ほどは行っていない。
  そんな折「この京阪奈のごく近所にもポイントがある」と知って行ってみたのが交野市(かたのし)の交野山(こうのさん)。
  結論を言えばこの日は風向きが悪く(穏やかな南風のため)鷹にはお目にかかれなかったが、びっくりしたのはその眺望。北河内から大阪市内はもちろん、京都、北摂、明石大橋、淡路島まで眼下に見下ろす標高341㍍。
  東京スカイツリーの天望デッキはほぼ同じ標高だが、ここ交野山には窓ガラスはなく爽快感は比ではない。高見山の4分の1とも思えない。
  大阪北部の方々には「何をいまさら」ということなのだろうが、灯台下暗しとはこういうことを言うのだろう。私は知らなかった。
  頂上の観音岩で双眼鏡を覗いてみると、かつて勤めていた枚方の職場もすぐそこで、私にとっては感動的なひと時だった。

  さて、交野山の麓には七夕姫を祀る機物(はたもの)神社があり、室町時代創建との社伝よりも実際にはもっともっと古く、元々のご神体はここ交野山であっただろうというのが中国思想史及び我が国の古代史で著名な福永光司、千田稔、高橋徹先生等の指摘。
  そして、桓武天皇(生母の高野新笠は百済の武寧王の子孫)や文徳天皇が中国の天子に倣って道教に基づくと思われる「天神の祭り」を執行した対象の山も交野山をおいて外にないと・・・。
  さらに、ここは幻の長岡京の真南の聖地にも当たる・・ということは、つまり、交野山があるからこそ長岡京が彼の地に計画されたということになる。
  寄り道の話は尽きないが、機物神社、天野川、百済寺、星田妙見、磐船神社・・・ズバリ、ここは千年を越えるパワースポットで、交野山はその中心であったのだ。
  で、観音岩に七夕姫を見たのは古代史を読み過ぎたゆえの白昼の幻覚か。

2012年10月9日火曜日

秋の使者

  眩しさが勝ってかえって彩りの少なかった夏が終わり、どことなく秋らしさを感じさせる生き物が目につくようになった。

  瑠璃立羽蝶(ルリタテハ)は市街地で見られる蝶の中では一番美しいように私は思う。
  ただ、立羽蝶の名のとおり止まっているときは羽の表を閉じて立てている。
  このときに見える羽、つまり羽の裏は見事に地味な樹木のような保護色で、その差は正に「あっぱれ」と言いたい。

  褄黒豹紋蝶(ツマグロヒョウモン)は虫や鳥には珍しく♂よりも♀のほうが美しい。
  ただその理由が「毒蝶に擬態」と言われているから、チョット驚きつつ何となく納得したりする。
  「綺麗な蝶には毒があるわよ」と美魔女が鼻で笑っている感じがする。
  強烈な個性の彼岸花の横で藤袴(フジバカマ)が咲き始めた。
  山上憶良の秋の七草の歌のおかげで、そして源氏物語のおかげで秋の野草の代表選手というイメージが定着しているし、おまけにレッドリストにまで登場しているものだから、「はかなく」「可憐な」等の常套句を目にするが、現実にはほんとうに「どうと言うことのない」花である。
  それでも、毎年の開花を楽しみに待っているのは、そういう既成概念に乗っかる楽しさとでも言おうか、「今年の花もどうと言う事はなかったなあ」というマゾヒズムだろうか。

2012年10月6日土曜日

秋鮭の季節

  男というものは女の何十分の一しか値打ちがない。
  それが証拠に、あの筋子やイクラに比べると鮭(大阪弁ならシャケ)の白子は可哀相なくらいの捨値で売られている。
  こういう、需要が少ないというか、実はメディアで採り上げられていないという理由だけで不当に低い評価(価格)しか受けていない鮭の白子は可哀相ではあるが、これは我が家にとっては大歓迎なことで、メジャーな河豚や鱈の白子の値札を横目で笑いながらしばしば購入している。
  だからこういうブログで鮭の白子を礼賛すると、需要が増えて値段が上がらないかと卑しい心配をしながら書いている。

  先日の十五夜に、妻がこだわりのお店で「美味しそうなのが出ていた」と言って購入してきた。・・この地の大型ショッピングモールにはほとんど登場してこない。
  料理方法はいろいろあるが、シンプル イズ ベスト、今回はボイルをして生姜醤油をチョットだけ付けていただいた。
  まあ「箸休め」ではあるが皆に好評で、1歳半にも届かない孫が喜んで食べたので全員が驚いた。
  何回も指で摘まんで口に運ぶ仕草は心から美味しそうで、皆がその度に歓声を挙げたのだった。
  しかし考えてみるとこれは何も驚くことではなく、柔らかくて美味しいお魚を食べただけのことで、「メジャーでないもの・・・つまりは下手物(ゲテモノ)を食べた」と思うのはつまらぬ情報社会に毒された大人の偏った感覚でしかない。
  「世間の垢に汚されていない赤子」というのをしみじみと実感した。「うん、この子は素直にグルマンになるに違いない」と呟いて、お爺ちゃんのお酒の相手をしてくれる日を夢(妄想)見た。

  しつこいようだが、鮭の白子は不当に低い価格で、庶民の・・つまりは我が家の・・好評の一品である。
  故に、小人(私)は正当な評価が世間に広まることを極端に怖れている。
  よって、ブログ読者の皆さんがこのブログに触発されて「私も買ってみよう」などと「改心」されないことを心から願っている。

  ただし、このブログのラベルは爺ばか日誌である。