折口信夫の書いた「私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はゞむだとも思われる様式の、由来不明なる「為来り(しきたり)」によって、純粋にせられる事が多い。其多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与える。」〔上野誠著「魂の古代学―問いつづける折口信夫」(新潮選書)から〕というような一文が首肯できるようになったとき(歳)には「親孝行 したいときには・・」ということになっている。
笏は古代学にはよく似合う |
実母の断片的な記憶を縫い合わせてみると、実父の恩師に多賀(おおが)先生という神道の先生がいて我が家によく出入りしていたこと。祖母等船場の商家の女子衆は唯一の休みとして「おたかさん参り」をしていたこと。確か実父は神職の資格?を持っていたということ。・・で、もしかしたら多賀大社の講の一員だったのだろうか。しかし、それにしては実母は多賀大社に行ったことがないと言うし、事実は霞の向こうである。これ以上は解らない。
この笏は、掃除の際に実母が一旦は捨てようとしたのを私が「残しておこう」と言って残したもの。
これからは、この由来不明の笏を持ちながら神社成立以前の神々の声を聞いてみようかと思っている。
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